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書き写すことでしか言い表せない時がある

この人のつくってくれたご飯を食べたことがある。本書『読書の日記』(NUMABOOKS)を下北沢のB&Bで手に入れ、イベントが始まるまでの間、読みはじめた瞬間、真っ先に思ったのはそのことだった。本を読んでいてそんなことを思ったことはなかった。

というのも著者である阿久津隆は本読みには言わずと知れた初台のfuzkue店主であり、私はかねてからfuzkueに通ってきた。彼は本の読める店を営み、彼もまた本を読み続ける。本書はその日記、一年分である。彼は本を読み、野球について語り、試行錯誤する。店を閉めてビールを飲み、餃子を食う。次に読む本をどうしようかと逡巡する。休みの日に訪ねた場所で偶然耳にした会話がある。

本書は素朴な喜びに満ち溢れている。彼は届いた本に「わ、本だ!」というような歓喜の声を上げる。自分の文章を読み返す時にだって喜びを隠さない。そして、その分だけ、辛い時間には辛い気持ちが襲ってくる。読んでいる本の中の、あるいはニュースの、社会の、生活の辛いことは、数々の思考の連鎖を経て、やがて彼が営むfuzkueの話へと収斂する。明日こそはと祈り、黙々とExcelに打ち込んでいく。

他の日記との大きな違いは、その時々に読んでいる本の引用の仕方だろう。フォークナー、ヘミングウェイ、植本一子、ベン・ラーナー......。引用の数々を読んで、果たして保坂和志を読みたくならない人がいるだろうか。ロランバルトの言葉に胸が熱くならないということなどありえるだろうか。

では一体何が違うのか。その時々に読んでいるものを引用し、その引用によって彼はドライブされているように感じられるのだ。気づけば引用された世界が現実世界と入り混じっている。彼は引用という風をうまく体で受け、わずかに体を宙に浮かせる。それは、映画『LIFE!』でベン・スティラーが演じる、妄想癖のウォルター・ミッティのようだ。そうすることによって、彼はこの現実世界からわずかに飛び出そうと試みている。読んでいる私たちも自分がドライブされるのを感じることができる。

それまでまったく別の場所や時間にあった小説の世界が、一度引用されると、紙面においては隣り合わせになる。その時、読まれている世界と現実世界の間に、安易に「シンクロニシティ」などとは呼べないような、小説世界が現実世界を動かし、一方で現実世界が小説世界を揺り動かしてしまうような事態が生じる。沈んだ気分が、そのような小説を読んだからなのか、それとももともと沈んだ気分が、そのような小説を読ませたのかはわからない。因果関係というようなものではなく、ただその二つが隣り合っているのだ。

そんな中で、ただ1箇所だけ引用につづく文章がふたたび純粋な引用であるところがあった。

「同じことを書こうとしていて、でも同じことを書いてはいけないなんて決まりはどこにもないというか、同じことを書くことはむしろよいというか何度でも何度でも同じ記憶をたどることは何か、豊かなことのように思う」(阿久津隆『読書の日記』p.497)

そう述べた上で、一度は引用したある過去の記憶を綴った文章を、今度は地の文で一言一句違わず書き写していく阿久津の文章を読んでいく時、ほかでは味わったことのない感覚を覚えた。彼は過去のある記憶について何かを語ろうとする時、省略することも、要約することもなく、ただ一言一句過去の自身の文章を書き写していくしかない。書き写すことでしか言い表せない時があるのだ。私もまたそれをただ大切に読むしかない。

『富士日記』を読みながら、店の調子が振るわない夏は辛そうだった。『富士日記』を読む彼は、『富士日記』の終わりを少し恐れている。終わりが近づくにつれて、自身の日記にも終わりが訪れるのではないか、つまり自分はひょっとして死んでしまうのではないか、と考えたりする。しかし、本書は2016年の10月から2017年の9月までのちょうど1年間を切り取った日記である。その後も阿久津隆はfuzkueを営んでおり、本を読んでいることを私は知っている。だから、明確な「ラスト」というものは存在しないはずであると私は高を括っていた。昨日と同じような今日が続き、そしてこの日記もまたそのようにしてぷつっと終わりを迎えるのだろうと思っていた。しかし、私は電車の中でこのラストを読んで、不覚にもボロボロと泣いてしまったのだ。確かに、彼はずっとこの一年間、あのことに言及してきたのだったから、それは当然の帰結だったのかもしれない。だが、しかし、まさかこんな結末が待っているとは思わなかった。

どうしようかと思った私は、涙を拭きながら再び2016年の10月1日から読み始めた。阿久津隆はまだ2017年9月30日のことを知らないようだった。彼は店の仕込みをし、2016年10月1日を淡々と綴っていた。


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