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心と身体は歯車のように

ここ1年で億劫になったのが運動である。

元はといえば体育会系の環境で育ってきた。

上下関係やらそういった状況は面倒臭いと思いながら身体だけは動かし続けてきたのだ。そういった身体を動かし続けてきた習慣は年を重ねても変わる事はなかった。動かさないと自身が錆びていくような感覚を覚え、ムズムズして、週に1回は大学生、社会人となった後も走っていたのだ。

根底として哲学者アランの「幸福論」の思想に傾倒していた。

彼は心と身体に力強い繋がりがある事を教えてくれる。

幸福になりたければ礼儀正しくあれ。

礼儀作法の習慣はわれわれの考えにかなり強い影響力を及ぼしている。優しさや親切や喜びの仕草を演じるならば、憂鬱な気分も痛みもかなりのところ直ってしまうものだ。こういうお辞儀をしたりほほ笑んだりする仕草は、まったく反対の動き、つまり激怒、不信、憂鬱を不可能にしてしまうという利点がある。だから社交生活や訪問や儀式やお祝いがいつも好まれるのである。それは幸福を演じてみるチャンスなのだ。

アランの幸福論

*行動*や*振る舞い*で自身の幸福度は左右される。

この礼儀というのは決して他人の為だけではない。自分の為だ。また礼儀作法は他者に向けるだけでなく、僕は自身の心と身体にも礼儀を持って接するべきだと思う。だからこそ身体が動きたいとゾクゾクすれば、ただ動かしてきた他ならないのだ。自身の身体をリスペクトしていた。

ある時、僕は運動を辞めてしまった。身体は声をあげていたのかも知れないが、無視をしてしまった。虚無感に苛まれていた。全ての行いが無意味に感じてしまう心。その心が身体すら止めてしまったようだ。すると身体も心もずるずると沈んでいった。疲れていたから休む事を選んだのかも知れない。散歩でも外を出歩けば、もう少し持ち直せたかも知れない。答え合わせはできない。ただ、不可能な答え合わせを受け入れることが生きる事だと思う。

今日は久しぶりに身体の声が聞こえた。最後に走ったのはいつ振りだったっけ?とふと頭に浮かんできた。そして紐づくようにアランの幸福論を思い出した。

やはり心は無気力で本調子ではなさそうだ。若い時は「俺は何にでもなってやる。」と薄らとでも覚えていた自分はいたが、年を重ねるたびに自身の可能性が狭まっていく事に恐れていってしまっていた。正直に言うと、その気持ちは拭えているわけではない。

心と身体は歯車のように繋がっている。まずはゆっくりでいいから身体の歯車を回していく。足が地面につく感覚を大事にしながら前に進む。いつの日か身体が心の歯車も前に運んでくれる事を祈りながら。

今日はお天気だった。日差しが強くて倒れそうではあったが、お天道様に感謝である。買い物に出歩いて良かった。声が聴けたから。明日は身体を取り戻し始める第一歩にしたいな。とか言ってみる。


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