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映画感想 すずめの戸締まり

 あの時の心残りを辿って。

 2022年は大作アニメが次々に公開された年だった。2月に『鹿の王 ユナと約束の旅』、4月にヒットシリーズ『名探偵コナン ハロウィンの花嫁』、8月に『ONE PIECE FILM RED』、そして12月に『THE FIRST SLAM DUNK』。そんな年の11月に劇場公開されたのが本作『すずめの戸締まり』だ。他にもアニメ映画は多く、ほぼ毎月1本以上公開されていたほどだった。果たしてこの年のアニメ映画を全部見たという人はどれだけいるのやら。
 2022年は単純にアニメの映画が多かった、だけに留まらず興行成績がなにかおかしなことになっていて、まず『ONE PIECE FILM RED』が国内興行収入197億円。『THE FIRST SLAM DUNK』が国内興行成績が157億円。そして本作『すずめの戸締まり』が国内興行成績147億円(この反動で、2023年の『君たちはどう生きるか』の興行収入80億円が「イマイチな成績」と言われるほどだった。映画関係者は感覚が麻痺しちゃってるが、80億円は充分すぎる大ヒットだ)。ほんの数年前まで、興行収入100億円越えは滅多にないできごとだったが、この1年だけでなんと3本。新海誠作品としても、100億円越えは『君の名は。』からつづく3本目。日本歴代興行収入ランキングで見ると15位。アニメのみの歴代興行収入で見ると9位。世界で公開された日本のアニメランキングで見ると4位。もうすっかり、「ランキングを動かす名監督」の一人である。

 前置きはここまでにして、前半のストーリーを見ていこう。


 岩戸鈴芽は夢を見る。4歳の頃、“あの震災”の被害に遭って、廃墟の中、母親を捜し回ったあの頃の記憶――。
「お母さん、お母さん、どこ……」
 幼い鈴芽が泣きながら、変わり果ててしまった街の中を彷徨う。そんな鈴芽に、誰かが近付いてくる。
 あれは――。

 そこで目が覚める。現在の鈴芽は17歳。母親の妹である環の家で過ごしていた。
 いつもと変わらない朝の始まり。鈴芽は自転車に乗って学校への道を――そこで気になる男の人とすれ違う。……綺麗な人。
「ねえ、君。この辺りに廃墟はない?」
 男の人が話しかけてきた。廃墟なら、この山をしばらく進んだところにありますけど……。
 それきりで別れるけれど……何か気になる。鈴芽は学校への道から引き返し、あの男性が入っていった山へ向かう。
 しかし廃墟にあの男性はいなかった。廃墟の中をしばらく歩いていると、不思議な「扉」を見つける。広い空間の中心に、ぽつんと扉だけが置かれている。なんだろう? 扉を開けてみると――その向こうにいきなり草原が。しかし扉をくぐると――草原の風景は夢だったみたいに消えてしまう。なぜ? どういうこと? 草原は確かに扉の向こうに見えているはずなのに……。
 ふと足元を見ると、奇妙な置物があるのに気付いた。それを持ち上げると……いつの間にか置物は生き物に変わっていた。ビックリして放り出すと、生き物はどこかへ走り去ってしまった。
 なんだったんだろう。なんとなく引っかかりを残しつつも、学校へと戻る。
 学校に戻ると、もう昼だった。友人達と一緒に昼のお弁当を食べていると……窓の外に、奇妙なものが浮かぶ。ひょろひょろとした赤黒いものが、空に向かって生き物のように伸び上がっていた。
 クラスの子達には見えていないらしい。あれは、あのニョロニョロとしたものは、山の中の廃墟から伸び上がっている。まさか……まさか……あのドアが……。
 鈴芽は胸騒ぎを覚えて、教室を飛び出していく。再び自転車に乗って、あの山の中へ。廃墟に入っていくと、あのドアから赤黒いものが噴き出していた。あの時すれちがった男の人がドアを閉じようとしている。鈴芽は男性と協力して、どうにかドアを閉じる。

