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検察庁法改正案/黒川氏/ゴーン氏に関する政府の会議の最終報告書について

本日、法務・検察行政刷新会議第9回会議が終了し、会議体としての報告書を上川法務大臣にお渡しする運びとなりました。(事の発端となった元検事長が同日に検察審査会で起訴相当とされていることは皮肉な出来事でした。)ついては、2020年上半期を揺るがした大事件を受けて設立された会議で何が話され、大臣に報告されたのかを、参加した立場のけじめとして記載しておこうと思います。

発足の経緯と選任

法務・検察行政刷新会議とは、ある2つの事件によって法務省・検察庁が国民の信頼を失ったため、そのあり方を見直すべく、森まさこ前法務大臣が設置した会議体です。

その事件とは、①検察庁の勤務延長問題・検察庁法改正案(廃案)・黒川東京高検検事長の賭け麻雀事件と②カルロス・ゴーン被告人の海外逃亡に端を発する国際社会から日本への刑事手続に関する批判という、多くの皆さんにとって記憶に新しい事件です。

私はこの会議体で、議決権を有する「委員」とは別の「オブザーバー」という役割を拝命しました。刑事手続の専門家でもなければ行政法などロースクール以降触れてもいないような法曹の末席の私がこのような役割を与えられたのは、当時「#検察庁法改正案に反対します」というハッシュタグが大きく話題になった際に、論点がずれないよう以下の記事を書いたことがきっかけでした。

他の委員の方々(リストはこちら)は、法曹の大先輩や事業で名を馳せた経営者の皆様など、錚々たる方々が選任されていました。司法試験に合格するために読んでいた本を書いていた方々と同じ場で議論をすることは大変な緊張で、初回会合の際はハンカチを2枚持っていったことを覚えています。

しかし、座長の鎌田先生(前早稲田大学総長)から、冒頭「オブザーバーという名称ではございますが、おそらく機会はないであろう決議の際に議決権がないだけでして、他の委員と同様に自由に発言されてください」とお声がけいただき、肩の荷が少しばかり下りました。

企業法務に従事する人間がなぜこのような場に行くのかと質問されることも多かったですが、契機となった事件に疑問を持ち、それが公益に資するのであればどこへでもお伺いするという気持ちでした。

3つの議題

森まさこ法務大臣(当時。現在は上川法務大臣に変わっています)は、この会議体で冒頭3つの議題を設定されました。

第1の柱:検察官の倫理(賭け麻雀問題を受けて)第2の柱:法務行政の透明化(検察官の勤務延長・検察庁法改正案問題を受けて)第3の柱:我が国の刑事手続について国際的な理解が得られるようにするための方策(カルロス・ゴーン事件を受けて)

それぞれの柱は、カッコ書きの問題・事件を受けて設定されたものと理解しています。しかし、この会議はここからが特殊でした。これらの大きな議題は設定しつつ、その中身は侃侃諤諤、委員たちで議論をし、自由に提言いただきたいと大臣から委嘱されたのです。

政府委員を様々兼任される多くの委員が今日の最後の言葉でも、「このような特殊な会議体は初めてだ」とおっしゃっていました。もちろん良い意味も悪い意味も込められていますが、私自身は、なぜ国民から法務行政・検察行政に疑義が向けられたのか、3つの観点から原因を考え、改善策を提案してほしいという、外部の有識者への必死のお願いであったように感じます。

半年間、各回2~3時間、計9回の議論を経て、どのような議論がなされたのか、またどのような成果があったのかを簡単に振り返ります。(なお、報告書全文はまもなく法務省Webサイトに掲載されるかと存じます。また議事録も同リンク内で全て公開されていますのでご興味あればぜひご高覧ください。)

第1の柱:検察官の倫理

賭け麻雀問題を巡っては、主に3つの点が問題となりました。
検察官としての倫理規範の策定の是非
②倫理意識を高める教育等制度設計のアップデートの是非

メディアとの関係に関する規範の要否
です。

会議体の結論としては、二点目の検察官の倫理意識を高める制度設計の見直しでは一致し、各論として何を行うべきかはそれぞれの委員からの様々な具体策が報告されました。

ただし、一点目と三点目は賛否が対立しました。①検察官としての倫理規範を策定すべきかという問いに対しては、国家公務員の中でも独任制の官庁であり起訴権限を有する立場である以上、特別な倫理規範を持つべきであるという積極意見があったのに対し、国家公務員と同等のもので十分であるし今回の事件は規範があったから防げたというものでもないという消極意見もあり、拮抗しました。

また、②メディアとの関係(今回の賭け麻雀は東京高検検事長という方がマスコミ業界の方と親しく付き合っており、事件の当事者である検察官として不適切ではないかという問題意識があります)についても、積極的にその関係性に関するルールを設けるべきであるという意見と、すでに存在する規範で十分であり、報道・取材の自由を尊重すべきであるという意見が真っ向から対立しました。

