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自殺がしたい(のに)。

怖くなった、私に向けられる生の目線が。

2023年の9月の半ば、私は再びカフェインによる自殺をしようと思い致死量の3倍以上に値する量のカフェインを1分足らずで摂取した。

私は薬なら一度に40錠以上飲める体質なのでたくさん飲むには苦労しなかった。

これで人生が終わると思うともう......喜びに満ちていた。
あれほど欲しくないと願っても願っても与えられている生存の権利、喜怒哀楽、感情、意識、記憶とおさらばできるのだ。

その事実はこの上もなく輝いていて私の心を奪った。
もう2度と目が開かないということが楽しみで仕方がなかった。


けれども私は助かってしまった。
助からないように動いていたのだが、幸か不幸か運が良いのか悪いのか助かってしまった。

こんなカス助けなくていいのにとか思うが、
大学の頃に医療倫理の授業で「自殺企図をして意識がない患者は問答無用で助ける」的なことをナントカ宣言で提唱されたということを知って
(現行の医療にそれが適応されているのかどうかは知らないけれど)、
私のようなかつて、医療が発達する前には「ダーウィンの進化論」のとおり、
さっさと淘汰されてしまうような個体でも、そのルールによって不本意ながら(すみません)助けられて生き延びてしまう世の中になってしまったんだと悟った。

ただ、助けていただいている身としては、その場で「死にたかったのに」とか「なんで助けるの」などといった言葉を発することが躊躇されたので、閉口していた。

が、カフェイン中毒はとても大変で、口を閉じようとしたって血や胃液を吐くことになるし、言葉を出さないように心がけていても苦悶で呻き声をあげてしまう。

それを見た救急隊の方が「大丈夫だよ、もう少しで病院に着くから安心してね。」と言った。

病院に着いたら看護師さんが「ここ病院だからね、もう大丈夫だよ。」と言った。

ICUで看護師さんが「何かあったら必ず助けるから安心してね。」と言った。

どれも温かい言葉だなと思った。

きっと、
"不慮の事故や病気で搬送されたりしてICUに入院した患者さん"
に対して普段もそう呼びかけているから、私に対してもおんなじようにに言っただけにすぎないと思う。

ただ私は怖かった。
あまりにも大前提に「生」があるということ。

死に飲み込まれていると忘れてしまう。
心の軸も身体の軸も常に死が通っていて、思考も全て死。生存なんてもってのほか。
なんかチャンスがあれば絶対に死にたいし、朝とか目覚めないままであって欲しいなぁ〜とか、
もう事故でも病気でもなんでもいいからとりあえず死なせてくれ〜!!
なんて思っている私からしたら、生、生存することが大前提にある人が眩しい。

他の星の生き物を見ているみたいに感じられる。

生きることが当たり前の人と接すると忘れ去られていた自分自身の「歪」をはっきりと突きつけられてその事実だけでまた死んでしまいそうになる。


私に向けられる生。その温もりは感じ取ったがやっぱり生きたいなんて思えなくて、でもそんなこと言えないし、ICUなんて私のような自殺企図患者なんて場違いだし、あとなんかパニック発作が起きてしんどいしで、本当に申し訳がなかったのだが、先生に「お願いだから意識だけでも無くさせてください(カフェインの作用で一睡もできていなかったというのもある)」と言ったら、

「それをするとあなたはもう2度とあなたに戻れなくなるんだよ。」

と言われた。その言葉の持つ意味をなんとなく理解したがいや私はそれを望んでいるんだよと思った。
でも、言えるわけがなかったし、何より私が「生きたいと思っている」と思われていそうなことにびっくりした。

もしかしたら先生にとっては生きるなんて当たり前だから死にたい人間の気持ちなんて理解できないのかもしれない。
だからそういう発言をしたのかな、とか、普段から死にたくないのに死にそうな人を一生懸命に救っている立場だからそう思ったのかな、とか、

そんなふうに考えを巡らせながら、もう一度自分に向けられた生、生存の目線や言葉を反芻した。

どう考えても「私が生きたいと思っている」と思われているとしか考えられない。

(※でも私が死にたいと思っているのを理解した上で私を励ますためにあえて明るい言葉をかけてくれていたのならすみません。)

直接言われてはいないけれど、生きることは当たり前なんだって言われた気がして、心が折れた。

いや、私の軸である死が折れた。

理解されなかったから折れたのではなくなんだろう、圧倒的に正しくて眩しいパワーに闇がかき消されてしまうような、そんな感じ。

折れて折れて砕けて粉々になった。
なのに私は死にたい。でも死を失った。死のために行動できる私を失った。
死にたい。死ぬほど死にたい。もう明日なんてなくってもいいなんて思っているのにもう私は死に向かって行動をすることができない。
しんどい。

私のような病んだ人間からしたら死ぬことだって「自己実現のひとつ」なのに私は寿命が尽きて死ぬまではどうやら自己実現(のうちの1つ)はできないらしい。

悲しい。夢、叶わずして終わる。

ここまで書いていて、世間?いや世界?地球軸で見ても自分がおかしいのは理解している。

生物の身体は意思がなくても生きるようにできている。

大地も水も太陽も魚も動物も植物も生きるようにできている。だから私がおかしい。

死にたくないのに死んでしまうあなた、私が憎いでしょう。私もあなたが憎い。

死にたくて死んだあなた、私を嘲笑うでしょう。私は恥ずかしい。

生きるのが普通のあなた、私の頭がおかしいと思うでしょう。私もそう思います。

きっときっと生が正しくて死が間違ってる。
多様性とかなんとかいってるから死の自由だってあるといいきかせていたけれど、実際は存在しないみたいでした。

死を失った私はより一層生という地獄に堕ちてしまう、そう悟った。

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