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西おうみ無動物園(2023年10月29日)

2023年10月29日(日)

せっかくの日曜日で誕生日だというのに、それを祝ってくれる友人のひとりもおらず、昨日に引き続き、私は朝からパソコンの画面とにらめっこをしていた。数か月前から小説を書き始め、3万字まで書いたはいいものの、そこから最早にっちもさっちもいかなくなっていた。起承転結の「転」に無理がある気がしてならないのだ。ここの問題さえクリアできれば完結させられる確信があり、来る日も来る日も何とか突破口を見出せないものかと苦悩していたらついに上司に呼び出され、仕事のことで不満があるなら話を聞くから遠慮するなと言われてしまった。正直に否定すると、「便秘か?」と言う。あながち間違いでもない。凡人が初めて完成させる中編小説というのは、完成したところでクソに決まっている。その短くも長くもないクソが生まれそうにないから困っている。生みの苦しみを味わっている。この世やあの世にいる、何かの生みの親という概念はすべて、尊敬されなければならない。

憂さ晴らしに、りんごでも食べようと冷蔵庫に向かったとき、メッセージの通知音が鳴り響いた。うるさい。音量を無駄に上げたのはどこのどいつだ。自分しかいない。メッセージを確認してみると、ネットで知り合った男からのものだった。この男というのはどうしようもない男で、いつまでも若い頃の選択を後悔しては、代わりに新しいことにチャレンジすると意気込み、即座に挫折している。どこにも雇ってもらえない残念な男だが、行動力だけはあるので、そこを買って交流している。送られてきたリンクを踏むと、地域のニュースの記事が表示された。「無動物園オープン 滋賀・西おうみ市」とある。彼が行きたいという、その場所の情報を検索してみると、我が家からさほど遠くないところに位置していることがわかった。「動物園」か。気分転換には外出するのも悪くない。私は車を出して彼を拾い、音声ナビゲーションに従って運転した。

記事の見出しだけを読んで、中身をまったく読んでいなかった。正確には見出しすら読めていなかった。彼は文面でも対面でも基本的に寡黙で、説明という行為を好まない。入場料の600円(割り勘)を支払ったとき、私は騙された気分だった。澄み渡る秋空の下、親子連れやカップルの先を行けども行けども、檻の中には1匹の動物もいない。「西おうみ無動物園」は数々の動物を「非展示」している。端的に表すと、いんちき動物園である。しかしオープンしてから1週間も経っていないためか、物珍しさによって、集客にはまずまず成功しているようだった。ジャイアントパンダのエリアには人だかりができてさえいる。パンダの絵を見て「パンダさんだー」と言う子もいれば、柵の内側を探し「パンダさんどこー?」と言う子もいた。親御さんたちは彼らをなぜここに連れてきたのだろう。彼らに何をどのように教えるのだろう。私は送られてきた記事を、今度は精読した。……「動物園が抱えるさまざまな問題を解決するモデルケース」。そんな、アホな。滑稽味を感じつつ、こうして現実にアイデアが走り出している以上、本気を感じずにはいられなかった。

歩き疲れた私はベンチに腰を下ろしていた。無動物園に広すぎる敷地は無用だから、種数を増やしながらも、ここはいずれ売店等を残して縮小されるだろうというのはさすがに誤った推測か。男はといえば、ゾウのエリアの前に立ち、それを静観していた。いったい何色のゾウを眺めているというんだ。面白いものが見えているなら知りたい。私はこの場所で結局、ヒト以外の動物を見ることができなかった。私は最近、時間とともに、面白がれる対象が減ってきているような感覚を抱いている。何をしても特別、楽しくなくなってきているのだ。それが大人になるということだと受け入れるのは構わないが、死を待つだけの老人になるには早すぎるという危機感から、打開策を探していて、彼と出会ったのもその一環である。おかげで今日はとりあえずいい日になったと思う。ただし私は無動物園の散策に飽きたので、彼が帰りたくなるまでボーっと座って待つことにした。途中、彼が「餌やり体験をしないか」と買ってきたらしいりんごは、無意識のうちに食べてしまっていた。


▼画像等は以下の記事から。


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