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まちをつくる人を、つくる

たまには、本の紹介以外のことも書いてみよう。
まずはウェルビーイングなるものから話をはじめてみようか。

最近、仕事をするなかで、「ウェルビーイングな社会を実現する」といったテーマが明示的か、非明示的なかたちかを問わず据えられることが増えている。

背景には、岸田内閣で示されたデジタル田園都市国家構想で明示された地域が新しく目指す方向性もあるだろう。
デジタル庁から提示されている「デジタルから考えるデジタル田園都市国家構想」というPDF資料をみても、「デジタル田園都市国家構想の目指すべきもの」として、

  • 地域の「暮らしや社会」、「教育や研究開発」、「産業や経済」をデジタル基盤の力により変革し、

  • 「大都市の利便性」と「地域の豊かさ」を融合した「デジタル田園都市」を構築。

  • 「心ゆたかな暮らし」(Well-being)と「持続可能な環境・社会・経済」(Sustainability)を実現。

ということが掲げられていて、ウェルビーイングはサステナビリティと並ぶかたちで「デジタル田園都市」が実現された際の地域がもつ状態のひとつとされる。

社会をリアルに捉えるには?

この「大都市の利便性」と「地域の豊かさ」を融合した「デジタル田園都市」を構築することでウェルビーイングとサステナビリティが実現された状態を各地域に実装していくという方針に僕は賛成だ。
だから、「ウェルビーイングな社会を実現する」ことをテーマとするプロジェクトに関わることにポジティブである。

しかし、だからこそ、「社会とは何か」とか、ウェルビーイングの状態を目指す上で「では、何がこれまで人々の暮らしをウェルビーイングな状態から遠ざけてきたのか」を問うことが必要だと思う。それをせずに、単にお題目のように口先だけ「ウェルビーイングな社会を実現する」というテーマを掲げる試みにはネガティブな印象を受けてしまう。

社会とは単に抽象的な概念ではないと思う。
もちろん、そう捉えることも可能性だが、「ウェルビーイングな社会を実現する」という文脈では抽象的に捉えてしまったのでは、僕らの暮らしや仕事がウェルビーイングな状態になるようにするための思考作業に結びついていかない。
実際、社会というものを抽象的な言葉としてしか認識できていないがゆえに、ウェルビーイングな社会をつくるために何を考え、どう行動すればよいかの議論が進まない場面によく出くわす。社会とは何か?を具体的にイメージしないまま、検討が行っても意味のある発想は生まれてこない。

社会というものをもっとリアルに捉えたい。
リアルに、というのは、僕らが実際に暮らし、働き、ほかの人たちと交流しながら、生きていく現実の場として社会を捉えるということだ。
その場合の社会というものは、僕らが実際に住んでいる街であり、働く街であり、ほかの人との交流をする街であるはずだ。知らない街ではなく、僕らの人生とは関係ない街ではなく、僕らが現に生きている街だ。街を社会と捉えることで、社会は抽象的な場所ではなくリアルになる。一律な社会などというものはなく、それぞれ個性をもった街の姿が見えてくるはずだ。

そんな観点から捉えた場合に、デジタル田園都市国家構想で目指される「大都市の利便性と地域の豊かさを融合したデジタル田園都市」という考え方に僕はポジティブに賛同できる。それぞれ異なる個性をもった街としての地域。この個性こそが豊かさをつくり、この地域の豊かさこそ、目指されるウェルビーイングな社会の言い換えだと思う。個性を殺すような一律的なまちづくりをしてはならない理由でもあると思う。

単なる物理的な場所ではない「街」

街というものに対するイメージもちゃんと考え直してみる必要がある。というのも「まちづくり」という言葉を使うとき、2つの街の捉え方があるように思えるからだ。

ひとつはまちづくりを不動産を中心とした都市開発や交通網の整備などハード面での取り組み(いまだと、ここにDXやスマートシティというキーワードでICT的ソフト面の整備が加わる)だと捉える見方と、もうひとつ別に、人びとがたがいに交流しあうなかで生まれる活動――働き、学び、会話をし、移動し、休息をとり、食事をし、買い物をし、掃除や洗濯をし、子育てや介護をし、健康に配慮し運動をし、さまざまな遊びをしさまざまなケアをしあう、そんな日々誰もが行う活動――を含めてまちづくりと捉える見方がある。
もちろん後者はハードしての街というものを排除するものではないが、前者は後者を排除して考えがちだ。まあ、配慮するというより視野に入れられないといったほうが正確かもしれないが。

古くからビジネスの場で交わされがちなのは前者だ。だが、暮らす場所、働く場所、交流する場所として街は、物理的な場所であるだけではない。建物や公園などの屋外施設からなるものではない。街は単なるハードではない。
建物には、お店、学校、病院、工場、駅などの機能があるし、それぞれの機能をもった建物内では人びとによる活動が行われる。活動には経済的なものもあれば、非経済的なものもあり、どちらも「街」が持続的に存在するためには必要だ。
もちろん、建物の外、屋外施設や街路などの中間領域においても人びとの活動がある。いや、むしろ、建物も屋外施設も中間領域も、人びとの活動のためにあるはずだ。人びとの暮らしがウェルビーイングなものになるためには、そうした活動がより良いものになる必要がある。

