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第13回 ムイシュキン

[編集部からの連載ご案内]
『うろん紀行』でも知られるわかしょ文庫さんによる、不気味さや歪みや奇妙なものの先に見える「美しきもの」へと迫る随筆。今回は、春の満員電車の中からささやかに掲げられる世直しの提案。(月1回更新予定)


この文章は、筆者による世直しの提案である。私事で恐縮だが春から勤務地が変わり、著しく混雑することで有名な路線を利用して職場へと通う日々を送っている。満員電車を蛇蝎のごとく嫌うひとがいる一方で、わたしはそこまで嫌いではなく、致し方なしというか、むべなるかなというか、関東圏で暮らす利益を享受する者としてこれくらいは我慢できるかな、くらいの位置付けとしている。
 
この位置付けが甘かったと後悔させられるほど、当該路線は苛烈である。四月のはじめの頃は、息を吸うたびにみぞおち付近が鈍く痛んだ。車両のなかですし詰めにされ、急停止した際に前後から強く圧迫されたのが原因とみて間違いないだろう。リモートワークが浸透したというのは嘘だったのだろうか。もちろん憂き目にあっているのはわたしだけではなく、駅のホームにはしゃがみこむひと、目を閉じてぐったりと柱にもたれるひと、棒立ちでうなだれながらも心配して話しかけてくるひとを手で制するひと、などが散見される。異常事態と言ってよいが、毎日のことなので見慣れてしまった。
 
命の危険を感じさせるほど満員になった電車に乗っていると、他の乗客たちとは布数枚にかろうじてへだてられて密着することになる。こうなった以上は一蓮托生なのだから、つらいし不本意だがそれでもやっていきましょうね、といったお互いを労わる気持ちが生まれるものだが、なかには傍若無人な客もいる。「肩で風を切るように」という慣用句があるが、あなたは肩をジャックナイフに変えたのですか? と問いたくなるほど、存在しない隙間にとがらせた肩をねじこむ、通り魔めいたひと。曙の突っ張りのように両手を突き出して車内に乗り込む、年寄株が工面できずに格闘家に転向しそうなひと。マイコンで操作されているのかと訝しむくらい人間の塊へと突き進む、ラジコン人間。運悪くそういった乗客たちの近くにいたが最後、物理的に痛い目にあう。多少の不快感には目をつむる覚悟があるが、物理的に痛めつけられるのはやっぱり嫌だ。
 
こういった思い切りのよい迷惑行為を行う乗客は大抵、
 
「なにか? わたしにはもう、羞恥心はない。良心もない。むしろ、周囲に他者がいないかのように振る舞うことによって、かような地獄においてわたしは、かろうじて自我を保つことができるのだ。この生き方を誰にも否定させやしまい」
 
といった顔をしている。憮然として、「負けるが勝ち」と顔に書いてあるみたいだ。すっかり開き直って、あえて下衆を選んだのだという自負に満ちている。だが、平気にしているかというと決してそうではなく、むしろその逆で、自尊心が傷つき、意識は他の乗客に向かっている。申し訳ないことをしたという罪悪感を、必死に押さえ込んでいる。
 
こういった乗客に運悪く遭遇したとき、あなたならどうするか。わたしならこうする。できる限りイノセントな表情をつくって、そのひとの瞳をまっすぐ見つめるのだ。このとき、決して非難がましい目つきをしてはならない。怒りや処罰感情ではなく、純粋な驚きやさみしさ、そういったものを漂わせなければならない。
 
手本にしているのは、黒澤明の『白痴』に登場する、森雅之演じる亀田欽司だ。この映画はドストエフスキーの同名小説を、札幌を舞台に翻案したもので、三船敏郎や原節子、久我美子といった俳優たちが出演している。彼らはみなはっきりした顔立ちで、それに加えてこの映画のなかでは常に鬼気迫るような表情をしているのだが、わたしはむしろ、腑抜けたような表情に徹する森雅之が忘れられなかった。原作ではムイシュキン公爵に相当する亀田は、純真無垢で無邪気で、善性そのもののような人物である。この亀田が原節子演じる日陰者の女、那須妙子を見つめる顔をイメージしたのが、わたしなりのイノセントな表情、「ムイシュキン顔」である。ムイシュキン顔をつくる具体的なコツについて説明しよう。眉間を気持ち上げて下り眉にしつつ、同時にまぶたも皮ごと眉についていかせる。そうしながらも意識を鼻のちょい上のところに集中させて人中をすこしだけ伸ばすと、誰でもムイシュキン顔になる。
 
