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2024-04-20: 関西新卒時代を振り返る(1)

開放しているマシュマロに、おれの新卒時代に関する質問が数件届いていた。

新卒か。
おれは10年近く前、大手システムインテグレーター(SIer)の新卒採用枠になんとか潜り込んだ。そこは転勤の少ない社風だと、リクルーターから聞いていた。
おれの地元は関東だから、新卒研修後の東京本社配属は確実だと、ひそかにタカをくくっていた。

そんなマヌケに下った辞令は、まさかの関西拠点配属。
世の中、そんなに甘くはない。

現在のおれは関西を離れて久しいが、懐かしい昔日を振り返ろうと思う。


大阪府・新大阪

東京と東海道新幹線で繋がる新大阪駅は、空港と並び大阪府の広い玄関だ。
25歳の春。おれははじめて大阪の地を踏んだ。

両親こそ徳島県の生まれ、おれも出生は徳島だが、育ちは関東の田舎だ。
大学院まで千葉のいなたいキャンパスに籠もりきり、ひがな一日漫画を描いて過ごしていた。
それが一転、大都市、それも大阪勤め。とどめは初の独居。
正直、不安に圧殺されそうだった。

2015年ごろの新大阪駅はとても大きく綺麗だった。なにより、東京のハブ駅みたいに導線がゴチャゴチャしていないのが良い。
おれはいまだに渋谷駅が苦手で、何度も遭難しかけている。渋谷勤務時代は、暗記済みの特定ルート以外は絶対歩かないようにしていたくらいだ。

銀行のおっさん

引っ越し直後、おれはインフラの銀行引き落とし手続きのため、新大阪のメガバンク支店を訪れた。
目に飛び込んできたのは、窓口で口角泡を飛ばし、受付に激昂するスーツ姿のおっさんだ。

おっさんは大声で受付担当者を恫喝していた。季節は初夏、おれが感じるめまいは気温のせいだけではない。
どうやら、何かの手続きに印鑑が必要なのだが、おっさんが印鑑を出し渋っているようだった。なぜ。

おれの脳裏には「通報」の2字が浮かんだ。
しかし、待合席の客は老若男女微動だにせず、警備員も持ち場を離れる気配がない。つまり、これはオオサカ・シティにおける、昼下がりのコーヒーブレイクとなんら変わらない平穏なものなのか……?

痺れを切らしたおっさんは、あろうことか自身の印鑑を思いきり窓口に投げつけた。「これでええんやろぉ!!!」

おれは、とんでもない街に来てしまったのではないかとしみじみ思った。

東海道新幹線

東海道新幹線の切符窓口でも、駅員に激昂するおっさんを見たことがある。
同行していた先輩が「あれは輩やな。恫喝しても列が早く進むわけやないのに……」と呆れていた。

無論、駅員を恫喝する利用客は悲しいかな、全国各地に出没しているだろう。それでも、大阪弁での激昂はけっこうインパクトがある。怖かった。

ところで、おれは関西配属に際して東海道新幹線を利用して来阪したのだが、切符の領収書を控えておくという社会人の基本を心得ていなかった。ゆえに、大阪拠点着任初日に大目玉を喰らってしまった。

だって学校で習ってないもの。
実は、おれ以外の関西配属同期は転勤に際しての特別研修を受けていたらしい。おれだけ配属先の都合で参加できず、知識ギャップを生じたままアホ面下げて着任したわけだ。

あろうことか、おれは初日に始末書を書いた。こんなの両津勘吉が書くものだと思っていたので、それは落ち込んだ。

兵庫県・尼崎

おれの社員寮は尼崎にあった。

寮といっても、新築に近いマンションの借り上げ社宅で、一般の入居者も借りている綺麗な物件だった。1Kの部屋は恐ろしく狭かったが。

ベテランの先輩は「尼崎なんて、昔は若い女子なら一人で歩けなかった」と言っていたが、おれ自身に危害を感じることはなかった。

深夜近所のバーへ歩いている時、「待てコラァ!!!!」「やめてください!!」と誰かが襲われていたくらいか。すぐそばに交番があるのにね。

2度も警察に捕まった

おれはこの街で2度、警察に捕まった。数ヶ月おきに。

両方バイクの交通違反。これはまいった。

おれは大阪勤務時代に普通二輪の免許を通いで取得した。
新人でたいして仕事量がなかったことと、当時はちょうど漫画連載も切れており、独身だったので比較的時間の余裕があったのだ。

学生時代は親に大反対されていたバイクだが、社会人になったのだから大手を振って乗ってやろうというわけだ(車の免許は持っていた)。

しかし、尼崎の古い町は一方通行が多く、おれはこれに手を焼いた。
すぐ目の前のマンションに帰りたいのに、一通のせいで大回りを要求される。
寝に帰る街なのでいまいち土地勘もなく、適当に走ってたら切符を切られて御免というわけだ。