私自身は、同じ捜査機関である警察官が厳格な規律意識のもと、金銭の使途や交際相手、旅行先の報告等様々な私生活上の義務を負っており、同じ捜査機関である検察官も参照すべきものがあるのではないかと述べております。

ただ、この賭け麻雀問題は、正直どのように再発が防止できるのか、極めて難しい議題でした。民間企業でもコンプライアンス違反をどのように防ぐかは日々工夫していますが、それでもどこかで属人的な何かが起きてしまいます。会議体としての成果は、具体的に民間で行われていることの提言や、そもそもあの問題の何が問題だったのかを国民目線で構造分析した上で法務省・検察庁の方々にお伝えすることができたということに留まるのではないかと考えます。

第2の柱:法務行政の透明化

次に、検察官の勤務延長と検察庁法改正案を巡る問題に関する第2の柱です。改めて、この問題にはどのような論点が孕んでいたかを整理しますと。

①なぜこの法案をめぐる法解釈変更の経緯や決裁文書が作成・保管されていないのか(口頭決裁の問題)②検察の独立を保つことができるような人事制度になっているのか(人事の問題)③あの勤務延長・検察庁法改正案は黒川氏をターゲットとしたものだったのか(問題の経緯)

まず、③は議論の的にできないということが会議体で共有されました。もちろん委員の中には異議を唱える方も少なくありませんでしたが、最近良く耳にする「個別の人事に関する回答は差し控える」という当局の説明もあり、また「未来志向」という会議体そのもののスタンスもあって、過去の事件をあれこれ述べるのではなく、今後どうしていくべきかの議論に集中していただきたいという趣旨でした。

だからといって、成果がなかったわけではありません。むしろ、大変大きな成果があったと考えています。

まず、①口頭決裁の問題について。報告書でも明記されますが、法律の制定・改廃に比肩するような重要な解釈変更を行う際には、必要な行政文書を作成・保存するよう、運用を見直すよう提言することで意見の一致を見ました。つまり、あの口頭決裁は大いに疑問ありということが委員間で一致したわけです。
私も、法務省行政文書取扱規則別表第一(ここには決裁事項と決裁者・文書の名義者が羅列されています)の17番、20番(以下にスクショを上げておきます)には確実に当てはまる文書であると考えており、必ず文書による決裁が必要であり、国民から疑問が呈された場合にはこれに基づく説明を丁寧に行うべきだったと思います。

日本学術会議に関する問題についても、法解釈がどのように変更されたのか、国民が不安に思うケースは日々存在します。もちろんその全てを決済し、記録しておくことまでは求めませんが、法律の制定・改廃と同じような効果を持つ重要な解釈変更を行う場合には、法務省に限らず、行政全体で文書主義を徹底し、国民から疑問が上がった場合には、丁寧にその文書に基づいた説明を行うことで、一歩ずつ信頼は構築されていくと思います。

次に、②人事制度について。これは意見の一致があったわけではないですが、複数の委員から、抜粋しておくべき事の本質をついた指摘がありました。

・検察官の勤務延長に関しては、法務省の組織の中に検察庁があるにもかかわらず、事務次官が検事総長より人事的に下の位置に属していることや、民主的統制の観点から問題があるとも思われるので、検察の独立の重要性を前提に、法務省と検察庁との関係性、民主的統制の関係について整理が必要である
・法務省と検察庁での業務適性には重なり合う部分もあるだろうが、両者は役割が違い、特に検察官は準司法官として政治部門からの独立性、法の厳粛な執行者としての機能が強く求められるのに対し、法務官僚は内閣の内部において民主的政治過程を通じて民意をダイナミックに捉えて法創造作用を含めた政策企画を担うことが求められる。両者の相違は一連の問題の
背景要因にもなっている

つまり、法務省内に検察庁が位置づけられているものの、その役職の上下関係が逆転していることの矛盾、そして法務省と検察庁で役割が異なるにも関わらず双方の組織が一体となって人事上評価され昇格していく矛盾を指摘しています。

検察官としてのし上がっていくためには、法務官僚としても優秀でなければならず、前者は政治的な独立性が求められるのに対して、後者は政府・大臣のもとで民意を反映する政治的な役割を果たすわけです。

これは後世必ず顧みられる指摘であリ、報告書と議事録に掲載されたことは極めて大きな成果であると考えます。

第3の柱:我が国の刑事手続について国際的な理解が得られるようにするための方策

最後に、カルロス・ゴーン被告人の海外逃亡、そしてそれに端を発する国際社会から我が国への刑事手続に関する批判についてです。この問題は議題そのものが広範で、そもそも何から手を付けるべきかわからない状態からスタートしました。

結果的に、論点は以下に収斂しました。
①カルロス・ゴーン被告人の事件を巡り国際社会から非難を受けた日本政府の国際広報上の対応の改善点
②国際社会からの非難の対象である長期間の身体拘束(「人質司法」とも揶揄されるもの)、取調べへの弁護人立会いの否定証拠開示制度のあり方など刑事司法制度の見直しの要否

