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カート・コベイン没後30年~個人的に語り尽くして起きたいこと

どうも。

では、事前に予告していたように

カート・コベインの没後30年企画をやることにしましょう。1994年の4月8日に遺体が発見されてます。4月5日が推定死亡時刻だったんですけど。なので来週の頭にかけて世間でも多く語られることになると思いますが、僕が音楽ジャーナリストのキャリア史上、もっとも語った人だし、彼がいなければ今の自分もないと思ってるくらい重要な人なので、このあとも語る機会はたくさんあるとは思うんですけど、まとめて一気に語ることはそうないとも思うので、ここで語っておこうかと思っています。


・死亡の報道があった日のこと

まず、これから話しましょう。日本に彼の死亡が伝わったのは1994年4月9日。土曜日のことでした。この時は僕はNHKに入社して2年目でFMで音楽番組を作っていました。4月の頭なので番組改編があってすぐの時期ですね。

そのときに携わっていた番組に洋楽のミニ・ニュースを挟み込むコーナーがあって、それをハワイだったかな、出身の女性の日本人とのミックスのパーソナリティーの方がいまして、その素材部分録音の最初に読み上げたのがそのニュースでした。時間にして午前中ですね。家を出るときにニュース確認しないで出てたので、そのときに知って青ざめたものでした。

ただ、その時にその会話は軽くしかしなかったと記憶してます。それは、そのパーソナリティの方の趣味がロックとは程遠い感じのものだったし彼女が別にショックを受けてる様子でもなかったので話さない方が良いだろうと思ったからでした。

で、昼の早いうちに仕事が終わって、当時、西武池袋線沿いにあった自宅に戻ってきたんですけど、なんかそのあとボーッとしてましたね。その頃、家に小さなユニットバスついてたんですけど、そこのトイレに腰かけたまま無言で黙りこくったままでしたね。それで数時間。涙も流すことなしに。このときカノジョとかいなかったので休みは暇してましたが、寂しいときに長電話を友人にかける習慣あったんですね。でも、このときに限ってはそれもしなかった。誰かと心の空洞を共有もすることなくその日が過ぎて行くのをただ待つというか。夜に何したかとかは覚えてないですね。

・なぜか「何かが終わる感じ」はしなかった

このときによく「グランジが終わった」という言い方をした人はいました。今でもロックの教科書にはそう記されているのかもしれません。

ただ、僕本人的にはそれは全く逆ですね。その逆に、むしろここからはじまったことの方が多かったような気がしています。それどころか「何もはじまっちゃいねえよ」くらいの気持ちの方が僕はむしろ強かったですね。

その一つは、グランジ・ブームなるものが日本で全く浸透なんてこれっぽっちもしてなかったから。もう、今思い返しても、日本の一部勢力のグランジ/オルタナへの浸透妨害、本当に酷かったですから。

まあ、ご存じの方も多いかと思いますがBURRN誌による弾圧が最たるものでしたけど、それだけじゃなかったですね。楽器屋、音楽専門学校、コンサートの招聘、一部の邦楽は完全にメタルというか旧世代のロックに肩入れしてましたから。あれで日本でオルタナの浸透、完全に数年遅れになりましたから。

それだけじゃなかったですね。さっきラジオのパーソナリティの話、しましたけど、放送業界はグランジ/オルタナのことを過激派かなんかと勘違いして怖がって避けてましたし、UKロックとか渋谷系聴く層は興味持とうとしなかったし。

だからよく覚えてますよ。あの事件の1ヶ月前に、「日本で売れないパールジャムをなんとか盛り上げよう」とばかりに中野サンプラザでパールジャムのアメリカでの現象ぶりを伝えるフィルム・コンサートが開かれたんですよ。で、それ行った帰りに新宿のタワレコ寄ったら壁に貼ってあったビルボードのアルバム・チャートでサウンドガーデンの「Superunknown」が初登場1位でナイン・インチ・ネールズの「The Downward Spiral」が初登場2位だった。もう未来しかないわけですよ。僕の音楽人生でももっとも未来に対して期待感しかない、そんなタイミングですよ。「終わってたまるか!」くらいの気分でしたね。

