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わたしの身体は一枚の皮膚でつながっている

8月の末に、「神画(こうが)」という写真集を出版しました。かみさまの画と書いて、神画。わたしの最後のヌード写真集であり、自らが書いた著書と同じ感覚で手渡す事のできる、初めての写真集となりました。現在は9月18日まで、新宿御苑前のPlace Mというギャラリーで写真展を行っています。

写真展では、出版時にどうしても載せたいのに載せられなかった写真を中心に、多数展示しています。
その理由は[アンダーヘアが写っているから]。「神画」は、アダルトコーナーに苦手意識がある方の手にこそ辿り着いて欲しいという思いがもともとあり、一般書のコーナーに置かれるために出版社さんの出す肌露出の基準に沿って写真をセレクトをしました。

シュリンク(中身が見えないようフィルム包装)されてアダルトコーナーに置かれるか、一般書のコーナーに置かれるかのボーダーラインは出版社によって異なるそうですが、今回の場合は[アンダーヘアが見えているかどうか]でした。アンダーヘアが写っているものは=わいせつなもの、と判断されかねないとのことです。撮影前の段階では、私自身ながらアダルト業界に身を置いていてコンテンツの趣旨ごとに隠す範囲が変わっていくことに慣れきってしまっていたため、その違和感に気付かなかったのですが、実際にこの写真集の撮影が始まった時に、その場にただ存在している自分のヌード、肉体の在り方があまりに自然だったため、強い違和感を感じたのです。
『わたしの身体は一枚の皮膚で繋がっていて、顔も肩も胸もアンダーヘアの生えている箇所も、すべて地続きのおなじ皮膚なのに、なぜ私の意思と関係なく、外部から一部だけが切り分けられるようにして、[わいせつ]と判断されるのだろう。』

これまで散々モザイクをかけられて来たはずなのに、この時になってやっと、強烈な疑念を覚えました。それは、[わいせつである]前提ではない、ただの身体として撮られるという経験がわたしのヌードにはあまりに希薄だったことの表れでもあると思います。(それは、そういう職業なので、納得して仕事をしてきたことは変わらないのですが。)
しかし、目の前にあるのが性的な目線やそういった消費者の代理として向けられたカメラではなく、存在の美しさをただ写すために向けられていると分かっているこの場所では、わたしの身体はきちんとひとつなぎに繋がっていて、顔と、手と、胸と、お尻と、下腹部と、股と、全てが同価値の、同等なものなのだとわかりました。それによって、私は今まで外側の都合で、――商業の都合であれば、なにをどう商品化するか。性的に見たい主体からの眼差しであれば、どこをどう性的に見つめたいか。無自覚な消費の目線であれば、どのパーツならつい性的に見つめてしまうのか……そういった目線によって、パーツごとに切り分けられて、ある箇所は強調され、ある箇所は過剰なジャッジにさらされ、ある箇所にはモザイクをかけられ、ある箇所は[性的な意図で表現をしていなくとも]わいせつだと判断される。

どうして他人がわたしの身体を勝手にバラバラにしているんだ?と、怒りが湧きました。とても、遅れてきた怒りなのだとわかっています。『当たり前』『そういうもの』だと思わされていることに対し疑問を持ち、違和感に気付いて、それによって受けてきた屈辱を認め、怒りまで辿り着くのには、場合によって、長い長い時間がかかります。私にとって、怒りに辿り着いたタイミングが、『神画』をアダルト本扱いにしないためのセレクトに頭を唸らせている段階でした。

ヌード本だから、という理由で、手に取りにくく感じている方もいるかと思います。これまで私の言葉や(アダルト以外の)作品に触れて、表現や主張や精神性に共感していても、わたしのことをビジュアルベースで消費しようとすることや、裸を見ることは、どこか恐ろしい。という人がいるかと思います。わたしがあなたでも、きっとそう思います。

