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あらゆる作品が「個人」に結びつく時代において、大切にしたいこと

◎ダウンタウンの松ちゃんのツイッターをフォローすることはあっても、吉本興業をフォローする人は少ない。

◎宇多田ヒカルさんをフォローすることはあっても、ソニーミュージックをフォローする人は少ない。

◎大根仁監督の作品が好きでも、東宝をフォローする人は少ない。

 ……最近よく思うのが、あらゆる作品は「会社や組織」に紐づくのではなく、携わっている「個人」に結びつくよなあ、ということです。(もう言われ尽くしていることかもしれないけど、ほんとそうだよなあと思ったので改めて書いてみます。)

 これまでは多くの人が、ある程度「会社やレーベル」を基準に作品を選んでいたように思います。「◯◯社」から出ている作品なら質が高いだろう、とか。メジャーなレコード会社から出てるからきっといいものなのだろう、とか。

 でも、いまはSNSなどを通じて個人が個人をフォローすることが簡単になったこともあり「この作品は誰がつくっているのか」「誰がプロデュースしているのか」が見えます。「メジャーなレーベルかどうか」はあまり関係なくなった。この流れは今後も加速しそうです。

 作品のクオリティは組織ではなく個人が担保する時代になった、という言い方もできるかもしれません。そういえば野菜だって「どこどこ産」と地名だけ書かれているよりも「どこどこの誰々さんが育てました」と書いてあるほうがなんとなく信頼できます。映画を観るときも「東宝の作品だから安心」というより「川村元気さんがプロデュースしてるならおもしろいだろう」と思う人のほうが多いはずです。消費者、ユーザー、読者は、組織やレーベルで判断するのではなく、どんどん「個人」の仕事を見定めるようになっています。

 これは個人にとってはチャンスとも言えるでしょうが、うかうかしてるとピンチにもなります。「◯◯社」の傘の下に入ってさえいればブランディングができていたのに、これからは「◯◯社」にいることの意味がどんどん薄れていくからです。「◯◯社の誰々さん」ではなく「誰々さんは◯◯社で仕事している人」という位置づけになっていく。これはいわゆる「クリエイティブ業」だけの話ではありません。営業や広報、飲食店の店員さん、タクシーの運転手さんなどあらゆる職業に言えそうです。

 日本人は自己アピールが苦手だし、自分を出すことは恥ずかしいこと、という認識の人も多いように思います。「職人」として「いい仕事さえ」していればいいのだ、という考え方もあるでしょう。でも、あらゆる仕事の成果、評価が個人に紐づくようになった時代においては、少なくとも自分がこの仕事の質を担保するのだ、という意識が大切だと思います。消費者、ユーザー、読者は「誰の仕事か」を見るようになっているからです。

魅力的な個人がたくさんいるから魅力的な組織になる

「じゃあ会社やレーベルはもう意味がないのか」というと、そんなわけはありません。魅力的な「個人」がたくさんいる会社が魅力的な会社だからです。「ダウンタウンやナインティナインや雨上がり決死隊がいるから吉本興業(よしもとクリエイティブエージェンシー)はおもしろい会社だ」という評価が生まれます。まず個人。そして組織。という順番です。

群れを飛び出しても生きていけるような人間が集団を作った時、その組織は強くなる。

 弁護士であり法学者の河上和雄氏の言葉です。

 そもそも戦後、会社がタケノコのように生まれてきた時代は、当たり前ですが、会社は「ブランド」ではなかったはずです。パナソニックというブランドはなく、松下幸之助という魅力的な個人がいた。ソニーというブランドはなく、盛田昭夫という魅力的な個人がいた。そういう個人が集まり、魅力的な個人が集まって力をつけていった結果、「魅力的な組織」になったのです。

 いまの成熟した日本の会社に「ブランド」はあるでしょう。戦後の魅力的な個人が奮闘してくれたからです。しかし、そのブランドだけをあてにして、漫然と仕事をしていればいいという時代ではなくなった。個人が際立つことは組織のブランドを磨くことにもつながります。際立った個人をたくさん抱える組織こそが、これからの魅力的なカッコいい組織になると思うのです。

 最近の僕を動かしているのは、このままでいいのかという危機感です(もちろんワクワク感も同時にあります)。消費者、ユーザー、読者が個人を判断基準にし始めた今こそ、少なくとも自分がどういう人間なのかを伝えておきたいなと思います。noteを最近がんばってるのも、そういう思いがあるからだったりします。

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