何もかもに疲れたアラサーOLがおっさんずラブを見た話

※劇場版おっさんずラブ〜LOVE or DEAD〜のネタバレが含まれています


2018年、4月。桜は満開。初々しい新社会人たち。いつにも増して人でごった返している気がする電車の中、わたしはもうすでにめちゃくちゃ疲れていた。

心機一転!とか新しい私!とかいうハッピーで明るい記事や文言を見かける度、そんなことはどうでもいいから早く帰りたいし早く寝たいと思っていた。新しいことを始める余裕なんてないし、世の中で起きてることに文句を言う元気もない。好きなものが何だったかいまいち思い出せないし、やりたいことも特にない。とにかく毎日をこなすのに精一杯だった。その頃のわたしのまわりには、問題が山積みだったからだ。

慢性的なひどいパワハラと、天井知らずの業務量。帰る頃には真夜中で、コンビニだけが唯一の心の拠り所。そして家に帰れば高齢の父の介護。そばには還暦を過ぎて満身創痍の疲弊した母。頼れる人がいない、アラサーの一人娘。結婚適齢期になり、まわりからの良い報せが増えるにつれ、ついでにわたしへの圧も増した。結婚?考えたこともない。でも考えなくちゃいけないことだけはわかる。どうするんだろう、この先。二十数年生きてきて、まずだれかを好きになったこともないのに。二十も半ばになり、何だか突然やらなきゃいけないことがたくさん降ってきたような気がしていた。だけどもうすでにしんどい。

そんなめちゃくちゃ疲れていた土曜日の夜、たまたまつけたテレビで、ちょうど始まったドラマをなんとなく見た。

「おっさんずラブ」というタイトルらしいそのドラマは、タイトルの通り、開始10分が経つ頃にはおっさんが主人公のポンコツリーマンにぐいぐい迫っていた。も〜〜絶対こんな上司が会社にいたらめちゃくちゃ困るよ、と思いながら、でも、役者さんが大真面目にやるもんだからちゃんとコメディとして成立していて、見ていくほどにわたしの肩の力が抜けた。単純に面白かった。何より、ダメリーマン主人公の春田創一というキャラクターがいい。あまりにもポンコツ感があって、動きが大袈裟なほどコミカルで、表情が面白くて、女にモテないけど人に好かれる感じが伝わってくる。

おっさん上司が主人公に言い寄った時点で、男同士というかLGBTQ+を題材にしたドラマかと思いきや、どうやらそれがメインという感じもしない。ひたすらにコメディが前面に押し出されている。1話が終わる頃にはわたしの中で「気楽に見られるラブコメドラマ」という位置付けになったこのドラマを、来週も見てみる気になった。

そして2話。わたしの中で、おっさんずラブへの認識が一変する。

主人公の春田創一とルームシェアを始めた、若手の後輩・牧凌太。この牧も、ポンコツ主人公を好きになった一人だ。それを知った春田は「裏切られた気分だわ」と言う。そうして早々にルームシェア解消を申し出る。「何もかも違うのに、一緒に暮らすなんて無理です」と訴える牧凌太の目には、目一杯の涙が湛えられていた。

あ、この人、本気で好きなんだ。

この牧という後輩に限らず、春田に言い寄る上司の黒澤部長も、誰も彼もが本気で好きなんだ。というのが画面から伝わってきた。本気なんだ。雰囲気はコミカルだけど、別に面白がって描いてるわけじゃなくて、登場人物の誰もが相手のことを本当に好きなんだ、と分かった。見ているわたしにとっては面白い台詞や展開だけど、作中の人物は誰もふざけてなくて、本気で恋をしている。

