気持ちを抱え、眺めるという事

読んでくださる皆さん、いつもありがとうございます。
今日は+1ではなく、
この仕事を通して日頃考えている事、感じ取ったことをまとめてみました。
今後も記録として、不定期に考えのアウトプットを残そうと思います。その時はまた読んでくれるとうれしいです。


児童養護施設で働いていると、自分の感情や自分の周りで起きたことを周りに抱えさせようとする子どもに出会います。
自分に起きる不安なこと、気持ちがざわざわすることを抱えていられない。手元に置いておけない。近くにいる大人にそれを抱えさせ責任を解放させる、そんな構図をよく見かけるのです。

実はこの構図、今の学校現場における保護者対応にも通じるように私は感じています。
我が子のことながらも我が所で抱え、眺め切ることができない。眺め切る前に、足早にそれを手離せる場所を探し、他人事の問題として遠くから眺め、批判する構図。本当は子どもの中で、家庭の中で生まれたもののはずなのに、いつの間にか「○○のせい」になっている。

この"自分の感情を抱えられない"に隠された理由の一つに「幼少期における感情を抱えてもらった経験の乏しさ」があるとされています。自分の感情なのに、これがなんなのか分からない。そんな得体の知れないものを、抱えておくには怖すぎる故早く手放したくなる心理。もしくは他に抱えてる未解決の内的課題に溢れすぎて、本能的に抱えられないとなっていることもあると思います。

半分は自分で、半分は周りに助けてもらう、そんな工程も踏めない。自分が悪いか、相手が悪いか。その二極化された世界で目の前の課題を扱おうとしているように見えるのです。

子ども支援では、これを自分ごととして扱えるようになると、一定その子の情緒的な発達が見えると判断されます。
その為には安心できる大人との関係構築、感情の言語化練習、自分の感情を認めること、人に助けてが言えるようになること、実際に助けてもらったという日々成功体験を重ねていくこと。
そして敵か味方か、死ぬか生きるかという二極化ではないこの世界を知っていくこと等が必要とされている中、

一体この時代、どれだけのおとなが安心できる大人と出会えずに、助けを求めることも知らずに、いつも敵から身を守る為に必死になっているというのでしょう。

自分の周りで起きたことを抱え眺め抜く力。
その土壌を作るには、今の時代何かが決定的に足りない。

寂しかった子ども時代が癒えず、今なお土台がぐらぐらな大人と、そこで育つしかない子どもを見て、そんな風に思うのです。

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