右折禁止が1回、時間規制の進入禁止で1回。
そのためおれは、札付きのワルとして初心運転者講習を受けることになる。

初心運転者講習は違反した自治体で受ける必要があるのだが、当時おれは既に東京本社に異動していたため、違反講習を受けるためだけに東京ー兵庫間を移動した。これはキツかった。
初心運転者講習の先生はとても優しく、キャブ車に乗せてくれてとても楽しかった。

そもそも、おれが学んだ教習所・尼崎ドライブスクールはどの先生もとても優しく、教習は楽しかった。
自動車免許を取得した千葉の教習所はあたりがキツい先生に結構当たったので(2009年ごろの話だ)、身構えていたが杞憂であった。
みなさんもぜひ、あまドラへ。

スケボーで怪我した

人間、暇があるとろくな事をしない。おれがその見本だ。

当時、おれは暇を持てあましツーリングや登山に手を出していたが、さらなる趣味を求めてスケボーに走った。

当時はちょうど、バレンシアガにデムナ・ヴァザリアが着任し、ストリート系のニュアンスがあるファッションが流行り始めていたこともあり、おれは勢いスケボーカルチャーに手を出したのだ。

本当は普通にトリックをやるためのコンプリートデッキを買うつもりだったが、梅田のショップで「クルーザーで町を走るほうが楽しいよ」と店員に勧められ、クルーザーデッキを購入。

退勤後、夜な夜な人気のない尼崎の工業道路などを下手くそなクルーザーで移動していた。
正直、今となっては正気とは思えない。

終わりは突然やってきた。
十字路に侵入する際、同様に脇から侵入してきた車に驚いて転倒し、腕を強打。そのままフラフラ帰宅するも、どんどん腕は腫れ、関節は90度から動かなくなってしまった。
利き手だったので、正直「終わった……」と思った。

翌日、退勤後に梅田のクリニックに行ったところ、骨折こそしていないが、肘関節内に水が溜まってしまっているので抜きましょうと言われ、肘に注射を突っ込まれた。
恐ろしい話だが、腕が動かないほうが恐ろしかったので、助かったと思ったな。

道路で遊ぶな、という話。25歳にもなって……。
ちなみに、しばらく包帯を腕に巻いていたため、当然会社で「それどないしたんや」と話題に上がる。
まさか「スケボーしてて転んじゃいました」とは言えず、駅で転んで……などと誤魔化したところ、「どうせお姉ちゃんに見とれてたんやろ!」と笑い種に。一笑いに繋がるところは関西らしい。

飲食

立花には天下一品があったので、いつでも天下一品が食べられてうれし~と思っていた。

酒はどこで飲んでよいか分からず、ネットで調べたクワイエット・ストームというバーで時々飲んでいた。
たいてい、午前零時前後くらいに、ふらっと一人で出かけて2杯ほどひっかけていた。
おれの部署の人は誰も入寮しておらず、寮生とは没交渉だったから、おれはほとんどの時間、尼崎で一人ぼっちだった。
Twitterがなかったら、おれはどうなっていたのだろう。

行きつけのバーが欲しくて、「大阪ビアマップ」みたいなパンフレットを手に、一時期歩き回ったことがある。

福島のとあるバーで、入店直後、女性店長から「アンタ、東京モンやろ」と声をかけられギョッとした。その後、常連客も絡めて、何かいろいろと「東京モン」いじりをされた記憶はあるが、ディテールは記憶していない。
正直、かなりショックだったし、少し怖かった。
同じ日本でも、おれが「よそもの」になる場所があるのだと、おれはこの時まで幸福にも気づいていなかった。

その日を境に、おれは大阪で居場所を探し回るのはやめた。

駅前の鳥貴族で夕飯を食うのが好きだった。
当時は新卒ということもあって、比較的自炊の真似事もしたが、たまに鳥貴族で一人飲みするのが楽しかった。

商店街でたこ焼きを売っていたが、結局一度も買うことがなかった。
驚くほど安かったのに。きっと、屋台でのコミュニケーションをどこかで恐れていたのだろう。

関西を離れる直前、いままで入ったことのない飲み屋に立て続けに入ってみた。
老夫婦が営む割烹だが、店主が元日産のエンジニアで、フェアレディZの開発などについて話してくれた。もっと早く知っていれば……。

駅前のパン屋が好きだった。
「関西スーパー」で買う惣菜が好きだった。とん平焼きが好きになった。
親が来阪したときは、駅前の古い商業施設でトンカツを食った。良く覚えてる。

それ以外

尼崎に限らないが、関西時代は道を歩いていると知らない人から結構声をかけられた。
梅田ではかなりの頻度で外国の方から道を尋ねられたが、地元の方にもよく声がけされた。

コーナンだかで段ボールを買って、大汗をかきながら自宅へ歩いていたとき。
しらないおじさんに「暑いよな! がんばれよー!」と声をかけてもらった。そんなの、関東では一度もなかった。
おれはそういう思い出を、関東に戻ってもしつこく思い出している。

おれはあの街に住めて良かった。



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