見出し画像

おふくろの味って言っちゃいけないの?

 今更『お母さん食堂』の話ししていいですか。
 ファミリーマートのチルドお惣菜ブランドだけど、ネーミングで炎上してたのを横目にして、ジェンダーとかセクシャリティというより、家族観の話として気になった。
 端的に言ってしまえば「よそはよそ、うちはうち」なんだけど、たとえば「聴覚障害を持って生まれた子供にとって最大の不幸は耳が聴こえないことではなく、親が手話を話せないこと」という話があって。
生まれてきた子にとっては耳が聴こえないことは当たり前だけど、親は聴者だから声で意思疎通するのが当たり前で、当たり前という前提に齟齬があるという部分が重要なんだよね。

 家族がいない人はいないとされている一方で、今も昔も変わらず構成員が一定ということはない。
核家族化が進んでいるとはいえ在宅介護も増えれば二世帯同居の可能性も増えるし。必ずしもお母さんが炊事をするわけではないなんてことは、むしろ当たり前のことのように感じる。
『お母さん食堂』は慣用表現としての「おふくろの味」くらいのニュアンスだったんじゃないかなあ。それとも「おふくろの味」も言葉狩りの対象なのか? だったらミルキーも?
 実際お母さん食堂のCMでお母さん役をやっていたのは香取慎吾だったし、ジェンダーロールとは無関係に使っていたのだと思う。
 その無頓着さを問題視する立場もわかるけどね。

 他の家庭と比較して自分たちの位置づけを知ることと同じくらい、他の家庭と自分の家庭は違うってことを大事にしてもいいと思うし、そのほうがダイバーシティなんじゃないかなあ。
方言とか親子関係とかフウフとか、どこまでもローカルで一般化できない事柄ってあると思う。
 介護の仕事をするまで、洗濯した靴下の干し方における各ご家庭のローカルルールなんて考慮したことなかったし、結婚するまでバスタオルや足ふきマットを変える頻度について、各ご家庭で差があるなんてこと考えもしなかった。

 お父さんが料理をする家もお母さんが料理する家も、それ以外が料理する家も当たり前にあるよ。
 当時Twitterで『お父さん食堂』を考えてみていた人もいて面白かった。「土鍋で高級な米炊いて失敗して片づけはしない」。
 そういうお父さんに会ったことなんてないのになんか笑っちゃう。
 でも笑っちゃうってことは私の中に偏見があるということだと思う。
 偏見や差別意識は自覚的にせよ無自覚にせよ誰しもにあるはずだから、それを表に出すときに気をつける必要がある。
 何でもかんでも差別だ偏見だと騒ぎ出すと肝腎なときに効力を失いそうで、斉藤由貴『卒業』における涙みたいに、差別や偏見だという抗議もとっておきのときにとっておいたほうが切り札になる気がしてる。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?