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金蝶饅頭はなぜ、ぬくもりの味がするのでしょう?   ~吉田すゑの物語~ その2

それは、
おすゑ婆さんの心だから

金蝶饅頭の生みの親は、当店の初代店主吉田すゑ。〔天保十三年(1842年)十月十七日生まれ 明治三八年(1905年)九月十六日死去〕
江戸の終わり、新撰組や篤姫と時を同じくして、吉田すゑとお饅頭の物語も始まります。
彦根藩の奥女中として奉公していた、おすゑさん。男勝りな性格で料理や菓子つくり等、何にでも挑戦したそうで、その腕前は城内でも評判だったそうです。
桜田門外の変にて当主井伊直弼が殺害され、城中の混乱のおり「お家さがり」となり、実家のある大垣に帰ってきたのでした。
縁あって、地元の釘職人 野原宗次氏と結婚するも、野原氏はその仕事柄か、外出が多く何日も帰らない日が続き、生活もままならない。そこで、おすゑさん、お城で学んだ菓子つくりを活かし、軒先にお菓子を並べて売り出しました。そのお菓子の美味しさの評判は瞬く間に広まり、当時の大垣藩の城代、小原鉄心の御用も賜るようになりました。お酒と甘いものがめっぽうお好きな破天荒な名藩老は、おすゑさんのお菓子と、何よりその人柄をよくよく好んでくださったそうです。

鉄心の別荘「無何有荘」での観梅宴の折、鉄心に「汝、女なれ共男子を凌ぐ気概あり。果して然らば古今に秀する銘菓を製せよ。」
と命ぜられ、一念発起したおすゑさん、京へ修行の旅にでたのでした。
幕末の動乱の中、大垣藩も尊王派と佐幕派に分かれ、大変揺れる情勢にあり、おすゑさんのこの旅は、京の様子を探るための鉄心の密偵とし
ての役割もあったのではないかと、言われております。

金蝶の由来

そんな修行の旅で出会った本酒饅頭。その奥深さを学び、研鑽をかさね出来上がったのが、当店のお饅頭でございます。さっそく鉄心に献上したところ、たいそう喜ばれ褒美に「金の蝶の飾りの付いた簪(かんざし)」を賜ったのです。それを記念して、「金蝶饅頭」と命名し発売致しましたところ、広く賞賛を頂き大垣のみならず、美濃地方の名物として全国の皆様にご愛顧戴いております。

その後、おすゑさんのお店は大変繁盛しましたが、夫である野原氏との関係は益々遠くなり、野原氏が他の女性を連れて帰るに至り、ついには離縁することと相成りました。
持ち前のさっぱりした性格で、心機一転独立し金蝶堂を始めたおすゑさん。しかしながらお店とお饅頭の名前とを若干変えることで野原氏に金蝶饅頭を売ることを許したことには、情深い一面を見ることができると言えるでしょう。

おひとよし

また、ある人はおすゑさんのことを「おひとよし」と言いました。しかし幕末から明治にかけての時代に、女性一人で生きていくことを思えば、その大変さを想像するのは容易いこと。
その「おひとよしの心」にこそ、激動の時代を力強く生き抜くヒントが隠されているのかもしれません。
おすゑさんの生き方を思うと、価値感を超える意志の強さを感じるのです。
話は変わりますが、以前の大河ドラマ「篤姫」のなかで、勝海舟が、篤姫の養父島津斉彬公を讃えて言った「世に比類なきお方は、後世になにか確かなものを残し、それが又、心ある者を大きく動かす。」という台詞があったと思います。その台詞になぜか痛く感動した私は、次のことを連想していました。

おすゑさんは若い人たちにも心を開いていました。
それは、「美濃大正新聞」昭和六年七月十七日号に載った記事から読み取ることが出来ます。
記事の内容は、揖斐川町出身の薔薇の絵画で有名な画家野原櫻州氏がおすゑさんの二十七回忌の際、大垣中学時代に世話になったおすゑさんを偲んで、金蝶堂に「肖像画」を贈ってくださった。と言うものでした。
その際、櫻州氏が語ったおすゑさんのこと。
「大中の学生も自分等の学生時代は、マダ藩の思想などもありて、なかなか元気もののよりあひで、今の学生とはちがひカフェーなどなかった時代で、飲食店へもウカツに入りてさへ学校がやかましかったとき、金てふ堂だけはゆるされてゐた位で、女将老婆の義侠は、また他にアンナタイプの人は見出しうるものの、当年の面影を想像し、写真キラヒの婆さんの特徴をとらえてかいたものである。」
おすゑさんは、学生さんたちによく「おすゑ婆さん」と慕われていました。
そして、この肖像画を見て育った私たちにも「おすゑ婆さん」のイメージが強く、また私たちも親しみを込めて「おすゑ婆さん」と、呼ばせて戴いております。
その後、金蝶堂も「暖簾分け」によって二〇件近くの独立を助けて参りました。
そこで、本店たる当店は、屋号を「金蝶堂總本店」とし、親戚筋や直系の弟子には○○金蝶堂。その他の分家には金蝶堂○○分店として、広く金蝶饅頭の向上発展に努めております。そんな折、金蝶堂創業一〇〇周年を記念し、「肖像画」をモチーフにしたおすゑ婆さんの銅像を製作し、現在もなお、金蝶堂各店には、おすゑ婆さんが穏やかな笑みを湛え、お店を見守ってくださっています。

心ある人のつながり

先日、仕入れ先の都合で、原材料である糀が手に入らないという事態に見舞われました。明日の饅頭が作れないという待ったなしの状況で、私は、各分家に相談してみました。正直、世代が変わり面識も薄い分家さんに相談することは心配でもありましたが、皆一様に、「今があるのは本店さんのおかげ、喜んで協力させてもらいます」と、糀や素汁を分けてくださったのです。
この時ほど、脈々と受け継がれている「なにか確かなもの」そして「心ある人」の繋がりを感じたときはなかったです。
私の父を始め、歴代の店主、そして各分家が守ってきた、その「何か確かなもの=金蝶饅頭の心=おすゑ婆さんの心」が、金蝶饅頭のぬくもりに他ならないと信じております。

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