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【小説】道徳的幽霊のはずみ

作者註:人によっては、読んで不快になる可能性のある表現が含まれています。


 小児性愛者に医師からの診断書が発行されるようになってから五年、満九歳以上の児童と診断書付きの大人の交際を実質的に認める『特例疑似保護者制度』法案が可決された。
 そんな文章をノートに書きこんで、思わず、はあ、とため息が出る。
 六年生のわたし、佐東はずみのクラスでは、週一で出る宿題に『チャレンジノート』というものがある。ノート一冊を渡されて、なんでもいいから最低いちページは勉強にかかわる内容で埋めなければいけない、というものだ。だいたい、いつも、社会の授業の調べものという名目で、その日の夕方にやってたニュースの内容を丸写ししている。その最新版が、これ、ってわけなんだけど。
 机の上の電気スタンドを消す。
 もう、けっこう眠い。
 チャレンジノートをランドセルにしまう前に、自分で書いた内容を見返してみた。ニュースのテロップを写したので、自分じゃ書けない漢字だってある。


 きょう、以前から議論を読んでいた『特例疑似保護者制度』が、国会で可決された。
 簡単にまとめると、二十八歳を超えた社会的責任能力があると認められる大人が、満九歳以上の児童と接触することが認められる『特例保護者』になれる、という法律だ。
 ここで、接触という言葉の意味は、明確に定義されている。
「育児の一部または全部を担うこと」。
 これが法的に許可されるという点以外は、既存の法律に倣う。つまり、いくら診断書があり、また特例保護者としての認可をもらっていたとしても、児童に対して性的な接触が認められるわけではない、ということだ。だが反対派からは、男児の精通、女児の生理に関する性教育などの問題を考えると、『育児の一部』として性的な行為が認められる可能性があるのではないかと指摘されている。
 また、『育児』という名目は、基本的には名ばかりである。
 たとえば、土日の学校が休みの日に、遊園地へ連れて行ってあげること。これも『育児』として認められる。
 たとえば、部活が終わって汗だくになった児童を、車に乗せて家まで送ってあげること。これも『育児』として認められる。
 つまり、実質的には、「児童と第三者の大人が密接な関係になることを肯定する法律」であると言える。たとえば遊園地で、たとえば車の中で、何が起きるとも限らない。ブラックボックスなのである。
 何よりその証拠となるのは、特例保護者になるための条件だ。
見てみよう。

①    対象となる児童に、その大人が特例保護者になっても構わない、という意思があること。
②    児童の保護者に、特例保護者になることを認めてもらうこと(これを確認するための書類がある)。
③    ペドフィリアの治療以外の事項を理由とする、精神科への通院歴がないこと。
④    特例保護者となることが認められた場合に、対象の児童と会った月は必ず指定の用紙にその接触の記録をつけ、その月の末日から三十日以内に役所へ提出することが毎回可能であること。

 特に、③の「ペドフィリアの治療以外の事項を理由とする、精神科への通院歴がないこと」というのが取りざたされている。これはペドフィリアが児童と交際することを暗に認めている法律なのだ、というのが、現在の一般的な見解である。
 この件をあつかったニュースは、街頭アンケートにて「賛成だ」が八割、「反対だ」が二割だったと紹かいしていた。

まとめ
 小児性愛者に医師からの診断書が発行されるようになってから五年、満九歳以上の児童と診断書付きの大人の交際を実質的に認める『特例疑似保護者制度』法案が可決された。


