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[似非小説]トラトラトラ、われ奇襲に成功せり。あるいは山頭火に捧ぐ

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特等席でラムネ飲むモッタイナイねゼイタクだね

(彼岸の中日を過ぎて、山頭火の人生の孤独を思いながら)

  *  *  *

「ノンキだね、ゼイタクだね、ホガらかだね、モッタイナイね」というのが、自由律俳句師・種田山頭火が機嫌のよいときに書いたり言ったりする言葉なのだと、「山頭火静岡を行く」を読んで知った。

昭和11年すなわち1936年、2.26事件の衝撃も冷めやらぬ4月の23日、山頭火は静岡を旅していた。伊豆半島の南端近い下賀茂の温泉で句友の歓待を受けて、先の上機嫌の言葉が日記にしるされた。

  *  *  *

と、ここまで書いたところで、「である」調に飽きました。

特等席でラムネは最高じゃん。

そう書き出したのはいいのですが、そのちいと前には、

  「デタラメでもいい。
   逞しく育ってほしい」

という出だしにしようかと思っていたくらいですから、三つの文章をようやく並べたかと思ったら、そこでいきなり、「ですます」調に切り替える。

そんな一貫性の無さなどたやすい御用ということです。

いやいや、こんな言い訳めいた説明をくだくだと書いたからといって、こいつを読んでくださっている皆さんが、それをおもしろがってくれる人ばかりというわけには、ええ、そうは問屋が卸さないに決まってます。幕間(まくあい)の戯言(ざれごと)はこれくらいにして、さっさと話を進めようじゃないですか。

  *  *  *

ところがこいつが困ったことに、どうにも瓶の首で話が詰まっちまいまして。それじゃあ、流れが滞るのも当然ということになりますわな。

ええ、下賀茂には僅かながら縁があるんでさ。

下賀茂は伊豆半島の南端近く、下田の先の内陸の、温泉地とはいえ、今時の観光客の気を引くほどのものはさしてない土地柄ですが、そのまた先に行って半島の西側に出ると子浦という小さな漁村がありまして。そこにしばらく暮らしておったわけで。

まあ、あたしなんぞは江戸っ子風の血が四半分入っておりますものの、親父の郷(さと)を手繰れば九州は天草の田舎者でございますから、子浦という鄙(ひな)びた往時の風待ち港の土地柄も大いに気に入りましたよ。

中学高校で同級生だった友だちの親父さんが建てた、飯場のプレハブのような素敵な別荘を使わせていただいて、一年半ほど何をするでもなく過ごしていたもんで、当時の奥さんには見放されて別れる羽目になってしまいましたがな。

ははは、それも今となっては「いい思い出」というわけでして。へえ、お察しの通り、ちいっと苦く切ない思い出ではございます。

まあそんなで、奥さんとの別れ話が出てそろそろ子浦を離れるころのことですが、下賀茂の街で、何の用があって行ったかは忘れましたが、小腹が空いたもので落花生を買いましてな、神社のベンチに座って、落花生の殻を割ってはぼりぼり、また割ってはぼりぼりと一人たそがれた気分で食べていたんですわ。そろそろ秋の空気を感じる時分でしたな。

  大楠の根本に燃える曼珠沙華
  じまめ貪る我なぐさめよ

そんな歌が、頭からこぼれてきましたなあ。

はあ、沖縄では落花生のことを地豆(じーまーみー)と言いまして。

あ、いや、山頭火の話から下賀茂の別の話になってしまいもうした。

それでその下賀茂からもう少し行ったところに弓ヶ浜という温泉がありまして、そこまで子浦の借家から15キロはありましたか。冬場にずいぶん高い峠を自転車で越えて、苦労しいしい通ったものです。はい、借りていた小屋が風呂もなかなか使えない状態でしたし、バスが通ってこそいたものの本数は少なく、どうにも不便でしたもんで。

そうしてようやくたどり着いた弓ヶ浜の温泉につかっていると、山頭火の

  ありがたや熱い湯のあふるるにまかせ

という句が心底身に沁みたってわけでしてね。

  *  *  *

さてこの調子では、第一の大トラ山頭火を物語するだけで、延々いつまで続くやら分からなくなってきたので、少し話を端折(はしょ)ろう。

山頭火は山口の人で、熊本で出家して堂守をしていたことがある。それで九州の山を歩き温泉を巡っていたのは知っていた。「ありがたや熱い湯」の句も宮崎の京町温泉で作られたものである。けれども静岡あたりの、こちらも見知った土地を歩いていたとはついぞ知らなかった。