生活の質から考えるまちづくり

これに関するのは、生活水準と生活の質の違いだろう。
デンマークの建築家であるディビッド・シムは、著書『ソフトシティ 人間の街をつくる』のなかで、その2つの区別について、こう書いている。

生活水準と生活の質の大きな違いは、私の考えでは、生活水準が私たちのもっているお金とその使い方によって決まるのに対して、生活の質は私たちのもっている時間とその使い方にかかわる点である。一方は量にかかわり、他方は質に関わる。一方は物質にかかわり、他方は経験にかかわる。生活により多くのものを供給し受容する方法を探すのではなく、代わりに貴重な時間のよりよい使い方を手に入れる方法を考え、生活に重荷を負わせるのではなく負担を軽減し、仕事・子育て・健康維持・買い物・家政・近所づきあいの日常的な重圧と葛藤を日々の喜びに変える一助にしたい。

ディビッド・シム『ソフトシティ 人間の街をつくる』

物質に関わる「生活水準」と経験にかかわる「生活の質」。言うまでもなく後者がウェルビーイングで問われているところだ。

ディビッド・シムがそうした生活の質を高めるために、この本で示す豊かな経験をつくるための装置としての建築や広場や街路、交通の提案は、いまの日本の都市のあり方は大きく異なり参考になる。

エレベーターなしでも登れるせいぜい5-6階建ての複合的用途(住居、オフィス、店舗など)からなる建物、それらの建物が集まってセキュリティが確保された住民たち共有の小さな中庭をつくる囲い地型の配置、自動車の入ってこれない歩行者中心のウォーカブルな街路設計や自転車や公共交通中心の交通網は、建物から街路へとはみ出したテラス席やお店の売り場と相まって、複数の機能が重層化された低層の建物からなるヒューマンスケールの街に人びとが交流する機会をもたらしてくれる。それがこの本で提示されるソフトシティのためのデザインだ。

ディビッド・シム『ソフトシティ 人間の街をつくる』より

前回まで、パリについての話を書いてきたが、パリも含めてヨーロッパの街はこうしたソフトシティ的なデザインが行われていることが多い。
街路にはカフェをはじめとする飲食店のテーブルが広げられ、天気が良い日は、店内はガラガラなのに外のテーブルは席が埋まっていることは珍しくない。

昨年、グランドレベルの大西さんとイベントで話をさせてもらった際、江戸時代の絵は人で賑わっているのに対し、いまの東京は人の姿が見えない場所が少なくないと話していたのが印象的だった。人口密度は圧倒的にいまの方が多いのに街に賑わいがないのは、みんな、建物のなかにこもってしまっているからだ。ヨーロッパの街とは正反対のエレベーターがなければ登れないような10階建以上が当たり前のような都市の建物のなかに。

人の姿が見えないのに街で交流は起こりえない。街の賑わいは大きなオフィスや大規模商業施設の建物のなかに吸い込まれてしまっているからだ。

企業と地域のこれからの関係

ところで、地方に行くと、高校生や大学生が街に遊ぶ場所がないという声が当たり前のように聞かれる。大規模商業施設やカフェをはじめとしたチェーン店の出店がないからだ。当然ないのは、その商圏の人口密度が低くて出店しても採算がとれないからにほかならない。もちろん、これはいまにはじまったことでもないのだが、今後はさまざまな地方でさらに人口が減少していくなかで、この傾向はますます顕著になる。

地方創生だの、スマートシティ構想といっても、そうした地域に対して大企業にできることは限られている。地方の問題と大企業のビジネスモデルがあまりに一致しなさすぎる。大企業中心の消費モデル一辺倒な状況は、ソフトシティのモデルとはかけ離れたものだ。
一方で、地方がこのまま衰退していけば、大企業が日本で生き残っていくための基盤そのものが崩壊するだろう。大企業は別の関わり方で、地域の活性化に貢献する道を探る必要がある。

そのとき、視野に入れるべきは、2020年9月、経済産業省が公表した「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書〜人材版伊藤レポート〜」だ。
このレポートでは「人的資本経営」の重要性、「経営戦略と人材戦略の連動」の必要性が説かれていることで話題となった。人材を管理の対象としてではなく、価値創造の担い手としての人的資本と捉え、これまでのような企業と従業員がべったりの相互依存の関係から、いかに個が自律し活性化した状態にシフトしていくかが重要になると書かれている。