「はあ……」
 読み終わって、最初の「議論を呼んで」のところの字を間違えているな、と気づいた。まるっきり写したつもりだったのに、不思議だ。どこかで書く人の意識ってやつが、もれちゃうものなのかもしれない。
 養子とも違う。
 児童養護施設とも違う。
 そんな、ふしぎな、大人と子どものかかわり方。
 幼い子どもが好きで、『限界』を迎えた大人たち。そういうのを保護するための法律ができている。少子化を迎えて、子どもより、大人の方が優先され始めたのよ──と、お母さんは語っていた。
 ノートをランドセルに入れたあと、ベッドに寝っ転がった。リモコンで部屋の電気を消し、別のリモコンでエアコンのおやすみタイマーをつける。
──ロリコンって言葉は差別用語になった。
 わたしがもっと小さかった頃、六年前とかその辺……が、いちばん『ロリコン』に関して社会が混乱していた時期だ。ロリコンとは、小さい女の子が好きな人たちのこと。その辺りは、お母さんが週刊誌の取材によく答えていたので、わかる(お母さんは衆議院議員なのだ)。
 小さい男の子が好きな人たちを指す『ショタコン』はインターネットの中で生まれた軽い用語という側面が強かったし、また性犯罪、もしくは児童ポルノの件数も女児に比べると少なかったから、見過ごされたという。ただ、『ロリコン』という言葉はそのまま『ロリータ』って言葉が含まれている。揶揄的な文脈で用いられることが多いこの言葉は、自分の性的欲求を無理に抑えて生活しているペドフィリア当事者の人権を侵害しているのではないか。
 そういう意見から、
 お母さんは、『ロリコン』という言葉を使うのは差別的な文脈である、という見解を、国会の答弁で表明した。
 その国会議員の娘であるわたしは、見事に釈然としない気持ちになっている。
 もちろん。
 誰にも、相談なんてできなかったけれど。
「ん……」
 のどが渇いた。けど、冷蔵庫のある下の階に行きたくない。
 下の階には、わたしの特例保護者になる予定の、ペドフィリア(等級二級)の加藤先生がいる。
 最初、加藤先生は、ただの家庭教師だった。四年生の頃のわたしに、算数の担当でつけられたのが、男の家庭教師、加藤先生だ。時が経って、他の教科も担当してもらうことになった。
 たまに、あの人から、気になる視線を感じることがあった。Tシャツのすそからのぞく脇を見られたりとか、雨で濡れながら帰ってきた日に太ももを見られたりとか、そんな気がした。それでも加藤先生は決定的な接触は一切せず、えっちなハラスメント発言も一切しないで、逃げ切った。
 だから、特例保護者制度が施行され次第、母子家庭なうえにお母さんがほとんど家にいられないうちの、特例保護者になる予定だ。
 少なくともお母さんはそうほのめかしていた。
 お母さんの仕事のアピールにもかかわる内容なので、わたしに拒否権はない。拒んだら、どうなるかわからない。うちのお母さんはちょっとやばい。わたしは、最悪、殺されるかもしれないとすら考えていた。冷静に考えたらそんなはずはないんだけど、そう思わせる迫力はあった。
 だから、わたしはもうすぐ、加藤先生と『接触』しなければならなくなる。
 そのとき。
 わたしは、わたしでいられるのかな。


