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パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡/鹿島茂

引き続き、年末年始に読んだパリ関連の本の紹介を続けたい。
年末になる前に読み終えた『ニンファ・モデルナ』も含めて、先日、先々日に紹介したユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』、そして、それを解説した鹿島茂さんの『ユゴー ノートル=ダム・ド・パリ: 大聖堂物語』と、立て続けにパリについての本を読んでみたわけだ。

その中で今回紹介するのは、ひとつ前と同じ鹿島茂さんの本で『パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡』
薄い文庫本なのでさくっと読み終える。
2019年に最後にパリを訪れた際に足を運んだギャラリー・ヴィヴィエンヌやパサージュ・ジュフロワなど現役のパサージュも紹介されていて親しみを感じながら読んだ。

パサージュとは

パサージュと通常呼ばれるものは、フランス語では「パサージュ・クヴェール(passage couvert)」で、ガラス屋根で覆われた通り抜け道であり、パサージュだけでは通り抜けのみを意味し、ガラス屋根に覆われているかは問われない。しかし、日本においてはヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』(次はこれについて書く予定)の紹介以来、「パサージュ」という言葉が定着してしまったこともあり、その言葉がガラス屋根のついた通り抜け道を意味するようになっている。僕自身もそう思っていたが、言われてみればそうだ。

そんなこともあって、この本で、パサージュは次のように定義される。

  1. 公道と公道を結ぶ、自動車の入り込まない、一般歩行者用の通り抜けで、居住者専用の私道ではない

  2. 屋根で覆われていること

  3. その屋根の一部ないしは全部がガラスないしはプラスチックなどの透明な素材で覆われており、空が見えること

定義の1番目の「自動車の入り込まない」というのは、いまのまちづくりでも語られることのない「ウォーカブル」に通じるところで、なぜパサージュが歴史上のごく限られた期間だけでも成功したかを語る要因だと思う。建物内のように一部の人しか入らない場所でなく、かつ自動車や天候などに邪魔されずに見知らぬ者同士でも人と人の交流が可能なところににぎわいは起こる。19世紀のパリにおいて、パサージュはそうした場所として人々のにぎわいを創出した。

この定義で現在、パリに残るパサージュをカウントすると、19のパサージュが現存するそうだ。この19のパサージュがこの本では紹介される。

現存する19のパサージュのマップ

パサージュの原型

1786年には、パレ・ロワイヤルにギャルリ・ド・ボワ(木の回廊)と呼ばれるその名のとおり木造の仮建築での商店街がつくられた。これがその後のパサージュの原型となるものだ。

ギャルリ・ド・ボワは両脇にブティックがずらりと立ち並んだ閉鎖式の商店街であるばかりか、その屋根の一部がガラスで覆われ自然光が上から差し込んでいたからである。

当時のパレ・ロワイヤルは1661年にルイ14世がルーヴル宮に移り住んで以来、王宮という名の機能は失い、1692年にはオルレアン家の所領となって、1781年からは5代目当主のフィリップ・ドルレアンが保有していた。
この当主が浪費癖ゆえに借金の返済に困り、パレ・ロワイヤルを手放す瀬戸際まで追い込まれたときに浮かんだのが、中庭を改装して回廊式のショッピングセンターをつくって分譲するという妙案だった。

この案が当たって、ギャルリ・ド・ボワはパリ随一の盛場として君臨。パレ・ロワイヤルはパリの盛場の覇権を制することになる。ギャルリ・ド・ボワ自体、仮建築としてつくられながら40年以上も使われることになった。取り壊しが決まったのが1827年、すべての店舗が撤去されたのが1829年。すでにその頃には多くのパサージュがつくられていた。

パサージュの誕生

パリにパサージュがつくられ始めるのは、ナポレオン治世のフランス第一帝政にあたる1790年代である。ギャルリ・ド・ボワが建てられ成功して、ほんの数年後だ。

当時のパリは1853年にはじまるオスマンのパリ大改造前で、中世以来自然発生的に建てられ続けた建物による街路構造によって、2本の公道を結ぶ抜け道がどこまでいっても存在しないという不便さがあちこちに見られた状態だったという。
この不便さに目をつけたのが土地を所有する投機家たちだ。公道同士のショートカットとしてパサージュをつくることを思い立ち、その両側に店舗の賃料が高く保たれるしくみとして、先のギャルリ・ド・ボワにならって道のうえに雨に濡れないガラス屋根をつけた。まだ舗装されてない通りも多かったなかで雨にも濡れず、足元も汚さずにすむパサージュが人気になることは容易に予想できたわけである。