今、浜松の山里・春野町に仮住まいして、近くの図書館で「山頭火静岡を行く」という良書を見つけてのそれが収穫である。

山頭火は俳句とともに日記を残しており、その二つで本人が残して置きたかった人物像は知れるのだが、この本には周りの句友から見た山頭火の姿、そして山頭火が実際に歩いた道のりについて、静岡から長野にかけての道行きについてのみではあるものの、実に丁寧に描かれており、山頭火の句を愛する者だけでなく、社会の役に立たぬおのれの無能を持て余しているすべての人に是非とも読んでいただきたい一冊と言える。
(残念ながら絶版で、古書もある程度の高値がついておりますが)

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  *  *  *

ここで話は少しく飛ぶことになります。ええ、何しろ天狗の話なもので。

「秋葉」という文字の連なりを見たとき「アキバ」という音が頭の中に響く。

それが現代日本の常識かと思うのです。

いえ無論、ニホンのジョーシキがどこにあるかなどと言うことは、実のところどうでもいい話でありまして、ここで問題になるのは、これをお読みのあなたが「秋葉」というふた文字を見たときに何が起こるかということに他なりません。

つまりです。もしも「秋葉」という言葉を見て、「あきは」という音を思い浮かべたとしたら、これは話が早い。

そうです、浜松市春野町には日本全国に知られた秋葉(あきは)神社が鎮座ましますのでございます。

ところで、ぼくは実家が東京の世田谷で、そしてこの十年と少しの間、ほとんど日本を離れて暮らしておりまして、昨年9月に帰国はしましたものの、あっちをふらふら、こっちをゆらゆらと人生の黄昏に向かってそろそろと足を進めていく道筋で、今年の年明け早々に東京駅の八重洲口から旧国鉄の高速バスに乗りまして、浜松北まで東名でひとっ走り、そして高速の路肩のさみしいバス停に重い荷物を背負って降り立つと、遠州鉄道と名づけられ、侘び寂びに満ちた単線軌道の列車に乗り込んで西鹿島という、かつて山頭火も通った駅を目指したのです。

そこには今回お世話になるアイ氏が車で迎えに来てくださっていて、大荷物を抱えるぼくと奥さんを乗せて、車は一路北へと春野町に向かい、天狗街道を走ります。

この天狗というのが何の話かと申しますと、そうです、春野町の秋葉神社は三尺坊という天狗、すなわち修験者が越後から飛んできたという由縁でありまして、地面から三尺、ということは一メートルほどのところを飛んであちこちを行き来したというその三尺坊天狗を祀る神社なのです。

「全国的に知られる秋葉神社は」と、アイさんの奥さまケイ子さんは浜松の方ですから当然のようにおっしゃるのですが、日本の文化歴史にうといわたしめは、「ははあ、あきは神社、これはどうやら秋葉ヶ原と関係がありそうだわい」などとずれたことを考えるばかりでして、まあ、もともとがオタク系の人間ですから、そこは大目に見ていただきたいところでして、とにかく秋葉神社は天狗伝説の総本山といっても差し支えないほどの由緒ある神土であるにも関わらず、件の山頭火本を読んで、かの種田山頭火もお参りしておったのかとようやくその有り難さに気づく始末、宗教関係に造詣の深いアイさんとたまたまネットで知り合ったというご縁によって、この地に導かれた不思議を思うのでありました。

はい、そうして秋葉大権現さまに見守られながら、浜松市に広域合併した山里の村はずれの一軒家を間借りさせていただいて、悠々自適かつ夫婦げんか頻発の日々を送ることの特等席感を、山頭火にあやかって「ラムネ」をラッパ飲みしながら、こうして小石版につづるプチブル的遊行生活というわけなのでありまして。

  *  *  *

おい、ちょっと君、さっぱり話が進まんじゃないか。トラはどうした。山頭火が大トラなのは知っとるが、その話すらロクに出てこんじゃないか。山頭火と静岡の関わりを書いたこの本も、その辺りをもちっと書いてもらわんとな。

大酒呑みの山頭火が浜松の居酒屋で一人酒を飲み、なかなか帰ってこないので周りの者が心配したが、結局無事帰ってきて皆ほっとしたという、可愛らしい話が「行方不明の真相」として紹介されているくらいじゃあな。

「まず、ほろほろ、それから、ふらふら。そして、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」と本人の言う泥酔酒乱の様子からは程遠いじゃないか。