 その後、鈴芽は男性を家に招いて、傷の手当てをする。男は宗像草太と名乗った。先祖代々続く“閉じ師”と呼ばれる仕事をやっていて、全国に散らばるああいったドアを閉じて回っていたそうだ。
 そんな話を聞いているところに、ふと窓に気配。子猫だ。鈴芽は子猫に食べ物を与えて、「うちの子になる?」と話しかける。すると子猫は、
「うん。すずめ、やさしい。すき。おまえはじゃま」
 子猫が急にしゃべり出した。それだけではない。草太が椅子に変えられてしまった。
 子猫が逃げ出す。子猫を追いかけて、椅子の草太も飛び出す。
 子猫と草太は、そのままフェリーへと飛び乗ってしまう。そうこうしているうちにフェリーは出発してしまった。子猫はフェリーから近くの高速艇へと飛び移ってしまい……取り逃がしてしまった。
 子猫を逃がしてしまったけど、追わなければ。鈴芽と草太は、そのままフェリーの行き先である愛媛県へと入る。草太は鈴芽に帰るように促すが、しかし椅子の草太が歩いていると周りの注目を集めてしまう。椅子の姿のまま旅を続けるのは不都合があるだろう……と鈴芽は無理矢理に草太の旅に同行する。
 その旅の最中に海辺千果と会い、次なる目的地の近くまで連れて行ってもらう。その場所は、土砂崩れで崩壊してしまった学校だった。学校の玄関扉から、あの赤黒いニョロニョロ――ミミズが放たれようとしていた。鈴芽はそれをどうにか閉じて、封じ込めるのだった。



解説

 はい、ここまでで前半30分。ざっと書き出しただけでも結構なプロット数でしょ。文章にすると長いけど、実際の映画を見ると一瞬で過ぎ去っていく。前半30分Aパートだけでもこれだけのエピソード数。全尺2時間2分なのだけど、エピソード数がおそろしく多く、登場キャラクター数も多く、そういうわけで物語の展開がものすごく早い。常に急ぎ気味で、サクサクと進む。
 今回も細かいところを見ていきたいのだけど……。
 今回の感想文は『月刊ムー』のとある記事を参照に進めていこう。

 『すずめの戸締まり』に描かれる「閉じ師」は、なんと実在の職業なのだとか……。さすが月刊ムー。私も知らない情報が満載だ。今回は月刊ムーのこの記事を手本に解説を進めていくことにする。

 まずスタート地点となる場所。宮崎県・日南市となっている。
 宮崎県、と聞いて日本神話に詳しい人はピンとくるだろう。宮崎県と言えば、天皇家が天孫降臨した最初の場所。天皇家始まりの土地、日本が始まった場所である。またこの地域は古代では日向国と呼ばれていて、そこが「日が昇る場所」とされていた。当時はもっとも早く太陽が昇る場所が、宮崎県だったのだろう。

 主人公の鈴芽ちゃん。「岩戸鈴芽」という字面を見ると、やはり日本神話に詳しい人はピンとくるだろう。「岩戸」とは「天岩戸」のことで、「鈴芽」とは「アメノウズメ」をもじったもの。名前に入っている「鈴」は神を呼び出すアイテムなので、より日本神話をなぞった名前になっている。
 最初のシーンで、鈴芽は扉を開けてしまうだけではなく、要石までも解放してしまうが、なぜそうするのかというと、鈴芽には「開ける」という役割が与えられているからだ。なぜ鈴芽に「開ける」役割が与えられているのか……それは物語全体を通した意図が隠れている。それは後ほど。

 イケメン……かなぁ? 今作の“ヒロイン”となる宗像草太。
 宗像性のルーツは九州北部。福岡県宗像市にある、宗像大社にまで遡ることができる。鈴芽が日向、つまり陽の当たる場所の生まれであるのに対し、宗像はその反対。鈴芽を陽とすれば、宗像草太が陰。鈴芽は「開ける」役割であるのに対し、宗像草太は「閉じる」役割。
 物語中の人物は構図は、基本的にこの陰と陽の対比で作られている。
 はじめに「閉じ師は実在の職業」と書いたけれども、「閉じ師」という名前の仕事はなく、実際は「地鎮(じちん)」という名前。土木作業の前に、平らにならした土地に簡易的な祭壇を作り、祝詞を唱える……あの仕事が宗像草太の本来表向きのお仕事ということになる。
 月刊ムーではさらに突っ込んだ話をしており、その地鎮の中でも「人知れず地鎮を担う人たち」もいるという。それを女性の場合を「トズ(杜頭)」といい、男性の場合を「トジ」という。今作における「閉じ師」の名前はここから来ていると推測される。