こつして最初のパサージュ、パサージュ・フェイドーが1791年につくられる。続いて1798年にパサージュ・デュ・ケール。これが現存する最古のパサージュである。1800年にはパサージュ・デ・パノラマができるが、これも現存するものだ。

現在のパサージュ・デ・パノラマ

1812年のパサージュ・モンテスキューまで、1810年代までにこの3つを含め、6つのパサージュがつくられたが、その後のパサージュと違ってガラス屋根を支える構造体が鉄ではなく、木材が使われていたそうだ。

パサージュの全盛期

その後、1915年に王政復古が実現したのち、1821年にパサージュ・ド・ロペラ、1823年にパサージュ・デュ・ポン=ヌフと続いて、先にも名前を出したギャラリー・ヴィヴィエンヌが1823-25年につくられる。

現在のギャラリー・ヴィヴィエンヌ

1820年代はパサージュの建設ラッシュとなり、20件のパサージュがつくられたと記録されている。この頃になるとガラス屋根を支える建材も鉄が使われるようになったという。

もちろん、20もつくられれば商業的に成功したパサージュもあれば、不成功に終わったものもある。

たとえば、パレ・ロワイヤルからグラン・ブールヴァールにパリの盛場の覇権が移っていくなかで両者を結ぶ位置にあったヴィヴィエンヌ通りは第3の盛場としてにぎわいはじめていたが、狭く馬車の行き来も激しいため落ち着いて買い物をするには適していなかったことに目をつけて開業されたのが先のギャラリー・ヴィヴィエンヌだ。

前代未聞の成功だった。設計者のドゥラノワが、敷地の高低差があるうえ、マルショーの地上げした地所が妙な具合に分散しているという欠点を逆手に取り、パサージュを、折れ曲がったり、横枝が出たり、円を描いたりと、まるで鍵のような変化に富む構造にしたのが成功の原因だった。すなわち、それまでのパサージュが2本の街をショートカットする単純な通り抜けであったのにたいし、ギャルリ・ヴィヴィエンヌは、その構造の複雑さゆえに、このころから流行の兆しを見せていた散策(フラヌリ)に大きな喜びを提供する結果になったのである。

フラヌリ。これは現代における街のにぎわいを考える上でも重要な観点だろう。ただ通り抜けるだけの道はにぎわわない。そこで適度な停滞が生まれることで、人通しの交流のきっかけが生じやすくなる。

しかし、ギャラリー・ヴィヴィエンヌと並行するように、1826年に建てられたギャラリー・コルベールは商業的には不成功に終わった。建築は美しく賞賛されたが、肝心のにぎわいはついに生まれなかったという。

パレ・ロワイヤルが商業的には衰退し、ほかの盛場も交通が馬車から鉄道に変わるに連れて人気がなくなり、グラン・ブールヴァールが一極集中するなどの立地の問題も含め、20件つくられたパサージュも成功し、継続したものとそうでないものに明暗が分かれたそうだ。

パサージュの衰退

1830年に7月革命が起こり、ルイ・フィリップを王座とする7月王政が成立すると、フランスは産業革命を経て発展に向かうが、この時代、パサージュ建設ラッシュは一段落する。ちょうどユゴーが『ノートル=ダム・ド・パリ』を出版した頃である。つまり、ユゴーは20年代のパサージュ建築ラッシュにも変わりゆくパリの街並みのさまをみて嘆いていたのだろう。

30年代以降に建てられたパサージュとしては、1847年開通のパサージュ・ジュフロワが成功例であり、ある意味ではこれが最後の成功したパサージュとなる。

パサージュ・ジュフロワは、中心あたりで折れ曲がり、そこにホテルと劇場がある。その奥にある古いポスターなどのある店は雰囲気がよいなと行ってみて思った。

現在のパサージュ・ジュフロワ

パサージュが50年代前後に衰退しはじめる理由のひとつは、新たな商業施設として、百貨店が登場しはじめたことが大きい。1852年に開業した世界最古といわれるパリ7区にあるボン・マルシェは、バーゲンセール、ショーケースでの商品展示、値札をつけての定価販売などの百貨店としてのシステムを確立。これがパサージュから人を奪う。

そして、何より1853年から開始されたオスマンによるパリ大改造だろう。公道どおしをつなぐ抜け道のない不便さの解消がパサージュのひとつの存在理由だったが、オスマンによるパリの街路構造の改変はこの存在理由を消す。わざわざ人で混雑するパサージュを通り抜けなくても、不便なく公道間を行き来できるようになったのである。


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