彫刻刀とランドセル
世の中に母親や父親はごまんと存在しているが、その中で子どもにとって適切な環境を用意できる親は一体いくら存在するのだろうか。
もっと言えば子どもにとって適切な環境とはどういうものを指すのだろうか。
潤沢な資金があり、それを子どもの教育にふんだんに使える環境のことをいうのだろうか。
それともお金はないけれど身体がちぎれるくらいたっぷりの愛情をかけて育てることをいうのだろうか。
それとも両親はいないけれど、ちゃんとした教育を受けることができてそれなりに愛されている環境のことをいうのだろうか。
「親」「子」の数だけ環境があり感情がある。
最近、周りで妊娠、出産をする人が増えた。
もちろんおめでたいという気持ちでいっぱいだが、私の友達は子どもにどういった教育をするのだろうか、とついつい考えてしまう。
家庭は究極の孤立である。
その孤立した環境の中、客観的に見ても主観的に見てもちゃんとした教育を行うのは容易ではない。
自分の家庭が崩壊していたのもあってついついそういうものに敏感になってしまう。
話が変わるが、人間には様々な感覚が存在し、その中に「違和感」というものがある。
私はこの違和感に関して、割と本能的なものだと思っていて、なんとなく変だなぁ〜と感じて、理由はないけれどその違和感の対象と距離を置くとあとあと「やっぱりな!離れてよかった!」と思うことが多々ある。
「理由はないけれどなんとなくおかしいと本能的に感じる」こと。
これは生きていく上でものすごく大切な感覚だと思う。
私が17歳のとき、私の幼馴染が結婚をし子どもを産んだ。
彼女とは付き合いが長いので、16歳くらいで結婚をして子どもを産むことはなんとなく想像がついていたため、予想外だという感覚はなく、どちらかと言えば予想通りだったのだが、果たして17歳の人間が子どもを育てられるのだろうか?と思った。
まあ私は彼女の家庭の詳細を知らないし、当時受験が近づいていたので他人の家庭の心配をするような余裕はなく、子どもを産んだあとの彼女と再会するまでに5年もの時が流れた。
5年ぶりに会った彼女は元気そうで安心したし、子どもがもう1人増えていた。
その事実に驚きつつも、彼女の子どもと遊んだりしていたのだが、遊んでいると彼女の子育てに少し違和感を覚えた。
それは子どもが言うことを聞かないときに、聞く人によっては暴言と取れる内容を吐き頭を叩くという教育に対する違和感。
正直、今の世の中ではどこまでが虐待?どこまでが教育?と議論されることも多くあり、私自身もどこまでが虐待なのかがわからない。
私は子どもがいないのでもちろん人を育てたことがない。なので育て方もわからなければ、親の気持ちもわからない。
わからないがもしかしたら子供の人生に1、2回くらいは殴って言い聞かせないといけないシーンがあるのかもしれないと思っているので、教育と虐待のグレーゾーンである行為をどちらに振り分けるべきかわかっていない。
のだが、明らかにその彼女の教育には違和感を覚えたし、よくないのではないかな、と思った。
周りの友達もそう思っていそうだったが、だからといって子持ちじゃない人間が子持ちの人にアドバイスするのはちゃんちらおかしいということがわかっていたので、私は彼女の子どもと手を繋いでコンビニに行って好きなものを買ってあげることしかできなかったし、彼女に対してもストレスがあればなんか言ってね!くらいの言葉しかかけることができなかった。
その出来事があった1年後、彼女の子どもが小学校に入学するらしく、8万もするランドセルを買ってあげたと話していた。
私は子どもがいないのでランドセルの相場がわからないし、物価高で私が小学生の頃よりランドセルの価格が上がっていると思うので本当にランドセルの価格については何もわからないのだが、きっと良いものを買ってあげたんだろうなぁと思った。
教育、環境、お金、肉体的接触などなど愛の形はたくさんある。
彼女も教育、環境の面でももちろん子どものことを愛していると思うが、ランドセルの件でお金の面での愛を強く感じた。
瞬間に私の脳裏に小6のあの日が思い浮かんだ。
学校で彫刻刀を使うため、彫刻刀業者から彫刻刀に関する資料が届いた日。
その資料には安い彫刻刀から高級な彫刻刀まで様々な彫刻刀が載ってあり、高い彫刻刀は持ち手はもちろんケースがキラキラしていて可愛かった。
しかし私は彫刻刀などそんなに人生で使うこともないし別に安いのでいいだろうと思っていた。
そんなことを考えながら親に資料を渡すと親はその中で1番高級な彫刻刀を選んだ。
嫌だと言ったがボールペンで記入していて、業者に提出するものなので消すわけにもいかず、そのまま提出し私は高い彫刻刀を手にすることになった。
私の家は歯科の開業医で、公立の小学校に通っていると勝手にお金持ちの子と認識されることがあり、私はそれがすごく嫌で、高級な彫刻刀よりもみんなとおんなじ彫刻刀を持ちたかった。
彫刻刀を授業で使う日、買ってもらった彫刻刀を持って学校に行き、周りを見渡すと、みんな各々好きなものを選んでいるようだったが、誰1人として1番高い彫刻刀を持っていなかった。
先ほどもいったが1番高い彫刻刀はケースがキラキラしているので一瞬で高い彫刻刀を持っているということがバレてしまう。
私はそのことが嫌で嫌で仕方がなくて、彫刻刀をそっと机の中に隠した。
私の母は料理もあまりしなかったし、殴るし叩くし、暴言を吐くわで最悪だったが母親が私に対して唯一差し出せる愛の形がお金だったのかもしれない。
もしかしたら幼馴染の彼女もそうかもしれないし違うかもしれない。
でも、彼女の普段の行動と不釣り合いなお金のかけ方をみて私は小学生の頃の私のことを思い出してしまった。
愛の形はたくさんあるが、できるだけ多くの形の愛を子どもはうけるべきだと思うし、この世のすべての家庭が笑顔あふれるものであればいいのになと思う。
そして私のあの高級な彫刻刀は購入から2年後私の自傷行為に使われたのであった。
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