第1回 引越し小説としての『百年の孤独』

ホセ・アルカディオ・ブエンディアの一族が海から遠く離れた内陸の土地にマコンドという村を開拓し、繁栄させ、百年の後に村も一族も滅んでしまう。大雑把に言えば『百年の孤独』はその一族と村の年代記である。しかし、それを知ったところで『百年の孤独』を体験したことにはならない。この文章では、大雑把なあらすじとは対極のこと、細かいところに拘りながら読み進めたいのだ。なにしろ、可笑しなことは細部に宿るのだ。町を繁栄させるのも、滅ぼすのも、国家を転覆しうるものもやはり最初は細部に宿ったはずだからだ。そうやって冒頭から読みはじめてまず引っ掛かるのは、マコンドを開拓した若き族長ホセ・アルカディオ・ブエンディアの腰が据わっていないという事実だ。開拓者らしからぬその姿に驚かされる。彼はマコンドが本来あるべき場所を求めていまだに彷徨っており、心は引越しの最中なのだ。

せっかく開拓したにもかかわらず、たちまち引越そうと試みる。それはいったいどうしてなのか。まるではじめて出勤する日から、別の仕事を探しているひとのようではないか。なぜか、このふらついている男のことが気になった。そんなホセ・アルカディオ・ブエンディアについて考察を深めなければと思いながら、私もまた雑念を払いきれずに、たまたま見つけたテレビドラマを観てしまったのだ。それは『それでも家を買いました』(’91)というドラマだった。バブル絶頂期の地価が高騰しつづける時代に、夢のマイホームを求めて東奔西走するサラリーマン夫婦を描いた名作だ。主人公は化学専攻を卒業してプラスチック加工機械を手がける企業に努める山村雄介と、その妻・山村浩子。それらを演じるのが若き三上博史と田中美佐子だ。神戸支社で出会った二人は神奈川への転勤を機に結婚し、ハネムーンから南武線沿いの社宅に引っ越してくる。そんな場面からドラマははじまる。

 社宅にやってくる山村夫妻 [3]

社宅にはさまざまな人たちが住んでおり、浩子は引越し早々息苦しさを感じる。たまたま知り合った社宅の近所に住む夫婦から、
「今後ますます土地は高騰し、今マイホームを探しをしておかなければ、サラリーマンには手が届かなくなる。後になって後悔してしまってもいいんですか」
と半ば脅されて、少しずつマイホーム探しをはじめる。

リビングで集う社宅の同志たち [3]

そして、当時中学生だった私の記憶に鮮明に残っているシーンが、夫の雄介が「海老名のマンションにしとこうぜ」と言ったときの妻浩子のセリフだ。
「海老名は、ゼッタイにいやー!!」
テレビのスピーカーがうなるほどの大絶叫だった。私は当時、海老名はとても酷い場所なのだと記憶し、会社に入って出張で海老名を通るたびに、あの
「海老名はゼッタイにいや!!」
といったときの田中美佐子の悶絶した表情を思い出したのだった。そうだ、彼らもまた入ったばかりの社宅から一刻も早くマイホームに引越ししようとしているのだった。

『百年の孤独』のブエンディア夫妻、『それでも家を買いました』の山村夫妻。時代や場所は異なれど、これらをいっしょに考えることは、なにかこれまで気付かなかったところへと私たちを連れて行ってくれるのではないか。私はその分の悪い賭けに懸けてみたいと思った。そう思った途端に、もし山村浩子たちが『百年の孤独』の舞台マコンドに引越しすることになったら、どうなっただろうかという割とどうでもいい考えが頭をよぎったのだ。
『それでも家を買いました(、マコンドに)』
それは大変だ。なにしろ「マコンドも当時は、先史時代のけものの卵のようにすべすべした、白くて大きな石がごろごろしている」ような「川のほとりに葦と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村」だったし「ようやく開けそめた新天地なので名前のないものが山ほどあった」(p.12)からだ。
「なによぉ、ここぉ。話をするたびに、いちいち指ささなきゃいけないじゃない。私こんなところには住みたくないわ。オープンキッチンじゃなきゃいやなの、こんな漆喰の家では暮らせないわよ」
「そんなこと言ったって仕方がないだろ。俺の給料じゃ、ここが精一杯なんだよ」
浩子がしかめっ面をして雄介に噛み付く姿が容易に想像できる。