で、そのカートの死から1ヶ月以内にくらいにCD買ったのが、カートの奥さんのコートニー・ラヴのHoleの「Live Through This」にブラーの「Parklife」にビースティ・ボーイズの「Ill Communication 」だったんですけど、どれひとつとったって、それまでのアメリカや日本でのメインストリームの流行りなんかに程遠かった。でも、僕には「これからの音楽」として本当にまばゆかったし、実際にそれぞれにこれからの音楽文化、作っていくものだったでしょ ?これがあの俗に言われる「奇跡の1994年」の一端ですよ。

そして、それは日本でも、皮肉にもカートの死をもって動き始めた。向こうでの騒ぎ知って、レコード会社が「これは動かないとダメだ」とやっと自覚して。それでやっとオルタナのアーティスト、推しはじめたんですよ。

そこで、これは以前から何度かここでも話したことのあるウッドストック94ですよ。カートの死の4ヶ月後ですよ。これはNHKのBSでも生中されたんですけど

ここで、今日にも語り継がれる伝説のライブの数々を見て「アメリカのロックなこんなにも変わっていたのか!」とショックを受けた人が多かったんですよ!

それで「こうしちゃいられない」ということで、やっと日本でもオールドスクールのメタルから離れはじめて、その当時でいう新しいロックを売りはじめたんですよ。

そして、その3年後の夏に結実したのがフジロックですよ。あのとき、レッチリとグリーンデイがヘッドライナーで、そこにRATM、フー・ファイターズ、ベック、プロディジーが呼ばれてたという、レジェンドでしかない列びが実現してたわけです。嵐で2日目中止にはなっちゃいましたけども。

にもかかわらず、あのときのメインストリーム・メディアの書き方、「一般にはそれほど知られていないアーティストが大挙集まり」みたいな書き方だったんですよ。それくらい、オルタナティブ・ロックに関しては日本は世界とずれがあった。でも、それが遅ればせながらも進んでいったのは、皮肉にもカートのあの死からの話であったことは、僕は間違いないと思ってます。

では、ここからはセルフ質疑応答をいきましょう。カートに関しての質問を僕自身が行い僕自身が応えるというもので、自己満足みたいに見えたら申し訳ないですけど(笑)でも、これが一番語りやすいのでやらせてください。

では

〈セルフ質疑応答. カート・コベイン編〉


①カートによって自分が変わったところはあるか?


それはもうめちゃくちゃあるし、僕を一番変えた人なのは間違いないです。とりわけ音楽リスナーとしての僕を変えましたね。

カートと出会う前の僕はビルボードのチャートマニアでした。根本は今もそうなんですけど、今は「ロックの人」という見られ方をまずされてますが、この当時はロックの方があとについてくる感じでしたね。チャートに入ってくるなかでロックが一番好きだけど、でもそれをビルボードのチャート上で判断してるような感じでした。80sの日本の洋楽ファンには割とそういう方、多かったと思います。

ただ、そうとはいえ、大昔から、僕の場合は「チャートの上位」が好きなわけではなく、「上位に入っている中で明らかに他と違っている変な曲」が好きだったんですよね。これは今でも傾向としてずっと変わらず持っています。そのルーツはなにかって言ったら、それは間違いなく70年代のジュリーです。彼が明らかに、ひとり、なにか違うことをしてたのは改めて言うまでもないと思いますが、やはり洋楽聴く前の日本のベストテンとか見てるときも、芸能界のアイドルとかよりも自分のバンド持って歌ってるような人が好きで、そういう人ばかり注目してましたから。