 一日に一回、起きてすぐ、貯金箱に小銭を入れている。値段は毎回、五円玉以上。もうだいぶ続けてるから、もうすぐ五百枚になる。
 今日も、入れた。
 カチャン、って音で、わたしはしゃんと目を覚ます。毎朝のルーティーンってやつだ。昨日入れておいたチャレンジノートがちゃんとランドセルに入ってることを確認した。
 朝七時。
 冬はとっても寒い。いつものニーソックスを履いて、スカートを履いて、ヒートテックを着て、トレーナーを着た。
 寒いのを我慢してまで生足を出したがる子もいるけど、わたしには意味がわからない。どこで誰に見られてるとも限らないのに。
 階段を上がる音が聞こえたと思ったら、部屋にノックの音が鳴った。
「はずみちゃあん、朝だよお……」
 加藤先生の、眠そうな声だった。
 わたしは揺れかけの心臓を右手で抑えながら、深呼吸をして、眠そうな普通の子どもの声を作る。
「はあい、いまおきまぁす……」
 加藤先生は階段を降りていった。
 こうやって騙さないと、一緒に一階に降りる羽目になる。
 十分くらいぼうっとしたあと、わたしはランドセルを持って、下の階に降りた。
 テーブルにはベーコンエッグ、レタス、マフィンの乗ったプレートが置いてある。加藤先生がよく作る朝ご飯だ。
 ニュースを見ながら食べる。
 カチャ、タン。
 チャ。
 シャキ、シャキ。
 はむ。
 ごちそうさま。で、歯を磨く。プチクイズのコーナーになったら、そろそろ出る時間だ。わたしはランドセルを背負った。
 出る前、加藤先生が声をかけてきた。
「はずみちゃん、今日も真っ直ぐ帰るの?」
 なんでそんなこと聞かれにゃならんのだ。
「あ—、ううん、そうなるかなぁ……」
 雑に言葉を濁した。お母さんはもう仕事に出たみたいだから、誰にも詰められることはない。
 加藤先生は、少し寂しそうに笑った。
「──お友達と遊んできてもいいんだよ。毎日お母さんと会えなくて、さびしいでしょう」
 それは意外な言葉だった。
 加藤先生は、二十九歳の優しい声で、さっきわたしが食べた皿をスポンジで洗いながら、少し振り向いて、わたしに、気をつかった。
 加藤先生は眼鏡をかけていた。眼鏡の奥の目が、教科書で見た仏像に似ている気がした。
「でも、わたし友達いないし」
 そう言って、「じゃ」と玄関に向かった。
 加藤先生の顔は、もう見ない。
「いってきまあす」
「いってらっしゃい」
 靴を履き、外に出る。
 いつもの通学路が広がっていた。ここから少し歩いて、集団登校の集合場所まで向かわなくっちゃいけない。
 本当は敬語をつかいたい。でも、何せ小学四年生の分別のないときから一緒にいる人だから、初期の会話がタメ口で、いまさら「ですます調」に変えるわけにもいかないのだ。
 それが、たまらなく嫌だった。


 学校ではとっくに加藤先生から教えてもらったことが、担任の斎藤先生の口から再生され続けている。斎藤先生のすごいのは、このほとんど同じ内容を毎年別の生徒に教え続けているってことだ。毎年同じことを喋っていくなんて、わたしにできるだろうか。その一年で、わたしなら何ができるんだろう。十一年しか生きていなくて、わからない。
 理科の田中先生はもっとすごい。全クラスに同じ内容を教えてるんだから。
 六年生は三組まである。