ホセ・アルカディオ・ブエンディアとその妻ウルスラたちはその住むのに骨の折れる土地に入植して暮らしていたのだ。どんな土地であれ人を導き村を開拓するという仕事は簡単に成し遂げられるものではない。ホセ・アルカディオ・ブエンディアにも「若き族長として振る舞い…村の発展のために協力を惜しまなかった」(p.20)時代があったのだ。しかし、その注力ぶりを読み進むにつけ、やはりこの人は大丈夫なのだろうかと不安になったのだ。「どの家からも同じ労力で川まで行って水汲みができるように家々の配置を決め」(p.21)たり「ほかの家よりよけいに日があたる家が出ないように考えて通りの方向をさだめた」(p.21)りする族長は、頼りになるというよりも、生真面目で、若干神経質な融通の効かぬ男なのではないかというふうに考えざるをえないのだ。

そして、その熱意や真面目さが、ちょっとしたきっかけでまったく違うものに湯水のごとく注ぎ込まれることになったと知り、私はなにか既視感を覚えた。これはなんだろうか。きっかけはジプシーたちが持ち込んだ発明品だった。「毎年三月になると、村のはずれにテントを張り、笛や太鼓をにぎやかに鳴らして新しい品物の到来を触れて歩」(p.12)るくジプシーの一家がやってくるようになった。ジプシーのひとりメルキアデスが持ち込んだ磁石や巨大なレンズ、錬金術やらに魅せられて、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは献身ぶりを示して実験や研究に没頭し、部屋に籠りきりになってしまう。「率先して社会に奉仕するというこの心がまえも…世界の不思議を見たいという願望によって…あっさり消えた。」(p.21)

万一の時のためを思っていた山羊や、妻ウルスラの父がくれた植民地時代の金貨やらを、ジプシーの発明品と交換してみたり、錬金術を試すために、金貨をどろどろに溶かして、わけのわからないものと混ぜ合わせて、結局鍋の底に焦げ付かせて使い物にならなくしてしまったりする。まったく動じない夫で、言い出したら聞かないことも知っているため、ウルスラの悩みは深い。レンズを兵器として利用しようとして、「焦点を結んだ太陽光線にわざわざ体をさらし、崩れて容易になおらぬほどのやけどを負った」り、「火事を出しかけた」(p.14)。また、「天体の運行を観測するために中庭で徹夜をし、正午をはかる精密な方法をきわめようとして日射病で倒れかけた」(p.15)りする。ひとによってはこんな男許せないと思うかもしれない。けれど私はこういう人たちに既視感を覚えるのだ。そうだ、彼はまさに真理の追究に命を懸ける研究者なのだ。

彼は熱に浮かされたようにぶつぶつと独りごとを言い、そしてある日ある結論を得て家族の前で突然こう叫ぶのだ。
「地球はな、いいかみんな、オレンジのように丸いんだぞ!」(p.16)
それが正しいかどうかなど関係がない。むしろ、村での生活ではそんなことはどちらだって構わないのだ。そしてどちらでも構わないことを突然叫びだした夫に妻のウルスラは叫び返す。
「変人は、あんただけでたくさんよ!」(p.16)
そう言って、彼が研究に使っていた「天体観測儀を…腹立ちまぎれに床に投げて…壊した。」(p.16)

悪夢だ。私なら泣いてしまうかもしれない。ところが、それでも彼はあきらめない。これまでに触れた遠方からやってくる発明品だけでは飽き足らず、文明世界との接触を目指して、村の男たちを連れて村を出る。そして、求めてもいない海に遭遇すると、彼はこう言い放った。
「なんだ! マコンドは、海に囲まれているのか!」(p.25)
ついて言った男衆には言いたいこともあったと思うのだ。
「なんだじゃないよ、ブエンディアさん。あんたがうまくいくって言うから付いてきたんだよ。これどうするんですか」
でもそんなことを周囲には言わせない。いや、言っても無駄だと思わせる。正直で真面目な性格だからこそ成せる技だ。リーダーならこういう落胆の時にも、その落胆を表に出さずに、気の利いたことのひとつも言うに違いない。
「えぇ、結果として今回は海にたどり着いたわけですけれども、これは我々の村・マコンドの発展に今後必ずや助けとなることでしょう」
とかなんとか、当たり障りのないことを言い、尽力した人たちの努力を労うものではないか。しかし、そんなことはしないのだ。