 陰と陽という関係性となっているのは、こちらの子猫ちゃん。ダイジンがそれ。後に「サダイジン」というキャラクターが出てくるので、こちらのダイジンは「右大臣」ということになる。
 ダイジンの体毛は基本的には白だが、能力を使う時には黒に変わる。一方、サダイジンは基本は黒だが、能力を使う時には白に変わる。どうしてこのように変化するのか、というとサダイジン、ウダイジンの関係が陰と陽の関係だから。関係性が交互に入れ替わるように描写されている。
 なぜウダイジンに対し、サダイジンのほうが姿が大きいのか、それは平安時代の階級を見れば、左大臣のほうが位が上で、右大臣は左大臣のサポートすることが仕事だったから。
 ウダイジンには他にも、もう一つ秘密の役割が与えられているが……それは後ほど。

 開け放たれた扉から出てきてしまうミミズ。このミミズとは何者なのか?
 宗像草太が閉じる前に唱える祝詞から正体を探っていこう。

「かけまくしもかしこき日不見(ひみず)の神よ。
遠つ御祖(みおや)の産土(うぶすな)よ。
久しく拝領つかまつったこの山河。
かしこみかしこみ謹んでお返し申す」 

 まあわからんね。
 意味を一つ一つ読み取っていきましょう。
「かけまくしもかしこき」は「繁栄している知恵深い」という意味。「日不見の神」とは、日の目を見ない、人前に出ない、姿を現さない神のこと。神様とは普段目に見えない存在なので、「日不見の神」ということになる。
 その日不見の神のことを、本編中では「ミミズ」とも呼ぶけれども、ミミズとは普段土中にいて「日を見ない存在」。またミミズの神とは、(月刊ムーによると)「水の神」でもあるらしい。大地を豊かにするのは水の恩恵であるから、水そのものを神として讃えるという考え方が古来からあった。

 作品の中で、ミミズを「龍」として描いている場面がある。龍といえば水神。やはりミミズはもともと水の神だった。
 しかし、扉の中から現れたミミズはどう見ても溶岩。火山の中のマグマが、そのまんま地上に現れたような姿になっている。なぜそう描写されるのか。それは水もマグマも、普段は土中の中。水とマグマは表裏一体、陰と陽の関係性にある。普段は穏やかな水で人々に恩恵を与えるが、怒りを伴って地上に現れるとマグマに変わる……というイメージだろう。

 次に「遠つ御祖の産土よ」は、分解すると「遠つ御祖」は「遠い祖先」で、「産土」は生まれた土地や故郷を意味する。「祖先が生まれた我が古里」という意味となる。
 「久しく拝領つかまつったこの山河」は「拝領つかまつる」が「頂戴する」「受け取る」という意味となるので、「長い間頂戴していたこの山と河」という意味となる。

 さて、問題なのは決め台詞となる「お返し申す」。
 本業の人によると、これは「お帰り申す」ではないか、という。荒ぶって地上に出てきてしまった水の神を、「どうかお鎮まりください」と言っているわけだから、確かに「お帰り申す」が正しいような気がする。
 しかし私は、ここは「お返し申す」が正しい解釈ではないかと。では「誰」に「何」をお返しするのか?
 もう一回祝詞をチェックしてみよう。
「久しく拝領つかまつったこの山河。かしこみかしこみ謹んでお返し申す」
 長い間頂戴(お借り)していたこの山河を、謹んでお返しする……と語っている。つまり、この土地を神様自身にお返しする、と。
 地鎮の仕事をもう一度確認しよう。これから土木工事をしよう、というときに祭壇を作り、その土地にもともといるであろう神に、「この土地をお借りします」と祝詞を唱える。その後、その土地が繁栄し、やがて衰退し、人が住むこともなくなった。人が住むことはなくなったわけだが、人々は果たしてその土地を神にお返ししただろうか?
 新海誠による映画.comのインタビューで、こう語っている。
「新しい建造物を建てるときには地鎮祭のような儀式があるが、町でも土地でも"終わる"ときには葬式のような儀式は存在しない。それならば人々の思いや記憶が眠る廃墟を悼み、鎮める物語を作ろう」
 ということは、やはり「お返し申す」が正しいのではないか。