 四十年働いたとして、三かける三十、イコール、百二十。
 うえ……。
 なんてことを考えていたら、昼休みに。
 教室がだんだん騒がしくなる。わたしみたいに中学受験をする子たちは、それを迷惑そうにしながら塾の宿題とにらめっこ中だ。そうでない明るい方の子は外でサッカー。そうでない陰湿な方の子は教室で自作のカードゲーム。
 あるとき、オタクの香川くんが、ひそっとした声で話しているのが聞こえた。
「え、てか、羽崎──付き合ってんの?」
 と。
 友達のいないわたしは、昼休みは、いつも寝たふりをしてる。でも同級生の声くらいはわかる。わたしは耳がよかったし、人の顔と名前を覚えるのが得意だった。
 相手の、高橋くんの声を聞く。
「マジだよ、マジ。羽崎、大人の男と付き合ってんだって」
「はー。もうエロいこともしてんのかな? あ、ターンエンドね」
「してんじゃない? おれのターン。ドロー」
 話題はそれっきりで、あとは普通のカードゲームのシーンに戻ってしまった。
 羽崎。羽崎ひな。このクラスで、たぶん二番目にかわいい子。
 ドロー。絵を描く。引き分け。
 高橋くんの声で、受験用の英語を教えてくる加藤先生の声が、脳内に再生された。綺麗な発音だった。死んだお父さんよりもいい大学を出ているのよ、と、お母さんが自慢げに話していたことがある。加藤先生はその日、何も言わず、宿題の量を減らして、アイスをおごってくれた。
 彼は、いい人だ。それはわかってる。客観的に見て、なんの問題もない。ちょっとえっちな気がする視線の問題だって、わたしが勝手にそう思ってるだけ、……なんだと思う。全ては先入観の問題で、加藤先生は、仕事は完璧にしてくれるし、うちの手伝いだってしてくれる。お母さんと違って、わたしの心配だってしてくれる。顔やスタイルもいいし、身長も高い。
 同世代の女の子にとって、好きにならない要素がないんだろうし、周りの子に言ったら羨ましがられたこともある。嫉妬でいやみを言われたことだってある。たぶんわたしは、あの子たちから見れば、運がいい。
 でも──。
 トイレに行きたい。それでふと顔を上げて、びっくりした。教室では、羽崎さんが自分の席に残っていたのだった。一言も喋っていなかったから、机に伏したままのわたしは気づかなかった。
 わたしは思いついて、羽崎さんの席へ寄ってみた。
「ねえ。聞こえてたよね?」
 と、声をかける。
 羽崎さんは力なく頷いた。
 肩まである茶髪は、いつも通りつやめいている。その間に見えるうなじが高得点なんだと、男子の誰かが言っていた。その誰かは「おまえロリコンじゃん」とからかわれていた。たぶん「ロリコン=変態」っていう認識なんだろう。
 羽崎さんは自分に自信のない女の子だ。まだうつむいているのは、たぶん、「ここじゃ話したくないけど、わたしに意見をするのも怖くてやる気にならない」──みたいな意味らしい。
 手を取って、
「わたし、トイレに行きたいんだ」
 と、わざと照れくさそうに言った。
「でもさ、昨日、心霊番組やってたでしょ? 羽崎さんも見てたかな。あれにさ、トイレの幽霊の話が出てきてたんだけど……」
「み、見た、よ」
「そう? なら話が早いかも。まだ怖くて──一緒に行ってくれない? 実は今日、朝からずっと我慢してたんだ」