まあ、このとき山頭火はすでに五十代半ば、四年後には脳溢血であの世に旅立ってしまうわけだから、可愛い酒好きの爺さんくらいにとどめられて幸いというべきだろうがな。

  *  *  *

いえ何、山頭火の大トラのことでしたら、いくらでもお話したいこともござんすが、こちとらも酔っぱらい運転の常習でクリニック通いをすることになった過去がある身でして、そっちの話は今日のところはご勘弁願いましょう。

それよりも聞いていただきたいのは、虎皮のパンツの話でしてな。

「鬼のパンツはよいパンツ、強いぞー強いぞー」とも、「虎のプロレスラーはしましまパンツ、履いても履いてもすぐ取れるー」とも歌われた虎皮のパンツでございますが、天狗の親戚である鬼どもの、特に蒼鬼(あおおに)族におきましては、身につけるものは虎皮を最上とすることを徹底しておりまして、はい、確かにこちら大和の国ではなかなかそうとばかりも言っておれませんから、鹿でも狸でも猪でも、山の獣を神と仰いでその血肉とともに骨も皮もそっくり頂戴いたしまして、この世を渡るよすがとしたわけではございます。

蒼鬼族にとってそのように虎皮が最上とされることになったのは、むろん由縁あってのことでございまして、何しろ蒼鬼どもはその祖先を辿ってゆけば遠く西方の天竺まで遡ることになるのでございます。

天竺の破壊神シヴァがその別名マハー・カール(偉大なる黒色)として仏教に取り入れられ大黒天となったことは皆様もお聞き及びかとは存じますが、かの天竺国におきましては、黒の色は蒼と通じるのでございます。

すなわち蒼色の肌を持ち、虎皮の召し物を身につけた姿で描かれる天竺の偉大神マハー・カールをこそ祖とする蒼鬼族が、今日にいたっても虎皮のパンツを最上の召し物としておるのもけだし当然のことと申せましょう。

  *  *  *

いや、それにしても、あの虎皮のビキニの彼女、マジ最高だよね。えっ、ビキニじゃなくて比丘尼(びくに)? ホントかよ、なんで尼さんがビキニ着てるわけ? はあ、天竺では聖者は裸んぼなんだ。でもさすがに女は裸ってわけにもいかんから。ははあ、それで尼さんがビキニかー、なーるほどー。虎皮のビキニの比丘尼とはねー、マジで最高にイカシてるじゃんかーー。

  *  *  *

いかれてる。

そうとしか思えなかった。

皆いかれてるんだ。

そう思うと左目に涙がにじんだ。

ベジタリアンの基地外どもは、あたしのことを鬼畜のように言う。

実際あたしは鬼族のはしくれなんだから、そう言われたからってどうということもない。

どうということもないんだけどさ。

基地外じゃないベジタリアンの友だちはいくらでもいるし、世界中が屍肉喰らいで満ち満ちてるんだから、「あたしはむしろ多数派なんだ!」って居直ることもできる。

でも多数派であることに正当性を感じられるほど、あたしは真っ当じゃないしな。

しょうがないよね。

脳みその代わりに豆腐餻(とうふよう)が入ってるやつらに何を言われようがさ。

欲望中枢で生きてる男どもは視線だけで悩殺昇天の刑。

そいでそーゆー男どもをたぶらかすためだけに生きてるような女どもは電撃一発、意識変性してやって向こう側の世界に行ってもらう。

それで世界が平和になるかって言われたら、そんなはずはもちろんなくって、ただのもぐら叩きにすぎないのも分かってるけどね。

でも、あたしは結局それを続けるだけの鬼畜の女。

あれ、ホントに女なのかな。

多分……、やっぱりオンナかもね。

ねえ、ちょっと遊ばない?

徹底的にいじめちゃうよ。

  *  *  *

娘よ、お前が女かどうかも分からなくなるほどに、狂気の殺戮を続けざるを得ないのは、しかしお前の宿命なのだ。蒼鬼の一族として生まれてしまったからには、羊たちを屠る以外に生き延びるすべはない。

仮にそれを良しとせず自らの命を断とうとしても、己の生命力のしぶとさに、恐怖することになるのが関の山、その愚かな道を通るにせよ、通らぬにせよ、お前は鬼畜の道を歩み続けねばならぬ。

やがてお前は最愛のダーリンをもその手にかけることになる運命、というのも、お前の唾棄するビーガン女どもの魔の手に、あやつは落ちることになるのだ。

色仕掛けで落とされたあやつは、お前の愛する純粋なその魂の輝きが消え失せそうになりながらもどうにかその火を守り続けるのだが、お前の情によって目を覚ますことはついにない。そのときお前は百億の業苦に苛まされながらも、その手でやつの血を流さざるをえないことに気づくのだ。