 では次の問い。この子猫ちゃん、ウダイジンの役割はなんだったのか。
 最初、ウダイジンは痩せ細った体で現れる。鈴芽に「うちの子になる?」と声をかけられた瞬間、元気な姿になる。
 ウダイジンは「神様」なので、生物的なルールはない代わりに、それぞれで固有のルールを持っている。ここでウダイジンが元気な姿になったのは、人間との関係性を持ったから。神様は、もともとは自然に勝手にそこにいる存在であるわけだが、人間との関係を持ち、敬われると喜ぶ。人間との関係性を持って、初めて「神」としての存在を持つことができる。「なんの神であるのか」という役割を持つことができる。

 一方、椅子にされてしまった宗像草太。椅子にされてしまったことにより、俗世との関係が断たれてしまった。俗世との関係が断たれて、ただの「物」になってしまった(と言いながらも、わりと子供達と交流していたわけだが)。誰に気遣われることもなければ、関心を向けられることもない。そうすることで次第に「供物」になっていく。
 ウダイジンと宗像草太との間に陰と陽の関係が作られていく。

 実はウダイジンにはもう一つ役割を持っている。鈴芽はウダイジンに対し「うちの子になる?」と問いかけるが、実は鈴芽はかつて、ある人物から同じ言葉を投げかけられている。
 そのある人物とは岩戸環。4歳の頃、母親をなくした鈴芽は、母の妹である環から「うちの子になろう」と言われていた。
 つまりウダイジン=鈴芽という構図もあった。

 岩戸環にとって、鈴芽はウダイジンと同じ。被災地で母親を亡くして、孤独になっている幼女。そんな幼女を放っておけるわけがない。たった4歳で母親を亡くしてしまった子供だから、気を遣う。気を遣って、精神的な負担を与えないよう、大事に大事にしてきた……それで岩戸環は自分の恋愛を諦めてきた。
 そんな環に対し、鈴芽は無自覚に無神経な振る舞いをしてきた。この構図は、鈴芽に対するウダイジンの態度と一緒。ウダイジンは鈴芽の気遣いなんて意に介さず、周囲を引っかき回す。鈴芽が環に対してやってきたことは、ウダイジンが鈴芽に対してやってきたことと同じ。
 サダイジンが環に憑依して本音を言わせたのは、単なる意地悪ではなく、鈴芽がやってきた「罪」を意識させるため。

 鈴芽は4歳の頃に引き取られ、以降13年環の元で育ってきた。本当の母親よりも、3倍も長く“母親”をやってきた。しかし微妙に距離感がある。鈴芽は気を遣って「環さん」と呼ぶし。どれだけ一杯の愛情を注いでも、本当の母娘になれない。

 劇場公開時に言われてきたことの一つに、「ウダイジンの心残り」はなんだったのか? なぜ鈴芽にまとわりついて「遊ぼう」と呼びかけてきたのか。
 もしも鈴芽=ウダイジンであれば、この謎解きは、鈴芽自身の心残りであると解釈できる。ウダイジンのあの性格は、鈴芽をトレースしたもの。ウダイジンが子供のように振る舞っているのは、鈴芽の幼女自体の心残りを映している。
 では幼女時代の鈴芽の心残りとは――それは母親のこと。実は鈴芽は、あの震災で姿を消した母親が、“死んだ”ということをまだ受け止めていない。死体が出てこないのだから、もしかしたらまだ……そんな期待をどこかで抱いている(それに、鈴芽は常世で母親らしき何者かを見たと思い込んでいる)。だから夢の中で、幼女時代に戻って母親を探す、ということを未だに続けている。
 お母さんはまだ死んでない……かも知れない。震災から13年経ったのに、未だに消えない心残り。

 そもそも、なぜ鈴芽はあの扉を開けることができたのか。扉の向こうに常世を見ることができたのか?
 それは幼女時代に一度“神隠し”にあっているから。神隠しに遭って常世に迷い込んでしまったから、そちら側の属性を身につけてしまった。
 しかし普通、成長の過程でその属性は消えてしまうもの。なぜずっとその属性を保持し続けてきたのか。それは震災のトラウマをまだ精算していないから。まだあの扉の向こうに、母親がいるのではないか……そんな期待を抱き続けている。
 だから、はじめは意図的ではなかったが、ついうっかり常世との扉を開けて、要石の封印も解いてしまった。あれは鈴芽に、「もう一度常世に行きたい」という願望があったからだ。