当時はビルボードでもシングルでロックは売れてましたけど、それでも91年の秋に聴いた「Smells Like Teen Spirit」はその中でもどう聴いても異質でしたもの。そのほんの少し前にREMの「Losing My Religion」とかメタリカの「Enter Sandman」が、シングルで売れたりしたときも「こんな暗い曲がなんで??これ、絶対なにか起きてる」と思ってたんですけど、そのトドメみたいな感じがしたというか。ましてや92年1月にアルバム「Nevermind」がマイケル・ジャクソンの「Dangerous 」抜いて1位なんて衝撃以外の何者でもないですよ!それこそ、あの当時の感覚でいうと、貴乃花が千代の富士に勝って引退させたとか、それくらいの世代交代感のある衝撃でしたね。ただ、日本のメディアで当時、そういう騒ぎにならなかったことがすごく不思議でしたね。

そこでロッキンオンとかクロスビート読めばよかったんですけど、当時全然読んでなくてですね(苦笑)。当時はロック評論とか興味がなくて。あれらの雑誌で推してたものがUKロックで。僕、エイティーズのデュラン・デュランとかのブリティッシュ・インベージョンはメチャクチャ凝ったものの、それ以降にUKロックは華がなくなったなとか思って、なんか離れちゃってたんですよ。中学の時は全英チャートもチェック入れてたのに高校から見なくなってて。で、ハウス嫌いだったからマッドチェスターも最初入れなかったりしたから、縁遠いものに思えてたんですよね。

で、ビルボードのチャート見たらニルヴァーナに続いてPearl Jam、Temple Of The Dog、Alice In Chainsといったグランジから、レッチリ、NIN、Faith No More、Primusみたいな、こないだまで全然知らなかったような存在がチャートに高い位置で初登場とかするようになって「何事?」とか思うようになるわけですよ。

で、「Nevermind」が1位とった4ヶ月後くらいだったかな、LA暴動が起こってそこで「時代を予見した」とかでギャングスタ・ヒップホップが注目されて台頭したり、「世が動転してるなあ」と驚いてたら10月には当時無名のビル・クリントンが勝って民主党が12年ぶりに政権奪還ですよ。東西冷戦終わらせて湾岸戦争率いて、保守・共和党ウハウハだと思われた時期にですよ!「なんだ、音楽だけじゃなく、世の中も変わって!!」と本当に衝撃でしたね。そのときに思ったんですよ。「ああ、パンクってこういうことなのか!」と。これまで上の世代のロックの人からは「今は飽食の時代だからベトナム戦争があった時代とは違う。歌うテーマ性がない」とかそんな風に言われてたものでしたけど「そんなの嘘じゃん!」とそのときに思って。あとバンドブームの時に日本でもパンク流行ったけど、世の動乱なんて何もないバブルの頃でそこに一石を投じるような感じもしなかったからよくわかってなかったですね。当時、オリジナル・パンクをそんなに聴いていたわけでもなかったし。だから僕の人生初体験のパンクは間違いなくグランジでしたよ。

で、その翌年に僕は大学卒業して93年の4月にNHKに就職するわけですけど、そこでいきなり音楽番組制作に配属されたのが運のつきですね。僕はそこから猛然と音楽史調べるようになって、ロックの歴史、20世紀文化史を片っ端から調べるようになったんですよ。そこで「レベル・ミュージックとしてのソウルとヒップホップ」、そしてオルタナティブ・ロックの特番を入社1年目にFMの番組で作った。もう、そこからが音楽ジャーナリスト人生のスタートでしたね。僕の場合、僕の所属した班が僕が入る直前まで渋谷陽一さんと仕事してたのに喧嘩別れして離れて、彼がNHK内の別の組織とくっついて勢力広げたんですよね。僕、残された、定年間近のおじいさん社員たちの中でひとりポツンと浮いた存在で。結局、今日に至るまでに渋谷さんにお会いしたことないんですけど、独学でひとりで研究していまに至ります。