願わくばお前の魂が、その自分の宿命を受け入れて安らかに殺戮し続けんことを。

それだけが、蒼鬼族の長(おさ)としての父の望みなのだ。

  *  *  *

かような次第でございまして、虎皮のパンツを身につけた者どもは、世を破壊することによって、新たなる再生のときを準備するのでありますが、わたくしどもの世相というものも、寒々しいほどの無情さをひけらかしておるわけでございますから、皆様がたもうんざりなさっている通りに、今日もいつもと変わらずに、どこぞの国家がどことかの国家に喧嘩を売っては、双方の旗振り役たちが互いの正当性を主張する宣伝工作を繰り返し、そしてまた、その尻馬に乗って火事場に集う野次馬の皆々様も、やいのやいのと騒がしい状況が続くのでございます。ですから、わたくしのような阿呆丸出しの年寄りなどは、竹林にでもこもり野糞して気を晴らすくらいしか他に手がないわけでありまして。

と申しますのも、まったく不可思議なことではございますが、いつの間にやらこの地球という惑星の表面にへばりつくヒト族の世界というものも、千九百八十四年の様相をすっかりまとってしまいましたので、人間どもには全く分かりやすい正義と悪との戦いを、双方が自分を正義、相手を悪と定義して、その双方の支配方(かた)からすれば、悪が正義で正義が悪で、悪と正義が手を結び、表で煽って裏で儲けるのでございますから、これこそまさに濡れ手に粟、崖っぷちを駆け抜けるのが大好きな妖怪変化どもからすれば、さぞかし笑いが止まらないことでありしょう。

そうしてきゃつらが打つことになった暗号電信が、特等席ラムネ特等席ラムネ特等席ラムネ、すなわちトラトラトラなのだと、そう聞き及びましたものですから、ええ、まったく、長生きはしてみるものでありまして。

  *  *  *

とんとんつーとんとん、とんとんとん。
とんとんつーとんとん、とんとんとん。
とんとんつーとんとん、とんとんとん。

特等席、ラムネ。
特等席、ラムネ。
特等席、ラムネ。

モールス信号はこんなふうに覚えるんだって、一体何で読んだんだったっけ。

「イはイトー」で、「・─ (とんつー)」。そのときはこれしか覚えてなかったんだけど。

「トは特等席」で「・・─・・(とんとんつーとんとん)」、「ラはラムネ」で「・・・(とんとんとん)」、この二つもこれで一生忘れられんな。

まあ、そうやってガラクタを頭の中に詰め込んで、はい、おいらの人生の出来上がりでございってわけですわな。

でさ、そのガラクタの一つに「トラ」っていう名前の同人誌があるんだから笑えるよね。うん、もう四十年も前、高校の友だちとつるんで、三年間で五号は出したんだけどね。

っていっても、「トラ」なんて呼び方してたのはおれだけで、仲間は「トラファマ」とか「トラマ」とか呼んでたんだ。

(今、トラマを変換したら虎馬だってさ。次に雑誌を出すときはこいつを題名にしようかね)

正式名称はトラルファマドールでさ、カート・ヴォネガットからのいただきですよ。

「スローターハウス5」と「タイタンの妖女」に、それぞれ性格の違うトラルファマドール星人が出てくるけど、どっちもおもしろいキャラだよね。

シリアスな話が好きな人は「スローターハウス」を読めばいいし、破天荒な話が好きなら「タイタンの妖女」がおすすめ。

つまりおいらの文筆活動は、そういうsf界隈が原点ってわけ。

文筆とか偉そうな言葉を使っても、実のところデモシカのなんちゃって作家志望だから、ロクにまとまったものも書きゃあしなかったけど、とにかく高校から大学にかけて、そんで、そのあとももう少しは同人活動が続いたんだから、今振り返ってみりゃあちっとは褒めてやってもいい気がするね、あはは。

で、そのあとは人に見せるような文章はだいたい休業状態だったけど、たまたま精神保健界隈の仕事に関わることになって、その作業所に通う病者(メンバー)の人に一緒に同人誌を作りましょうって言われたのが、ある意味ぼくの「作家人生」の転回点だったかもね。何しろ締め切りがないと書かないナマケモノだからさ。そのメンバーの人の家(うち)に作業所の所長相当の人と三人で集まっては、酒を飲みつつ同人誌の相談をしてたのがいい思い出だよ。