ムイシュキン顔でじっと見つめられると、大抵の迷惑客は目をそらす。目をそらされてもなお見つめ続けると、いっそういたたまれない表情になる。それでも構わず見つめ続ける。この電車にいる「あなた」というひとをわたしは見ています、あるがままのあなたを見ていますよ、という顔。美貌に恵まれながらも金持ちの愛人にさせられて世間から蔑まれていた那須妙子は、亀田が自分を見つめる目によって、失いかけていた愛や自尊心を取り戻そうとした。迷惑客はわたしのムイシュキン顔を不気味がるが、それでもいつまでも、降車するその瞬間まで、見つめ続ける。なぜか? いまいちど自身の迷惑行為を振り返ってもらいたいからである。罪悪感に向き合ってほしいからである。すなわち、わたしのムイシュキン顔は作為的なイノセントさであって、本当は無害などでは全くない。罰したいという気持ちさえある。だからわたしは偽ムイシュキンである。というか、どう考えてもドストエフスキーの作品の登場人物のなかでわたしに最もよく似ているのは、世間を遠ざけて安全圏から文句ばかり言う、自意識過剰で孤独な『地下室の手記』の主人公、ネクラーソフだが。
 
いまのところ偽ムイシュキンだろうと多少の効果はある気がしている。だから是非とも、諸兄諸姉にもムイシュキン顔を試していただきたい。満員電車で行うというのがミソで、なぜならば相手が怒り出して暴れる可能性も無くは無いからである。相手の手が届かない距離であることを確認してから行うことを推奨する。なお、ムイシュキン顔によってあなたが顔面をひどく殴られるなどの被害にあったとしても、あくまでも自由意志によって行われたものとし、筆者は一切の責任を負わない。
 
 
昔、大学で『白痴』を観続ける授業を履修しており、毎週の楽しみにしていた。わたしは前のほうの席に陣取り、プロジェクターが映し出す『白痴』を呆けた顔で見つめていた。教授はたしか、こんなことを言っていた。
 
「オリジナル版の『白痴』は長すぎて、劇場ではかけられませんでした。黒澤明は不本意に『白痴』をカットさせられ、オリジナル版のフィルムはどこかへ散逸してしまいました。いまあなたたちが観られるのは、カットされたほうの『白痴』なのです。しかし、この世のどこかに、オリジナル版の『白痴』が絶対にあるはずなのだ。あなたたちには、そのフィルムを見つけ出してほしい。わたしはこの先、何十年とは生きられないだろう。だから、あなたたちに託したい。それゆえわたしは毎年、あなたたち学生に『白痴』を観せるのです」
 
そうだった。すっかり忘れていたが、わたしにはオリジナル版の『白痴』を探し出す、という使命が与えられていたのだ。満員電車に乗って、迷惑な乗客を那須妙子に見立てて偽ムイシュキンをやっている場合ではない。フィルムの中の、本物の那須妙子を探しに行かなければ。
 
というふうに、使命感に駆られたふりをして職を辞し、満員電車から逃げ出す方法もあった。だが、わたしはそうはしなかった。わたしは出勤の時間を四十五分前倒しにすることで、過酷な通勤ラッシュから逃れたのであった。比較的すいている電車の窓ガラスに映るわたしの顔は、今日もまた偽ムイシュキン。


わかしょ文庫
作家。1991年北海道生まれ。著書に『うろん紀行』(代わりに読む人)がある。『試行錯誤1 別冊代わりに読む人』に「大相撲観戦記」、『代わりに読む人1 創刊号』(代わりに読む人)に「よみがえらせる和歌の響き 実朝試論」、『文學界 2023年9月号』(文藝春秋)に「二つのあとがき」をそれぞれ寄稿。Twitter: @wakasho_bunko

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