はそれましたが(笑)、そこに至るまでにカートの存在があったわけです。

②グランジ・ブームの功罪について


「罪」に関してはズバリ、「ねえよ、そんなもの」と言っておきたいと思います。

グランジに関して「ネガティブな側面もあった」という言い方をする人、いるんですけど、「それ、ただ単に、オマエが乗れなかっただけだろ」としか思ってません。実際にそれに該当する人を当時に知ってたりするから。

ニルヴァーナが現象を起こしたことによって、グランジだけじゃない、あの時代にそれまでアンダーグラウンドでくすぶってた音楽にどれだけ目立つところにスポットが当たったか。また、上の質問でも応えたように、単に「グランジ」というサウンドを流行らせただけでなく、音楽界のシステムを逆転させ、遂には社会の逆転現象にまで繋がった。音楽に伴う現象で、こんなに大きなものも歴史上でそこまでないですよ。

カートに関してはその昔、「メジャーなんかに行かず好きな音楽をインディでやり続けてたら死なずにすんだ」という言い方をしてた人、いました。じゃあ、そのままにしてたら、なんかシーン、変わったのでしょうか?他のアーティストでそこまでのパワーがあったのでしょうか。

そういう冷笑的なことをいう人が好むタイプのバンドは僕は知ってます。それらのバンドを特に個人的に敵視しているわけではないのであえて名前だしますが、ソニック・ユース、ペイヴメント、フガジのファン辺りにそういう傾向は正直ありましね。ポストロックもかな。でも、これらのバンドでカートみたいにドラスティックにシーン変えれたかというと、とてもそんなことは思えません。あくまでも「役割」というものがあるわけです。「アンダーグラウンドのカリスマ・タイプ」と「オーバーグラウンドで刺激を与えうるタイプ」と。その両者の存在を共に尊重する必要があると思うし、足を引っ張るようなことをするのは、あの当時からすごく嫌でしたね。

「ブームとして消費されること」に関していえば、そんなものはグランジに限らずすべてのもので起こるわけです。僕自身、2000年代の形骸化したポスト・グランジなんて皆目興味ありませんから。でも、その末路を最初から恐れていたら、シーンに新しい概念を投げ掛けることなんて出来ません。ロックのムーヴメントに関して最初から結果を考えてネガティブなことをいう方がいらっしゃいますが、それも所詮はその音楽に興味がないだけのことに過ぎないと思ってます。

③グランジにおいて、カートやニルヴァーナは別格の存在だったか


あの当時に顕著なことではあったのですが「グランジはニルヴァーナだけが本物であとはニセモノだった」的なことを言われる方がいますが、他のレジェンドに対してそんな失礼なことは微塵も思いません。

第一、その見解は史実として矛盾してます。シアトルのグランジ・シーンに先に現れたのはサウンドガーデンです。サブポップというレーベルもそのものもこのバンドのメンバーの幼なじみが作ったものです。あと、パールジャムとマッドハニーの前身のグリーンリヴァーも。彼らは少なくともニルヴァーナの2、3年前から活動していて、ニルヴァーナが最初のシングル「Love Buzz」を出す頃にはサウンドガーデン、メジャー契約もしてますからね。ニルヴァーナはシーンの後発組に過ぎなかったわけです。しかもシアトルでなく郊外のアヴァディーン出身だったから存在としては外様です。

ただ、「パンクにハードロックの重厚感を加えた」というグランジのテーマ性にプラスアルファした普遍的なポップ性があった。ニルヴァーナに関してはこれは事実だったかなとは思います。しかし、グランジ自体のサウンドのテーマ性も「メタルの弛緩したサウンドに再び緊迫感を」という換骨奪胎の意味があったことも決して忘れてはならないことだと思います。