経営戦略と連動した人材戦略の要点として挙げられるのが、次の5つの要素だ。

  1. 動的な人材ポートフォリオ

  2. 知・経験のダイバーシティ&インクルージョン

  3. リスキル・学び直し

  4. 従業員エンゲージメント

  5. 時間や場所にとらわれない働き方

ここでの話題に関係するのは、最後の「時間や場所にとらわれない働き方」だろう。所属する企業に依存しすぎることなく、自律的に社会に対して価値を生み出し、提供できるようになった創造的な人材は、企業とのエンゲージメントを維持しつつも、その活躍の場を地方に求めるようになっていくはずだ。「時間や場所にとらわれない働き方」が実現されたとき、大企業で働く人に限らず、企業と地域の関係が変わってくるのではないかと思う。

その際、企業のなかの仕事をすることと、地域のためになる仕事をすることを同じひとりの人が掛け持ちできるような仕組みとして、従来のお金とは別のお金があるといい。もう一方のお金は地域内だけで流通する、時とともに減価するゲゼル型通貨であれば良いだろう。

群衆であることと倦怠感

旧来型の社会は、価値を提供する人と提供される人はきっちり区別される傾向にあった。そんな社会で市民は消費者として扱われ、群衆と見做された。

「「深いものは群衆である」、だからヴィクトール・ユゴーの孤独は、〔群衆で〕ふんだんに満たされた孤独となる。」ガブリエール・ブヌール「ヴィクトール・ユゴーの深淵」(『ムジュール』誌、1936年7月15日号)。この論文の筆者は、ユゴーにおける群衆体験の受動的性質を強調している。

ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』

ヴィクトル・ユゴーは『ノートル=ダム・ド・パリ』で群衆劇を描いたが、本当の意味で、個々の顔を持たない群衆が生まれたのは、ユゴーが描いた15世紀のことではなく、ユゴーが生きた19世紀のことだ。
パサージュが生まれて遊歩者=フラヌールがそこに並んだきらびやかな流行品目当てにうろつき回るようになり、さらに百貨店がパサージュのあとを継いで群衆としての消費者を飲み込んだ。

百貨店の創立とともに、歴史上はじめて消費者が自分を群衆と感じ始める。(かつて彼らにそれを教えてくれたのは欠乏だけであった。)それとともに、商売のもっている妖婦めいた、人目をそばだたせる要素が途方もなく拡大する。

ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』

さらに、こんなベンヤミンの言葉を引いてみたら、どうだろう。

群衆のまばゆいばかりの活気という感情を植えつけ、「群衆と孤独とは、同等で、しかも、活動的で多産な詩人なら変換可能な語だ……」ということをボードレールに教えたのはヴィクトール・ユゴーである。

ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』

群衆と孤独は同等だという。はじめの引用の意味がこれで明確になる。「ユゴーの孤独は、〔群衆で〕ふんだんに満たされた孤独である」。だとすれば、群衆としての消費者、市民は、たくさんの人に囲まれていても常に孤独を感じ、消費によってまぎらわすしかない時間のなかで退屈を強烈に感じざるをえない。

だから、街に大規模商業施設のない地方の学生たちが遊ぶところがないと嘆くのが普通になったのが、19世紀のはじめということになる。ボードレールがその詩でうたったように、19世紀は「倦怠感」が生まれ、社会を覆った時代でもある。

僕らは新しい社会の市民として、そんな倦怠感に取り憑かれた消費者である状態から抜けでる必要がある。社会=街をつくる人として、自分のなかの創造性を発揮していく必要がある。

まちをつくる人を、つくる

デジタル田園都市国家構想の「大都市の利便性と地域の豊かさを融合したデジタル田園都市」における利便性のほうはある程度大企業や自治体の手を借りねばならないが、地域の豊かさのほうはその地域に住んだり働いていたり他所の地域に身を置きつつもその地域に関わろうとする人びとの手で民主的につくられる必要がある。なぜなら、その豊かさとはソフトシティでいわれる街における体験にほかならないからだ。

とはいえ、体験を体験のみでつくろうとするのはむずかしい。体験をうみだすための街の装置やプログラム、活動を創造し、デザインし、実装できる人材が必要だ。そういう「市民参加型のまちづくり」にコミットできる「つくる人を、つくる」場を用意することが急務ではないか。新しいことを積極的に学ぼうとし、新しいことにチャレンジしようとする人たちのための場をつくりたい。

付け加えれば、つくる人同士が共創できることが大事だと思う。協働(collaboration)ではなく、共創(co-creation)であることが大事だ。協働と共創を同じ意味に捉える人がいるが、そういう人は"co"の部分に目を奪われすぎているのだと思う。大事なのはそこではなく、labour=労働なのか、creation=つくるなのかの違いだ。そう、ここでの「つくる」は、makeではなく、createだ。
市民参加型のまちづくりによって、ウェルビーイングを実現しようとするなら、そこにはまちをつくる人たちがいて、その人たち同士が共創できる状態がなくてはならない。

最近、そんなことを考えながら仕事をしている。
このあたり、いろんな人と話し、協力し合いながら実現していきたい。

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