戸締まりをする時に、その以前の生活の様子を思い浮かべる。そこで聞こえてくるのは、「おはよう」「こんにちわ」「いってきます」といった定型文的な挨拶。なぜ挨拶なのかというと、そういう集積が「日常」だからだ。その日常が壊れるかも、というお話しを描いている。

 また鈴芽が扉を開けてしまった理由は、もう一度あの震災を思い出し、もう一度ちゃんと鎮魂をしよう……という監督・新海誠の意思があったから。あの震災はまだ精算されていないのではないか。だからかつて震災に遭った少女が、ある意味での日本の出発点である日向の地で扉を開けて、先祖達がしたように日本列島を横断して扉を閉めて回る……という物語にしたのではないか。

 それにしても、なぜ東日本大震災の鎮魂の物語に、「日本の歴史」という遠大なバックグランドが与えられたのか。それは日本が災害国だからだ。大地震が起きたのは、最近だけの話ではない。日本は有史以前より年がら年中山が噴火し、台風が吹き、地震が起きてきた。
 ところが戦後、近代化の過程でどこか日本人は災害を忘れた。そんなものは起きないよ……と高をくくっていた。それどころか、日本は言霊の国であるから、「災害が起きるかも」なんて言うな、と言い合っていた。実際に、ある時期まで「富士山が噴火するかも」という話題はするな、と言われ、そういう調査をしようとしても富士山を管理している側が調査を拒否してきた……ということもあった(最近はやっと調査を受け入れるようになった)。
 「災害が起きるかも」と言ったら本当に起きるから、災害の備えもしないんだ。よくよく考えたら狂気のような行為を、戦後の日本人はずっとやってきた。
 それがあっと目覚めたのが、阪神淡路大震災。そうだ、日本は災害国だった。さらに東日本大震災。日本はそういう国だった。年がら年中山が噴火し、台風が吹き、地震が起きる……そういう国だった。
 それが日本という国だ。
 戦後の日本人は、どこか日本的なものから目をそらそう……とやってきた。日本の歴史を見ると災害の歴史だったわけだけど、そこからも目をそらそう。そういうものに目を向けるのは考え方が古い、今時じゃない、かっこ悪い……そんなふうにやってきた。
 この物語は、東日本大震災だけのお話しでもなければ、阪神淡路大震災だけのお話しでもない。その背景には、日本という国、いや土地そのものが絡んでいるんだ。それがこの物語に託されたメッセージだったのだろう。

映画の感想文

 本編の解説はここまで。といっても、今作もまた色んな要素だらけなので、追求してみるともっと面白いものが出てくるでしょう。
 ここからは映画の感想文。
 今作はとにかくエピソード数がめちゃくちゃに多い。このエピソードを2時間の尺に収めるために、色んな物を端折っている。
 まず旅に出る……という時の葛藤がない。旅を続ける動機がない。子猫と椅子を追いかけて、仕方なくフェリーに乗っちゃった。そこまでは事故的なものとしても、こうした旅物語にありがちな、なにをモチベーションに旅をするのか(旅に出て何を達成したいのか)、旅をすることへの葛藤、あるいは準備……そういったものを全部端折って、「とりあえず行く!」というところからスタートさせている。
 次に主人公の鈴芽ちゃんのコミュニケーション能力を最初からレベルMAXでスタートさせている。人と会って、どう接しよう、相手にどんなバックグラウンドがあるか……そういう話は全部カット。話がもたつくから、こうした物語にありきたりなものを全部カットして、とりあえず物語を推進させよう。
 そういう物語であるから、驚くほど人間に悩みがない、暗部がない。これまでになく、薄く軽い。確かにストレスなくサクサク進むが、それぞれの物語にドラマがない。人間にドラマがない代わりに、背景に細かな歴史が語られる。