あとアリス・イン・チェインズやスマッシング・パンプキンズがグランジのブームに便乗したなども全く思いません。それにはあまりにも彼らに独自の才能がありすぎたから。ストーン・テンプル・パイロッツやシルバーチェアーなんかも最初は便乗組に見えてましたが、アルバム進むたびに進化を発揮した優れたバンドでしたよ。もちろん言うまでもなくフー・ファイターズも。ただ、それ以降のグランジのバンドに関しては知りません。

④カートは尾崎豊のような存在だったと思うか。


これは後追いの方に多い傾向ですが、「早死にした若者のカリスマ」として、カートと尾崎豊を比較する人がいますね。また、カートのファンでこれをいやがる人も知ってます。

ただ、これに関しては僕は、ある一定の相似性は感じています。僕自身、高校の時、尾崎豊は好きでしたし、その体験があったからカートに入りやすかった事実はあるので。それがへルマン・ヘッセであれ、ジェイムス・ディーンであれ、ライ麦畑でつかまえてであれ、「思春期の反抗キャラ」というものは僕は好きだし、そういうキャラクターがカートに見いだせたからグランジ、オルタナがあれだけ大きなものになった、との見方もできると思ってます。

あとカートにせよ尾崎にせよ、外に向かって怒ってるようで内に向かってうつむいて叫んでる感じとか、自分が納得しないとテコでも動こうとしない感じとか、バブル的喧騒がおよそ似合わない感じとかに共通点あるかな。あと、私生活では付き合っていくの大変そうなとことかも。

ただ、音楽の探求心だったり、女性観だったりは明確に違うかな。そこに関してはカートはかなり進歩的ですけど。そこが僕が尾崎豊に関して現在、もろ手を挙げては語れない要因になっていたりもします。

でも、カートにせよ尾崎にせよ、若くしてなくなったわけだから当然人間として出来上がってなく未熟な部分も多かったわけです。全部を神格化なんて当然しなくていいし、「ここは違うと思う」「これは本人、見栄張ってただけじゃないかな」とか、そういう穿った見方とかもあえて必要な気がしますね。カートだったら「売れることに対してのストイシズム」かな。あれは誇張されてると思うし、自分が想定外に売れて、ファンとしてつけたくないマッチョ野郎にまで売れたものだから過度に言い繕ってるところはあると思います。これは例ですけど、そういう引いた見方も必要かな。

⑤グランジ・ファンとして、同時期のブリットポップや渋谷系をどう見てたか

グランジとブリットポップ、もしくはグランジと渋谷系。相性がよくないと思われていた人はいたようです。ブリットポップと渋谷系はものすごく相性よかったですけど。

おそらくブリットポップも渋谷系も「軽妙でシリアスになりすぎない」ドライなところがあってそこがクールとされたところがあるので、それ系のファンは、シリアスに苦悩を垣間見せるグランジは苦手だったかもしれないですね。

ただ、グランジ・ファンの僕の側から言わさせてもらうと、ブリットポップも渋谷系も好きでしたよ。共感抱いてました。「ああ、君たちもつまんないメインストリーム、嫌いなんだな」って感じで。フリッパーズや電気グルーブが売れてるJポップ茶化したりするの、手叩いて笑ってましたから(笑)。でも、個人的に仕事した関係もあるけどフィッシュマンズとかサニーデイ、ミッシェル以降の人の方が好みではあるかな。

ブリットポップは80年代のブリティッシュ・インヴェージョン的なスター性とポップさが戻ってきたみたいだったからどのバンドも大体好きでしたよ。それにニルヴァーナを聴いてるときに抱いていた内向性の矛先としてレディオヘッドという絶好の後継者も見いだしていたのでね。

⑥「ラウドロックの祖」としてのニルヴァーナの評価について

これに関しては、個人的には全く認めていません。90年代半ば以降のニューメタルのバンドがいかにニルヴァーナを敬愛していようが、それはおそらくはカートも嫌だったと思います。