 心霊好きの羽崎さんの心を掴んだわたしは、個室の中でおしっこをしながら、加藤先生のことを考えた。『こういうの』も、喜ぶのかな。そんな発想が出てきてしまうこと自体、わたしの『偏見』ってやつが強すぎることの、証明なのかもしれない。
 わたしが性格悪いだけなのかな。
 加藤先生、わたしのおしっこに興味ある? なんて、そんなことを聞いたら、むしろ彼は、顔を真っ赤にして怒るのかもしれない。それとも顔を真っ赤にして照れながら、「……はい」とか、言うんだろうか。わたしにはそっちの方が想像しやすい。
 どっちにしても、わからない。
 わからないよ。
 自分と違う人間が、どんなことを考えているのかなんて、わかるわけないじゃん。
 疑わないでいられるのは、男か、お母さんみたいな強い女だけ、なんじゃないの──?
 だとしたら。
 わたしが明後日に実行する『けいかく』は、どういうことなのか──?
 立ち上がって、黄色い液体を見ながら、水を流した。
 個室から出ると、羽崎さんが立っていた。
 怖かったのはほんとだから、ありがたい。
「音とか、聞こえなかった?」
「え! いや、大丈夫だよ……でもたしかに、学校だと壁が薄いから、心配だよね……」
「そうじゃなくて、幽霊の声とか」
 ああ、と、羽崎さんは恥ずかしそうにした。わたしの方の個室の水の音、と思ってたみたいだ。
「羽崎さんにこんなこと聞くのも、あんまり意味ないのかもしれないけど。幽霊って──いると思う?」
「い、いると思うか、かぁ……。わかんない、かな」
 あれ、って思った。羽崎さんは二年生のときから、いつも朝読書の時間に、怖い系の本を読んでいて──それはいつも取り合いになるくらい人気の本だったのに、一番に読んでいた──だから、心霊マニアだと思ってたんだけど。
「私の場合は、いると信じてるっていうか、いてくれたらいいな、って感じなんだ」
「そうなの? でも昨日見たの、すごく怖かったよ」
「う、うん、あれは怖かったよね……。でも、なんだか『ふしぎ』な感じがして、やっぱり好きなの。怖い存在がいてほしい、っていうのよりは、『こっちがどうしても対処できない、完全に無敵な存在の世界があってほしい』っていうか……」
「ああ、なるほどね」
 そう言われただけで、なんとなく理解できた。似たようなことは、わたしも、たまに考える。
 たまに、保健室で一人で寝てたりすると、自分が幽霊になったみたいな気持ちになるから──。
 何にも縛られない。
 そこにいるのに、どこにもいない。
 どういう原理で生きているのか、わからないもの。
「ごめんね、話変わるんだけど」
 わたしは、楽しそうに話していた羽崎さんの声を打ち切って、本題に入った。
「大人の人と、付き合ってるの?」
 女子トイレの個室。
 ここなら、少なくとも香川くんはいない。
「あ。え、と……」
「大丈夫、変なこと言ったりしないから。うまく言いにくいんだけど、わたしも、似たような悩みがあって」
「それ──大人の人を好きになっちゃった、ってこと?」
 羽崎さんのその言葉に、胸がじくじく膿んだ。
 がまんした。
 羽崎さんの自分への認識は、「好きに『なっちゃった』」って感じらしい。
「まあ、そんな感じ」
「そうなんだ! じゃあ、えと……」
 羽崎さんは、「やっと仲間を見つけた!」みたいなテンションで、自分の両手をこすり合わせた。もともと顔が整ってるから、けっこう可愛い。こんなに喜んでくれるなら、さっきの答えも悪くなかったかな……とか、思ったとき。
 羽崎さんは信じられないことを言った。
「じゃあさ、佐東さんも、『した』んだ?」
 と、その言葉とともに、
 羽崎さんは自分の股を、左手で抑えた。
 ……え?
「なに、それ」
「え? してないの? だって『わたしたち』とかかわる大人って、それが目的じゃない?」
 何も信じていない目だった。
 羽崎さんは続けた。
「馴れ初めはね、誘拐みたいなものだったんだ」
「誘拐──、犯罪じゃ──」
「そうだよ?」羽崎さんは普通に頷いた。「ショッピングモールで捕まえられて、トイレに連れ込まれたの。それで、『された』んだ。佐東さんは違うの?」
「わたしは、普通に、勉強を教えてもらってるだけで」
「ふうんそう」いま、羽崎さんは明らかにわたしのことを見下した。「じつは、その人って、女の大人の人なんだけどね。私ね、何度も指を入れられたのよ。痛かった。でも、だんだん、やっぱり防衛本能なのかな? 怖いのを気持ちいいって思うようになってきちゃって。二年生の頃に私は『そう』なって、それ以来、何回も、会えないか試してみたの。でもあの人は気まぐれで。自分が会いたいときにしか会ってくれないし、あの人が『そこにいた』ことも当然誰にも話しちゃいけない。自然と私はクラスのことも話せなくなって、わたしの人生は、きっと台無しにされちゃったんだけどね──」
 信じられなかったけれど、彼女は普通に。
 恋バナをするように頬を染めて、言った。
「それが、幽霊みたいで」
 女子トイレの中で、ようやく理解した。
 羽崎さんは。
 わたしにとって、あまりに『決定的な存在』だったんだ。
 割れそうなくらい痛む頭を、両手で抑える。
 普通ってなんだ?
 恋って──『ある』の?
 幽霊。法律のない強襲。何も食い止める手段はない。
 そんなことを考えていたら、つい──、
「……わたしも、『そう』だったら?」
 なんて声が漏れた。
 でも羽崎さんは、わたしのかすかな希望なんか気にもしないで、
 ただ平然と、惚気話でもするように、だけど、なぜかわたしの胸をゆびさしながら、
「でもね。私の好きな人は、幽霊が怖いんだって」
 子どもっぽいよね。