 例えば愛媛に入ってからの第一村人である海辺千果。千果ちゃんの背景はまったく語られないが、かつてあった中学校の風景が映像として流れ、しかし土砂で崩れ去ってしまった……おそらくそういう心残りがあって、それを鈴芽が解消した。そういう心理的な流れがあったのだけど、そこは物語にしない。物語にしてキャラクターに語らせていたら、延々尺が伸びてしまう。だから思い切ってカットされちゃっている。

本人による語りがない分、住んでいる環境や、周りの人々の反応で掘り下げている。というか、さらっと旅館一家の内側に入っていく鈴芽ちゃんのコミュニケーション能力よ。

 そういう物語にしたのは、尺の都合……というので納得できるが、明らかに失敗しているのが“恋愛”。宗像草太との恋愛は、深まることもないまま、お話しが進行してしまっている。

出会いの場面はやっぱり“坂道”。新海誠作品で男女の出会いはいつも階段や坂道といった場所。岩戸鈴芽は坂道を下り、宗像草太は坂道を登る。男と女が出会えるのは、一瞬同じ階層になった瞬間だけ……。新海誠作品は基本的に男女は出会えない。いつも違う“層”にいて、すれ違い続ける。今回も例によってすれ違い続ける。
後に宗像草太の家を訪ねるシーンはあるが、やはり坂道を登った先にある。

 それ以降は宗像草太……というか、「椅子と旅をする」という不思議なお話がはじまってしまう。
 なぜ椅子なのか……詳しい理由はわからないが、おそらくは岩戸鈴芽の子供時代に作られたものだから。4歳の頃の鈴芽の身体に合わせて作られている。この椅子をずっと抱えて歩く……ということは、4歳の頃の“心残り”を抱えて歩く……という構図になる。
 すると椅子を抱えて歩き、椅子に語りかける……という光景は、4歳の頃の自分に語りかける――という構図になっていく。どうしても、“坂道ですれ違った気になる男の子との恋愛”という空気が薄れてしまう。恋愛要素はとりあえず岩戸鈴芽が物語を起動させるための都合のいいもの……という扱い方になっている。物語において、恋愛要素は登場人物を作動させるための切っ掛けにされやすい、というのはあるけど、この物語の中における恋愛要素は、動機にするには薄すぎる。

 まあ、今回はそれは“さて置き”ということにしたのでしょう。それよりも、旅物語としての展開や、それぞれの場所でのアクション。そっちに重点を置いたのでしょう。
 そうした物語として受け入れやすくするために、とにかくも主人公・鈴芽ちゃんには“角”がないキャラクターにしている。特段の個性もないけど、嫌われる要素もない。今回はキャラクターを掘り下げる余裕すらない。だから全ての面で振り切ることにしたのでしょう。

 とにかくも、今回は旅物語。同じシーンはほとんど出てこない。次々と新しいシーンへと展開していく。最初の30分Aパートの終わりまでに、カット数がいくつあるか大雑把に数えたが、なんと460カット。ということは2時間で2000カット前後というところだ。シーンの数もカットの数も多い。ロケハンも大変だ。
 そういうわけもあって、いつもの一つの画面で見せ場を作ってしまう新海誠印は封印気味。どちらかといえば、地味にロケハンした風景を再現する……という作り方になっている。今までのような、「圧倒するような美しい光景」はない代わりに、旅物語りとして日本の各地域の風景が一気に見られるというないようになっている。

映像的な見せ場はないわけではない。東京上空に出現する巨大なミミズや、映画の最後に出てくる常世の風景は見事。特に常世の映像は新海誠らしい。ところで、途中東京の物語が挿入されるのは、そこがもっとも発達した都市であり、また「大規模災害の起こる可能性」が極めて高い地域でもあるからだ。
映像美は控えめだったけれど、一方でアクションは今までの新海誠作品にはあり得ないくらい派手で大がかり。日本を横断した冒険活劇に大規模なアクションもできるんだぞ……というところを見せつけてくれる。

 よくよく確かめると、「新海誠らしさ」という軸はぶれていない。相変わらず違う層にいて、すれ違い続ける男と女の物語。異界の彼方にいる誰かを思い続ける物語。そういう今までのモチーフは変えず、今までにない大活劇を展開する。その試みは見事なくらいに大成功している。最初から最後まで楽しい、冒険活劇だった。

国民的作家になった新海誠

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