そして、まだ諦めず、村の周辺の「地図を書きあげると、マコンドを適当な土地に移すことを思いつ」(p.25)くが、ウルスラがその計画の先回りをして邪魔をする。なぜいつも企てが頓挫するのか、身内を疑うことのない純粋な彼はひとり準備をし、妻にこう言う。
「誰にも行く気はないらしい。わしらだけで出かけるか」
するとウルスラは
「出かけませんよ。この土地に残ります。」とおだやかだが固い決意で言い、
「ここに残りたけりゃ死ねというのなら、ほんとに死ぬわよ!」(p.26)と叫ぶのだ。

私はここで再び『それでも家を買いました』のあのシーンを思い出さずにはいられなかった。
「海老名はゼッタイにいやー!」
田中美佐子は絶叫していた。社宅の食器棚がガタガタと揺れ、カーペットはジジジッと地響きを立てた。海老名は嫌なのだ。そんなところには引越したくない。昨今のドラマではNGになりそうなセリフだが、その時、ウルスラと田中美佐子演ずる山村浩子は通じ合うのだった。

三上博史演ずる山村雄介は妻浩子に顔を寄せ、やさしい声でなだめるようにその海老名の家のよいところを説明する。
「横浜までの電車はちょっと時間が長くなるけどさ、駅からは近いわけだしさ。こんなにいい条件の物件、なかなかないって不動産屋も言ってただろ?」
それはまたホセ・アルカディオ・ブエンディアと重なるのだ。ホセ・アルカディオ・ブエンディアも妻の意志の強さに驚きながら、「地面に魔法の液をまくだけで思いどおりに作物がみのり、苦痛を消すためのあらゆる器具がただ同然の値段で手にはいる不思議な土地」(p.26)があるのだと言って気を引こうとした。

しかし当然のことながら、彼女はそんなことは信じずに、こう言い放った。
「おかしなことばかり考えるのはやめて、少しは子供たちの面倒をみたらどうなの」(p.26)

何もかもがその時に起こった。マコンドを移すことを諦めきれなかった彼が、「妻の言葉をまともに受けとめた。」(p.26) 「これから先も離れることがないとわかった家のなかからぼんやりと子供たちをながめ」(p.27)るうち、瞼が濡れていき、それを拭いながら、地に足のついた暮らしをしていく決心を固めた。

素晴らしいですよ、ブエンディアさん。やれば出来るんです。私は感動した。でも、「その瞬間から地上に存在しはじめたという印象を与え」(p.27)た駆けまわっているふたりの子供たち、兄ホセ・アルカディオは十四歳、弟アウレリャノは六歳。いや、いくらなんでもそれはちょっと遅すぎるのではないだろうか。

でもこの救いようがないダメなところもそうなら、救いもやはりこの人には常に生真面目さにある。やはり憎みきれない。一度、決心するとさすがは熱心で、真面目な族長である。彼はその貴重な時間を子供たちのために割くようになる。いいか悪いかは別にして、「さまざまな世界の不思議について話してきかせた」(p.28)りする。

そのころでもまだジプシーは毎年来たのだけれど、ジプシーにも時代の転機が訪れていた。メルキアデスは死んだよとジプシーたちが言う。そして、もってくる発明品もこれまでとは随分違っている。「タンバリンの音につられて金の卵を百個も産みおとす雌鶏」にはじまり「ボタン付けにも熱さましにも役立つという万能の器械」「暇つぶしにもってこいの膏薬」(p.28)。いったいこれはなんなのか。なにものかはわからないが、明らかに時代の転機が訪れるていることだけはわかる。そして、小説の冒頭で述べられている氷との出会いが訪れる。ホセ・アルカディオ・ブエンディアはアウレリャノを連れていった市場ではじめて氷に触れるのだ。アウレリャノは
「これ、煮えくり返ってるよ!」(p.30)と言い、父は
「これは、近来にない大発明だ!」(p.31)と叫ぶ。

こうして、ホセ・アルカディオ・ブエンディアはマコンドという土地に落ち着く決心をし、地に足をつけた生活をはじめることになる。そもそも、どうして彼は故郷を離れ、マコンドを開拓しなくてはならなかったのか。一方、夢のマイホームを求める山村夫妻にどのような試練がつづくのだろうか。ぜひとも『百年の孤独』を求めて本屋さんへと走ってください。私はまた日がな一日、代わりに読みつづけます。

(次回は8月24日(日)に更新予定です。)

参考文献
1. ガブリエル・ガルシア=マルケス,『百年の孤独』(鼓直訳), 新潮社, 2006
2. Gabriel García Márquez, “Cien años de soledad,” 1967
3. TBSドラマ「それでも家を買いました」, 1991

* 本文中、ページ数のみを示している場合は、文献[1]からの引用です。

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