気づけば毎週おっさんずラブを楽しみにしていて、画面の前でみんなのことを応援してた。おっさんずラブの良かったところは、ずっと主語が個人だったところだと思う。黒澤部長は春田が好き。牧も春田が好き。ほかにも、誰かが誰かを好きだけれど、あくまでも個人として相手を好きになる。人を好きになるって「その人を好きになること」なんだという、当たり前にも思えることがストレートに描かれていく。そうだ、わたしは「アラサーだからそろそろ恋愛しなくちゃ」と思っていたけど、そうじゃないんだ。異性ということは多分わたしの恋愛対象になる、とかじゃなくて、「目の前のその人」を好きになるかどうかなんだ。知っていたはずなのに、忘れていた。

同性を好きになる人が置かれている立場や気持ちが分かるかと言われると、とても正直に言えば、きっとよく分かっていない。想像することはできるけど、やはり当事者ではないから分かるという言葉に責任が持てない。だけど、この作品で泣いている牧凌太という個人の、悲しみはわかる。必死に訴える黒澤部長の、気持ちを伝えたいという想いの強さはわかる。春田創一の、思いもよらなかった告白に思い悩んで戸惑うさまも、そりゃそうだよなと思う。

わたしにはこの息のしづらい世界で、息のしづらい人全体をどう応援したらいいかはよくわからないけど、個人を応援することはできる。それは、人を好きになったことがないわたしでもできる。性別なんて置いておいて、とにかく人が人を本気で好きだと言っている。じゃあ叶ってほしい。幸せになってほしい。がんばれ、つたわれ、せめてまっすぐに。と最終話までずっとずっと応援していた。

わたしの現実は相変わらずめちゃくちゃつらかったし、めちゃくちゃ疲れていたけど、おっさんずラブに溢れている、根底に流れている「とにかく愛を描きたい」という空気に、作中で必死に生きる登場人物たちに、とても元気付けられた。土曜日のために生きてこられた。トイレで泣いた日も、つらくてむなしくて泣き崩れた真夜中も、おっさんずラブが笑わせてくれた。大袈裟じゃなく、本当にこの作品に救われていた。

ドラマに「明日も頑張れよ」と言われたわけじゃない。「仕事は必死にやるもの」と示されたわけでもない。「恋をしなきゃいけない」と諭されたわけでもない。ただ登場人物が、ただ頑張って生きてるだけ。そしてそれを誰も否定しない。それが無性に元気をくれた。せめて来週までがんばろうと思えた。

そして、これまで色んなドラマや映画、漫画、小説で「恋や愛とは何か」が描かれてきたけれど、わたしはおっさんずラブではじめて、人が人を好きになるとはどういうことかをきちんと考えることができたんだと思う。

わたしは人を好きになったことがない。これについて葛藤もしたし、色々考えたし、色々試した。大学で性的指向についての講義を受け、「人を好きになれない人もいる」ということを知った。なのでわたしは、自分のことをそういう人なのだなと思っていた。恋愛で盛り上がる世間に、肩身の狭い思いをした日もある。

けれども、わたしはずっと忘れていた。性的指向というものは、「グラデーションなんだよ」と言った先生の言葉を。

これは「性的指向は変わるよ」という意味ではなく、生涯を通して、異性を好きな人もいる。生涯を通して、同性を好きになる人もいる。誰に対しても性愛感情を抱かない人もいれば、生涯の中で今までと違う性別の人を好きになる人もいる。本当に人の数だけいろんな人がいるということ。その濃淡も人それぞれだということ。すっかり忘れてた。

誰かに対して「きっとまだ出会ってないだけで、好きになれるよ!」とか「いつか異性(同性)を好きになるよ!」とか無責任に言うのは全くもって本当によくない(大切なのはその時点でのその人をそのまま受け止めて認めることだと思います)けど、自分で自分のことを"絶対"と決めつけるのはやめてあげようと思った。