 翌日の土曜日。
 加藤先生から、付き合ってほしい、と言われた。
 もちろん、結婚を前提に。


 羽崎さんの視線が忘れられない。
 羽崎さんの表情が忘れられない。
 羽崎さんのゆびさしが忘れられない。
 もしかしたらあの子は、わたしの『けいかく』を見抜いていたのかもしれない。わたしの机の上にある『裏チャレンジノ―ト』を読まれたこととか、あったか? 間違えて学校に持ってきちゃったとか?
 いや。
 そんなはずはない。
 だから、大丈夫。あの『けいかく』を実行しても、大丈夫だ……。わたしは安心だ。正直、『それから』のことなんてちっとも考えてないけど、でも、いまのわたしにとっては、『やる前にバレていないこと』こそ大事なんだ。
 朝七時。
 羽崎さんと話してから二日経った、日曜日。
 冬はとっても寒い。スカートを履いて、ヒートテックを着て、トレーナーを着た。
 でも。
 今日だけは、ニーソックスは履かなかった。
 一日に一回、起きてすぐ、貯金箱に小銭を入れている。
 今日も、入れた。
 カチャン、って音で、わたしはしゃんと目を覚ます。
 
 今日で五百枚になった。
 なので、とある細工をした。

 階段をのぼる足音が聞こえてくる。
 不安が加速する。いますぐ誰かに抱きしめてもらいたくなる。
 チャンスは一度きり。
 すべてを、おわらせる。
 ノックが鳴る。
 法律も、恋愛も、親子も、偏愛も、病気も、幽霊も、羽崎さんの視線も、わたし自身も。
 すべて。
 手汗を気にする中、いつもの眠そうな声が聞こえた。
「はずみちゃあん、朝だよお……」
 わたしはドアを開けて、

 五百枚の小銭を詰めたニーソックスで、加藤先生の頭を殴りつけた。
 
 わたしの部屋は。
 階段を上がってすぐのところにある。
 だから、転んだら、落ちる。
 ずっとこうするつもりで、五百日間、貯金してきた。
 殺す。
 殺す、殺せば、殺すとき。
 加藤先生はもろに転がり落ちた。
 黒くても、ニーソックスに血が滴っているのがわかった。
 よし、という平坦な達成感のあとから、どんどん、次はどうしよう? という気持ちが湧いてきた。
 事故ってことにしても全然いい。まさか小学生の貯金にルミノール反応を期待する刑事もいないだろう。ニーソは燃やしたらいい。お母さんは、加藤先生が死んだらヒステリーを加速させるだろうから、しばらくわが家は相当ひどいことになるだろうけど、でも、なんだか、そういうことを考えていると、
 あたまがまっしろになるくらい、きもちよかった。
 こんなことしても、損しかない。
 なのに、わたしは、やった。

 そのとき、やっと。
 色んなことの意味が、わかった。

「ねえ、せんせい」
 階段を降りながら、声をかけた。
 いまにも、大きい声で笑いだしてしまいそうだった。
 なんだ、っていう『かんわ』の気持ち。
 それだけがある。
「わたし、やっと、わかったかもしれない。加藤せんせいの、こと。あなたが何をかんがえてたのか、論理じゃなく、感覚で」
 加藤先生の顔が、こっちを向いてる。倒れているうえ、首が変なふうに曲がってるから、スカートの中が見えてるだろう。
 自分をゆびさしながら、言った。
「あなたは『わたし』が好き。
 それで、わたしは、『こわす』のが好きだったみたい」
 これで、整理できた。
 やっと、シンプルに。

 わたしは、にくかったのだ。
 絶対に誰にも認められないシュミを持つ自分の横で、だんだんと、おおらかになっていく世界が。

 わたし、先生を殺せて、気持ちいい。
 この家には、いま、幽霊しかいないから。

 わたしたちは、だれにも見えない。

 階段を降りきる。
「ごめんね」
 そう言って、もう一度ロリコンを殴りつける。
 外傷は残るだろう。でもいまはどうでもいい。
 殴り続けた。殴り続けすぎなくらい殴り続けた。家に人はいない。いるのは、幽霊だけ。その証拠に──、
 わたしが最後に聞いた加藤先生の言葉は。
 とても心安らかな、あるいはひどく興奮したような調子の、
「……好い、ね」
 という、それだけだった。
 このひとは、いまだけ、がまんしなくてよかった。
 パンツも見れたしニーソックスも顔にぶつかったし、美人議員として話題の母を持つクラスいち可愛い私を見ながら死ねるし、それは、嬉しいだろう。
 ここにいるのにどこにもいないもの同士。
少し尊敬するような気持ちで。
おかしいわたしは、こう答えた。
「死ねよ」

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