①については、行政による国際広報全般にも繋がる提案がなされました。つまり、専門の広報官を置くべきであり、外国人記者クラブとの連携を深めるべきであると。先日、国連人権理事会の作業部会がカルロス・ゴーン被告人に対する日本政府の対応について非難する意見書を提出しました(リンク)が、この意見書を巡る経緯の妥当性についても報告書では細かく疑義を出しています。来年、50年ぶりに日本で開催される京都コングレス(国連犯罪防止刑事司法会議)での説明を含め、改善は急務です。

②については、特に取調べ時の弁護人立会いが主な論点となりました。ここでも大きな成果がありました。

「ミランダ警告」、または「ミランダルール」という言葉はご存知でしょうか。アメリカの刑事手続で確立されている捜査上のルールなのですが、黙秘権の告知や経済的な事情で弁護人を雇えない場合に公選の弁護人をつけてもらえることなど、供述に先立って警告しなければならないルールです。ここには、弁護人の立会いを認める権利があることも含まれます。

実は日本は、先進諸国の中で取調時に弁護人の立会いを認めていない数少ない国の一つです。捜査機関(警察や検察官)は事件を追及する一方当事者に過ぎず、他方当事者をサポートする代理人がなぜ立ち会えないのかという疑問を持つ方も少なくないでしょう。日米地位協定で米国側に被疑者を引き渡さなければならないのも、この権利が認められておらず刑事司法制度に信頼がないからとも言われています。
もちろん、だからといって日本の刑事司法制度が甚だ不合理だというわけではなく、歴史的な経緯を経て現在の制度があるわけですから一定の合理性はあります。今回の事件を契機に、見直すべきではないかというのが論点です。

この論点では重大な事実が明らかになりました。弁護人立会いは運用上認められるという說明が当局からなされたのです。つまり、確かに制度上、取調べ時の弁護人立会権は認められていないが、個々の事件で検察官が取調べ時に弁護人の立会いを認めるかどうかは裁量次第で運用上認められるというわけです。

刑事法の専門家の委員らもこの說明には驚かれていました(詳しいお話は以下の記事が参考になります)。

そこから論点は急展開し、そのような運用が認められる具体的な基準は何か検察庁と弁護士会での協議を実施するべきではないかといった議論が飛び交いました。もちろん、法解釈上は当局の說明が正しいとしても、実際に運用はすべきでないという反対意見も根強く、結論としてはこの論点も含めて、近い将来開かれる専門家の会議(来年予定されている刑事訴訟法の3年後見直しの場)で扱うよう提言することになりました。

所感

以上が本会議で議論された内容であり、私なりに考える本会議の「成果」です。最後に本会議に参加した所感を述べておきます。

まず、年度末まで議論ができれば、さらに踏み込んだ成果や一致点を作れたと確信しています。しかし、新たな大臣の意向でスピードを重視したいという点も十分に理解しますし、今年問題になったものを年内に片付けてしまうという姿勢は正しいと思いますので、現時点での報告書としても納得しています。

次に、民意の儚さも感じました。「#検察庁法改正案に抗議します」が盛り上がった後、この問題に誠実に向き合わないといけないと考えた法務省が設置した本会議については、国民の関心は最後まで高まることはありませんでした(少なくとも私はそう感じました)。取材もほとんどありませんでしたし、Twitter等で発信しても特に拡散もされませんでした。国民の関心が高ければ、より踏み込んだ議論をせよという民意の後押しも反映できたかもしれません。本会議の議論の内容は、国民にけじめをつけようとする大臣や法務省・検察庁の方々の努力の結晶でもあります。どうか当時抗議された方々に届くことを願ってやみません。

最後に、政府の会議体に入ることは初めての経験だったため、最初がこの「異例」のものでよいのか若干の不安はありますが、しかし様々なバックグラウンドを持つ有識者の方と、答えのない問いに向き合う大変貴重な機会を頂きました。この世界は複雑であり、白とも黒ともつかないグラデーションのある世界です。答えがないことにはそれなりの理由があるのだと理解しつつ、それでも全員でなんとか答えを導き出そうと努力することの難しさと重要性を改めて感じました。

会議が終わり、たまたま『エルサレムのアイヒマン』を読んでいました。

常に公益のための当事者性を意識しながら生きることは誠に難しいことで、合理的な組織の中の効率的な分業制の下、自らの行為の部分最適に集中することで生きることができ、結果としての全体最適がわからなくなっていく社会です。この会議で、大きな視点で全体最適を考える機会に恵まれたこと、そこにコミットさせてもらえたことそのことに心から感謝しています。(悔しい思いはどこかお酒の場ででも)

図書館が無料であるように、自分の記事は無料で全ての方に開放したいと考えています(一部クラウドファンディングのリターン等を除きます)。しかし、価値のある記事だと感じてくださった方が任意でサポートをしてくださることがあり、そのような言論空間があることに頭が上がりません。