一生誰のことも好きにならない自分だとしてもそんな自分の人生を大切にしてあげたらいいし、もし誰かを好きになることがあれば、その時はこのくらい必死に伝えよう、と思った。たぶんわたしは、牧凌太という、自分といろんな部分が違うドラマのひとりの登場人物を通して、春田創一に恋をしていたのだと思う。これが恋かはわからないけど、もしこれが恋なら、つらくて、くるしくて、でも絶対にその人に目が向いてしまうということは、こういうことなのかもしれないと思った。こんなことを思ったのは、人生で初めてだった。おっさんずラブはわたしに「人を好きになるということは、大切にしたい人ができるということ」だと教えてくれた。好きな気持ちはわからないけど、人を大切だと思う気持ちはわかる。だから恋愛はわたしに全く無関係なものじゃないんだと思えた。そして、まじめに誰かを想っている人のことを、否定したりする権利なんか誰にもないということを。

おっさんずラブは、まもなく最終話を迎えた。

春田創一と牧凌太は両想いになった。わたしはと言うと、何が変わったわけでもない。相変わらず生きづらさはあるけど、うれしいこと、たのしいこと、恋愛感情に限らず、人を大切に想うということ。そういうものをきちんと拾っていきたいと思うようになった。飽き飽きしていた恋とか愛とかいうトピックスが、嫌じゃなくなった。わたしもラブとハッピーで生きてたい。

そんなドラマを経て、なんとおっさんずラブが映画になった。そしてわたしはまた、おっさんずラブ〜LOVE or DEAD〜という映画で救われることになるのだ。

今回の映画はスケールアップして、「いや正直どういう状況???????」と思うような非日常すぎるシーンもある。あったけど、ドラマから地続きにある、「ただ恋をして、誰かを愛している人たちの話」という雰囲気は健在だった。

春田創一の大切な人は牧凌太という人で、その逆もそう。大切だから苦しくなる。大切だから言えないことがある。大切だから格好悪いのは嫌だ。大切だから不安になる。相手の人生、自分の人生、そしてふたりで歩く未来を考える。それが、人生を分かちあうということ。

ものたりないと思うひともいるかもしれないとか、足早に展開されるストーリーの穴が気になるひともいるかもしれないとか色々思ったけれど、でも、根底に流れる愛という大きな大きな川は変わらない。その川に、全員が各々のかたちで流れている。わたしはただもう、ふたりの「始まったばかりの眩しい恋心」にいつしか「大切に想う愛情」が混じっていく、長い人生のほんの一瞬が垣間見られただけで嬉しかった。

コメディ色はかなり強いけれど、映画のなかでふたりはずっとずっと「彼らにとっての現実」に近しいところを生きていて、それは「ファンのための人生」じゃぜんぜんなかった。初めて同性と付き合って、初めてのプロポーズ。初めて結婚を考える。転勤、一大プロジェクトへの参加、自分の夢、万事が順調にいくはずもなくて、不器用にぶつかって摩擦ばかり。人生へたくそか?と思うシーンもある。なんで今それを言う?と思ったりもする。でもへたくそでいいんだ。これはフィクションだけど、作中に生きる彼らにとっては全部はじめてのことだから。へたでも、つらくても、それでも。それでも一緒にいるんだという気持ち、そしてふたりが迎えるラストシーン。重要なシーンはぜんぜん見せてくれない。ファンサービスなんて、シーンとしてはあまり多くない。人生の重要なシーンはふたりだけのもの。ふたりのための人生。

え?っと思う台詞もあるけれど、それはなにかを代表しての言葉ではなく、春田創一個人として言いたいことなんだなとわかる。わたしへの言葉でも、世間への言葉でもない。ただひとり、大切に思う人へ向けた言葉なのだなと思った。

おっさんずラブはひとつのコンテンツなのだけど、春田創一と牧凌太というひとつのカップル、天空不動産のひとたち、わんだほうのひとたち、登場人物は誰一人としてコンテンツでも脇役でもなくて、みんながみんな「自分が主役の人生」を歩いている。だから各所でいろんなかたちのラブが描かれる。それがとてもよかった。恋が散る人がいる。新しい愛を獲得する人がいる。散々傷つけ合っても手を取り合う人がいる。どんな人にも、どんな恋にも、どんな関係にも、その根底に愛が流れている。愛は恋だけのものじゃなくて、誰と誰の間にでも、いろんなかたちで生まれていく。