そうしてそのうち、その作業所からも離れちまって、二人めにして今も連れそう奥さんと、葛藤しいしい東広島で住んでた時にnoteと出会ったのも大きな転機でさ。ええ、ええ、初めから向う見ずにも「こいつは稼げるかも!」とか思ってましたよ。

noteでもいろいろな出会いと別れがあり、騒動や悶着もあったけど、ここんところはNEMURENUと俳句幼稚園で、創作と極短詩の二本立てみたいな感じが、ようやく落ち着きどころとして見えてきた気もしますわな。

とまあ、そんなこんなでこういう出鱈目な文章を、太宰治の本歌取りを気取って書いてるんだから、まあ世話はないってことですよ。

生真面目に生きてる方からは、何だこいつふざけやがってと思われても仕方ないけど、ふざけるしか生きようのない哀れ無残な男だからどうにもねー。

そんな阿呆が、悟りと無気力の両極を行ったり来たりしながら、少しばかり気持よく文章を書いただけで、「やったぞ、奇襲に成功だ!」と浮かれてみたところが、そんな奇襲の成果が長続きしないのは歴史が証明してることだしさ。

  *  *  *

さて、わたくしどもホモ・サピエンスの百万年からの歴史が、何事かの証明になっていると申そうとするのでありますからには、蜘蛛の糸のごとき細さではあっても、はっきりくっきり東芝さんと輝きを放つ一筋の照明を、その要(かなめ)の一点にしかと当て、映し出される朧の月の、曖昧模糊に浮かび出る、あなた様の無意識の戯れを、是非ともご覧いただかなくてはなりません。

そこで見いだされるものが、「何だつまらん、ただの十五夜の月じゃないか」という感想を生むだけなのか、あるいはふと気づくと、豊穣の海という名の荒涼の月面に降り立って、あまりの寂寞に茫漠の涙を流すことになるのかは、ここでわたくしの申せることではありません。

異国の地タイランドにて有馬温泉で働いたことがあるというタイ女性に出会った時には大いに驚いたものでございますが、東京世田谷原住民のわたくしめなぞは、ついぞ有馬温泉を訪れたこともありま(おん)せん。

そんな成り行きでございますから、はてさて、この奇襲成功を告げる高らかなる虚報の進軍ラッパが、いつまで続きますことやら、そいつばかりは大黒天(マハー・カール)さまでもご存知ありますまい。間違っても悲劇(トラジディ)の結末を迎えることがないように、心より祈るばかりでございます。

[二千二十二年弥生吉日]

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以下、本作で触れた書籍など。

・和久田 雅之「山頭火静岡を行く」
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自由律の俳句と言えばこの人、種田山頭火。酒飲みのダメ人間が、句作を通して何とか社会と折り合いをつけることで生き伸び、最期は乞食坊主として静かに死んでいったその姿を、句友の証言を交え丹念に描き出した本書は、山頭火ファンであってもなくても、人生につきもののしんどさから目を逸らすことができず、そして文章表現に何らかの意味を見出そうとしているすべての人にお勧めの一冊です。

・カート・ヴォネガット「スローターハウス5」
https://amzn.to/3wy1rg9

第二次大戦時に起きた連合軍によるドイツ・ドレスデンへの無差別爆撃は、一夜にして広島以上の死者を出したとも言われます。ほとんどの日本人が知らないこの事件を、捕虜として現場で体験したアメリカ人ヴォネガットが、sf的空想を交えて描く本作は、戦争というこの世の不条理を克明に浮き彫りにする諦観を通して、あなたの心に一縷の希望の炎を灯してくれるかもしれません。

・カート・ヴォネガット「タイタンの妖女」
https://amzn.to/3us4B2b

宇宙を股にかけて不可思議の運命に翻弄されるマラカイ・コンスタントを巡るこの空想科学譚はその結末の謎解きの、あまりの莫迦莫迦しさに呆れ返ることになるか、膝を打つことになるか、あなたの感受性の占いとして捉えてみるのもおもしろいことでしょう。

・NEMURENU
https://note.com/murasaki_kairo/m/mc99262333c9c

村崎懐炉ことムラサキ氏が主催するこのweb上の月刊アンソロジーは、2018年6月にネムキリスペクトの名ではじまり、もうじき四周年を迎える長寿企画です。

怪奇趣味を基調にしつつもノンジャンルの楽しい同人活動に、読み手として書き手として、あなたのご参加をお待ちしております。

・俳句幼稚園
https://note.com/whitecuctus/m/mb9716a84c521

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