ニューメタルのなかには、実は昔はカートが嫌ってたようなメタルやってて時流に合わないから結果的にミクスチャーやらインダストリアルやらグランジやってる人も実際いましたからね。そういうバンドに限って、MVにプレイメイトまがいのケバい姉ちゃんの趣味はヘアメタルと同じで、そこに筋肉とスポーツウエア来てマチズモ増量になった分、さらに悪くなりましたね。メンバーに髪ツンツンに逆立ててアゴヒゲのやつがいるの、たいがいそのテでしたね(笑)。

あと90s半ばって、アメリカでテレコミュニケーション法という悪法が出来てそれがロックに暗い影を落とします。この法律で全米のラジオの全国チェーン化が進み独自ローカル局が潰されたんですが、それにともなってメジャーのレコード会社がアーティストのサウンド・プロダクションを売れてるプロデューサーの流行りの音に倣って全部均一化させたんですよ。それでグランジ風のギターがさらに分厚く大量生産されまして、それがラウドロックの雛形にもされました。90sのオルタナティブ・ロックのあしき改悪による大量生産です。このブームが2000sの後半まで続いてアメリカで支配的だったので、ストロークスとかホワイト・ストライプスで対抗しようとしてもアメリカ、本当に苦戦したんです。大変でした。90sに尖鋭だったはずの音楽がブクブクに太って惨めに膨張したみたいな感じになって。

あと、政治的にもとんでもない右翼のメンバーとかがそのテのバンドに少なくなくてね。それも困りものでした。それが一番嫌な形で出たのが、このnoteでも何度も批判させてもらってるウッドストック99でもあります。

ただ、そんな中でも決して全否定ではなく、ラウドロック系のバンドでも良いバンドもいたりはするんですけど、これはまた別の話ですね。

⑦カートの何を、今もっとも受け継いでいきたいか

サウンドの話は時代と必ずしも関係ないし、「メインストリームで売れようとしない」という姿勢も、それはロックが1000万枚くらい売れた時代にやったから意味があったのであり、2010年代の半ばみたいに商業音楽としてかなり売れなくなった時代にそんなこと主張したところで「心配しなくてもおまえのことなんてそんなに注目してないから」と言われてしまえばそれでおしまいです(笑)。今はむしろ、カッコつけて気取ってないで、自己主張して目立つ方がいいくらいです。

そんな時代にカートの精神性を受け継ぐとしたら、社会的なことだと思いますよ。その例として挙げたいのはやはり、アルバム未収録編集盤「Incesticide」に寄せたカートの言葉ですね。「もしキミがセクシストでレイシストでホモフォビック、つまりサイテーの野郎なら、俺たちのCDを買わないでほしい。ライブにも来てほしくない」。これは僕の座右の銘です。これがあるから、ウッドストック99なんていうモラルに欠けまくった暴力的な人災は僕は認められないのです。

そして、このメンタリティはZ世代の若い人にも合う考え方です。女性セレブやKポップのメッセージ性に似てるでしょ?メンタルヘルス的な問題でも共通点あるし。

90sのアイコンでは、2pacがフェミニスト・ラッパーとして知られてますが、その両者の人気が普遍的に高いのもこうしたところに理由があります。

カートの場合、僕は最大の後継者が奥さんのコートニー・ラヴのHole、あれ、「Live Through This」は分身とさえ思ってますけど、女性ロッカーにもその後の種を巻いてると思ってて

2014年のロックの殿堂入りの際には、デイヴ・クロールの粋な計らいで全て女性アーティストのカバーによるニルヴァーナ・クロールのトリビュートを行いました。カートがライオット・ガールズのシーンにも関係あることは先日書いたガールズ・ロックの歴史でも書いたばかりです。

あと個人的なことを言えば、「チャートのなかにいる、ひとつだけあるほかと違う曲」を追う姿勢ってやはり大切だし、それこそが音楽の次元を越えた本当の意味でのロックなりパンクなんだろうなと思ってます。それがある限り、カートの功績は思い出されるし、精神性も受け継がれるのではないかなと思いますね。




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