こういうことは、内緒にしていた方が格好がつくのですが、やっぱりあなたにだけは伝えたくなってしまったので、ここだけに書きます。
私は『神画』製作までの半年近くをかけて、人生で初めて本気で身体づくりと美容に取り組みました。これまで、アダルトコンテンツの文脈で表現をする時、もっと努力出来るところがたくさんあることを知っていながら、美容や身体づくりに心から本気になることができなかったのは、[性的消費]を前提とした価値観の中では、自分が自分で納得の言っていない、要は(メインターゲットである層から見て)[美しすぎない]程度のビジュアルも、それはそれで需要があったからです。フィクションの美女キャラクターのようなビジュアルに仕上げてくる演者さんもいれば、身近にいそうな女の子に見える演者さんにもそれぞれ需要があり、役割があります。わたしはそういう風潮に対して、『どういう女の子も多かれ少なかれ需要があるのはいいよね』と感じていたところもありましたが、それ以上のところで、心底、極端に偏ったルッキズムに辟易し、軽蔑し、そして拗ねていたところがありました。生まれながらの自分の顔や身体に対して、ほとんどそれのみでどういう性格であって欲しいか望まれ、その通りでないと『期待はずれ』と言われ、良い場合でも『ギャップがある』と評価される。今日はすごく調子がいいな、綺麗すぎてしまうかな、ととびきりのメイクをして出かけた日にも、わたしが選んだものである服装やメイクは総て無視され、変えようのないもともとのつくりのみを見られて「素朴だよね」と、悪気なく言われる。痩せたくなって痩せれば、ぽっちゃりしていたほうがいいと言われ、体調を整えるためピルをのんで致し方なく浮腫んでしまう時期には、太った、もう少し痩せたら好みなのになー、と、言われる。なにをしても、誰かが文句言うのだから、美容に必死になっても仕方がない、という気持ちになりました。

アダルトコンテンツの需要に合わせて顔や身体を変化させることに本気になれなかった私が、どうして『神画』の撮影のために本気で自分の容姿の管理に取り組んだかというと、写るべき理想の姿がすでに浮かんでいたからです。
それは、『わたし』としての愛着や特徴を、なるべく排除した、プレーンな姿のことでした。
顔の輪郭から、ボディラインまで、見る時になるべく引っかかりがなく見られるような、シンプルな姿になるようつとめました。ふくよかな所を削り、垂れ下がるものを元の位置に戻し、特徴と呼べるものがなるべくなくなるようにしていくのです。
それは、『わたし』として美しく/かわいらしく写りたいという気持ちや、『わたし』として愛して欲しいという気持ちとは遥か遠く離れた、『誰でもない人』として写ろうという意志でした。

なぜかというと、ここに写るわたしは、あなたで在りたいからです。

なるべくノイズがないかたちであなたが見る、絵のような、彫刻のようなものとしてそこに写るための行動でした。
この身体はわたしであり、わたしではないものとして、あなたであり、あなただったかもしれないものとして、ただ写真に撮られたのです。

なので、こうして撮ってきた作品が、尚も『アンダーヘアが写っていたらアダルト扱いになる』と取り沙汰されること、それによって選択肢を減らされること、あなたの依り代になるために余分なところを削ってようやく取り出した骨格が、下半身にあるというだけで収録されることがほとんど許されなかったこと、そういう全てのことに、未だに強い違和感を感じています。

からだは、ただのからだです。
数え切れない数の人達に見られてきたわたしの身体も、服の下に仕舞って生きているあなたの身体も、ただの、からだです。それをわいせつな理由で使おうとすることは出来るけれど、そうしようとしていない限りは、どこからも不適切と判断されるべきではないただの身体だとしか、わたしには思えないのです。

9/18まで開催している写真展では、上記の理由で写真集に収録が叶わなかった作品を中心に構成しています。
全身が、遮られることなく写る写真を、だれにも止められることなく展示することが叶っています。

正直、この身体が自分の身体と物質的にはおなじものだということを差し置いても、これをわいせつと感じるのは誰にとっても困難なことなのではないか、と思う、展示空間です。

冒頭に書いた通り、アダルトコーナーに置かれた本を買うことに苦手意識がある人たちにこそ見て欲しい写真で、さらには、形質的に近い肉体を乗り物にして生きている、女性の方にもっと観られるべき展示だと思っています。
会期がまもなく終わってしまうのですが、新宿御苑前からほど近い、Place Mという静かなギャラリーで入場無料です。
何も買わなくても入れますし、誰もいない時間も多く、なんの脈絡もなくてもお入り頂ける空間です。

そして、アンダーヘアまで写っている写真はセレクトできなかったものの、この作品の入門編としてはとてもきれいな本として、『神画』本誌自体も発売中です。
写真は飯田エリカさん、わたしは被写体、ヘアメイクと衣装スタイリング、そして最後に掲載してるテキストを書きました。そこでしか読めない文章で、何十年後にどこかの古本屋でたまたま手にした人にまで繋がるようにと祈りながら書きました。

よかったら手に取ってみて欲しいです。


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戸田真琴×飯田エリカ写真集『神画』写真展supported by 主婦の友インフォス
2022年9月12日(月)〜9月18日(日)12時〜19時
※最終日は18時まで

新宿御苑前 Place M

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写真集『神画』


ありがとうございます!助かります!