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鼻毛カッターに奪われた時間を取り戻すべく、筍を焼く。

筆が進まない。
特段スキルがあるわけではないが、Web記事の執筆をメインにほそぼそ生計を立てている私にとってこれは割と死活である。

主にプライベートでセンシティブなお悩みが頭の中に充満しているのが要因だと容易に想像はつくが、そうも言っていられない。

どれだけ頭の中が悩みに埋め尽くされていようと、メシのことだけは殿堂入りしたかのように別枠で考えられるのだから。
きっと仕事のことも少しは考えられるはずだ。

おそらく私の脳には、メシのことを考えるために特化した新たな器官が発達しているに違いない。そいつの発達によって脳内が圧迫され、情報伝達のルートが変わらないことを祈る。


なんとかこの状況を打開したい。
集中力アップミュージックを聴いたり、瞑想したり、25分の集中と5分の休憩サイクルを繰り返すポモドーロ・テクニックを活用したりする。

しかし、ダメである。どうやったって駄文しか綴れない。
不自然な文の羅列に自分でも気持ち悪くなる。駄文でもとりあえず生み出せれば良いのだが、何も書けなかったりもする。

この状況に拍車をかけるのが、右鼻の穴奥にひょこりと顔をのぞかせている太短い鼻毛である。

エチケットが生んだ魔物である。
鼻毛カッターで刈り取ったが故に生み出された。

異様なまでにチクチクし、見えないが、テンションをかけて離すとぷるるんと勢いよく元に戻ろうとする様が目に浮かぶ。


これが気になり出したら、その日はもうほぼ終わりと思っていい。

太くて短い鼻毛など私にとって無価値で、無害なとるに足りない存在のはずだが、掴めそうで掴めない絶妙な距離感に気づけば虜になっている。

指で引っ張るのを諦めては、ピンセットを取り出し、それでもなかなか掴めない。ピンセットで粘膜を削り取るリスクに怯え、また仕舞う。それの繰り返しだ。

皮肉なことに、この時は集中力が極度に高まっている。
その証拠に無理に掴もうと爪を突き立てた指の腹がギタリストの指のように固くなっている。

そのままピンセットを筆に持ち替えれば、集中力を持続できるのではと思い、できる限りシームレスに執筆に移行するのだが、ピンセットを手放した瞬間、同時に指先から集中力がこぼれ落ちてしまう。

あぁダメだダメだこんなことをしていてはと、鼻毛の存在を振り払い、またPCに向かうのが、数分と持たず、鼻毛がずんずんと頭をもたげてくる。

ええい、こうなったら引っこ抜くまで諦めまいと、本腰を入れて鼻毛除去に取り掛かる。

洗面所の鏡前に仁王立ちし、白昼にも関わらず、あかりを灯す。
鼻の穴をカーッと広げ、鏡に急接近する。かなり見えにくいがちょこんと頭をのぞかせているやつがいる。こいつなのか。本当にとるに足りない雑魚に見える。

位置にあたりをつけ、ピンセットを差し込んでいく。
面では掴めないので、点で掴めるように微妙に角度調整する。

ピンポイントで掴もうと何度か試しているうちに、掴んだ感触を得た。
これを離してはいけない。慎重に上下左右に動かし、この方向だというあたりをつけてひと思いに引き抜いた。

抜けた。
抜けてしまったらやはりとるに足らない存在だった。

抜けたところで鼻毛に費やす時間がなくなっただけで、執筆が手につかないという現状に変化はなかったのである。

しかし、あまりの太短さに一種のコレクション欲が刺激され、観葉植物用に購入した花瓶に一度活けた。2時間後、我にかえり捨てた。


そんなこんなで毛穴と戯れ、気がつけば日が傾いていた。
できれば毛先で遊ぶようなエアリーさが欲しかったものだ。

このままでは要約すると今日という1日が鼻毛の日になってしまう。
そんな焦燥感に背中を押され、気づけば庭先で筍を焼いていた。

デカ筍。焼けなさそう。

華麗なる転身である。
これで鼻毛の記憶は跡形もなく消え、筍dayに書き換えられた。

親戚から入手した筍は明らかにコンロに収まりきらない。
私の自慢のユニセラロングでも焼くのは一苦労だ。

入らなさすぎて、もはやフードコートのマックのゴミ箱のようになっているが仕方あるまい。

雑多に放り込まれた野菜たち。それでも旨くなるポテンシャル。

先日の淡路ドライブで入手した新玉ねぎも焼いていく。
アルミホイルに包み、熾火に放り込んでいく。

さらに野菜丸焼き界で最もうまい茄子も直接炭に放り入れる。

本当はもっとぷっくりした茄子が良いのだが、この日は急遽だったので、母が新たに買ってきた新野菜に押されて冷蔵庫壁にへばりついていた、たった1本の細古茄子を焼く。

焦げ皮を剥いた後の茄子。相変わらず、食いたさが勝って写真がおざなり。

激アツの焦げ皮をなんとか剥いでいく。
シンプルに醤油にちょんと浸し、カニ足のように頬張ればそのジューシーさにほころぶ。

新たまもいい感じ。
一番外の皮が飴色に焦げ、中はジューシーに仕上がっている。これは文句なくうまい。

相変わらず早く食いたいが勝ち、おざなりの撮影の新たま。じゅるりと瑞々しい。

筍はまだまだかかりそうなので、火の番をしながらみうらじゅんの「自分なくしの旅」を読んで自分をなくす。

火をおこしてから2時間ほど経っただろうか。

自分がなくなりかけたところで、食卓からママのご飯よという声で自分が全員カムバックする。

食卓から麻婆のかおりが漂っている。
スパイスにまみれた主菜に、果たして何の味付けも施されていない赤子が戦えるだろうか。

小ぶりの筍を剥いてみる。
剥けども、出てくるのは毛の生えた皮ばかりで狼狽する。

最終的に可食部は小指ほどのサイズ。
2時間の対価のミニさに震える。

剥けども剥けども姿を現さぬ可食部。

父母と3分割し、ガルボくらいのサイズになった筍を醤油にちょんづけし、口に放り入れる。

普通には旨い。
しかし、2時間との引き換えと考えるとなかなか厳しい貿易である。

もう一体でかいのがある。
こいつはどうだ。今度はあまり剥かずに包丁で縦に割ってみる。

縦割り筍。実物はかなりでかい。ダイオウグソクムシくらいはありそうだ。

竹を割ったような物言いで言うと、鬼固かった。
しかし、ところどころ食べられる部分はあり、ほろ苦き春の味がした。

最終的に、鼻毛に支配された1日という感想になりかけたが、鼻毛を引っ張っていた指には炭臭が染みついている。

今日はちゃんと筍を焼いた日である。
料理をするとやはり何かが晴れる気がする。

次は新たまの良さを殺すかもしれないが、タルタルをヌチャチャと作ろうか。


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