ドラマから時を経て、恋の向こうに続いている道が、塗装された道だけではないということを示す映画おっさんずラブ。

いろんな愛を持った人、いろんな愛の中にいる人を描くこの映画作品で、春田創一が言う台詞がある。

「たとえ壊れてしまったとしても、またきっと作り直せます。街も、家族も」

家族は作り直せる。壊れてしまったとしても。

生きてきて、わたしはそれを知らなかったわけじゃない。人間関係は何度だってやり直せると知っている。知っていたけど、なぜかそうする気になれない。なぜかと言えば、それに割く元気もなければ、物事はそっとしておく方が楽だからだ。

なのに、おっさんずラブを見ると、作り直せるのか。そうだよな。とストレートに思うことができる。映画を観たあと、ふとわたしの家族が浮かんだ。我が家はぜんぜん完璧な家族じゃない。めちゃくちゃモラハラ気質で幼い頃からDVをはたらいてきた父親を筆頭に、もう壊れに壊れて、ギリギリのバランスで家族というかたちをしている。恨みも憎しみもある。血縁があるからと言って大事には思えない。そんな思いは、大人になった今でもある。

たぶんきっと、ドラマを見た後と同じように、映画を見たからと言ってわたしの現実がなにか変わるわけじゃない。だけど、おっさんずラブを見ると、不思議とわたしの中に愛というものがほんのすこし湧いてくる。挨拶してみようかな。ごはん、何年ぶりかに一緒に食べてみようかな。何回も繰り返される長い話、今日は聞いてみようかな。そういえば、顔、ちゃんと見てなかったな。こんなに痩せてたっけ、わたしの両親は。お父さんの笑顔、わたしに似てるな。わたしが似てるのか、この人に。

おっさんずラブを見るとなぜ、こんなに影響されるんだろうと思う。だって、どうしたってやっぱりコメディ色のつよい、ラブコメ作品だ。

だけど、作中であまりにもみんな必死だから。必死に生きているから。馬鹿馬鹿しいけど、いいな、と思ってしまう。馬鹿馬鹿しいけど、ラブとか、ハッピーとか、そういうものにまじめになること。悪くないなと思ってしまう。他人事だと思ってたラブとかいうものが、わたしにも関係があるような気がしてくる。だって恋だけじゃないのだ、ラブは。

明日起きたら、現実が変わってるわけじゃない。

突然、わたしにとって生きやすい制度が社会に導入されるわけじゃない。それはそれで戦う必要があるけれど、それは今すぐに報われて、明日起きたらなにもかもが変わってるわけじゃない。ハッピーに思える春田創一と牧凌太の行く先にも、これからいろんな困難があるんだろうと思う。だって彼らが生きる社会は、たぶん彼らにとってやさしくできてはいない。100%のハッピーだけで人生が成り立つわけじゃない。

でも、このどうしようもない現実の中で、この社会の中で、自分ができる範囲で、愛とか人とかいうものに向き合ってもいいような気がしてくる。無性にラブとハッピーで生きたくなるのだ、おっさんずラブを見ると。諦めたくなくなるし、怖くもなくなるのだ。真正面から何かにぶつかることを。

何にも考えずに見られるけど、めちゃくちゃ馬鹿馬鹿しいけど、別におっさんずラブを見たところで現実のわたしの何かが解決するわけじゃないけど、笑えてきて楽しくて、愛をいっぱいくれる。

わたしはこの作品に会えて、毎日がすこしだけ楽しくなった。すこしだけ毎日が愛しくなった。

だから、おっさんずラブという、「人の愛」を描いてきた作品に関わってこられた方々、作り上げてきてくれた方々、そして何より登場人物を必死に生きてくれた役者さん方、主演の田中圭さん、本当に、本当にありがとう。

何もかもに疲れたアラサーのOLは、今日もやっぱり疲れているけど、でも、おっさんずラブに信じられないほどの元気をもらって、今日もまた必死に生きている。

わたしは、おっさんずラブに会えてよかった。ありがとう。