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4年間通っていた大学を辞めました。

はい。辞めました。
決め手となったのは、1月1日に飛び降り自殺未遂の未遂を起こしたこと。

もう少し遡ると、カフェインをodして死ぬのに失敗して、救命センターに入院し、閉鎖病棟に入院したこと。

私と大学との関係の間にはどうしても"死"という"ワンクッション"が挟み込まれていた。

私がどんなに真面目に頑張ろうが、真剣に誠実に学問に向かおうが、死に邪魔されるだけなので全てが無意味だった。
本当に。4年間の全てが。

人生に無駄なことはないというけれど、それは、無駄なことがないと思いたい人が己を励ますために、現実を直視しないために、悔しさを紛らわすために言っているだけで、人生に無駄なことは一定数存在するのだなと思う。

私の4年間を一言で表すならば"徒労"。

死ぬ思いでとった150を超える単位も、
遅刻も欠席もせずにもぎ取った実習の単位や点数も、テストの点数も、成績優秀者としての表彰も、今となってしまえばなんの価値もない、ガラクタ以下の存在のような気がする。

私は ー目に見える形にあるー 
ということをすごく大切にしている。
どんな思いも言葉も、目に見えなければ、
そこに残らなければ、意味がない。

(だから私は形に残らないものを文字にしてnoteにするのだが、それはまた別の話。)

私の4年間の栄光はなんの形にも残っておらず文字にすらしていないため、朽ちてしまった。

千と千尋のカオナシが持ってきた金が、
じゅわーーっと朽ちていく、あの感じです。伝わるかな?

そして、この徒労だけの4年間を今形にすることで少しだけ私は救われようとしています。
救われてもいいですか?


まず大学に入った経緯。
地方都市って言ったら怒られそうなくらいの地方都市、いや限界都市の方が相応しいかな?
そんな田舎に私は生まれた。

私の街は、お祭りが盛んで、秋になると酔っ払った男性がオラオラして喧嘩してもみくちゃになって収拾がつかなくなり、警察がたくさんやってきて止めに入る。

中学卒業後の進路はとび職か、暴走族、それかママのバーを継ぐ。
そんな街。

そして、彼らはみんな中卒か高卒。

でもそのことに関して誰もおかしいと思ってない。

だって、"そういう街" だから。

それでも生きていけるのはその街では学歴よりも"早く親に孫の顔を見せること"が大事で、重要視されていて、いちばんの幸せだから。

そんな大学なんて雲の上のような存在の街に、
一軒しかない歯医者の娘として私は生まれた。

限界のような田舎の中で、唯一学歴が輝いている家に生まれた。

周りの人はみんな、
「あなたは歯医者になって地域のみんなを助けるんだよ。」
「大人になったら私の歯をみてね。」
「歯医者になるために遠くの私立の進学校に行くんだよ。」
「たくさん勉強して素敵な歯医者になってね。」
「農学部?そんなくだらないこと言ってないで歯医者になりなさい。」
と言った。

私は本当はこの大好きな限界都市で最期を迎えたかったため、進路は地元の国立大学の農学部を希望していた。
応用生物化学の分野から地域に貢献したいと思っていた。

歯科という進路を無視し続けて勉学に励んでいた高校3年の、センター試験の前日。
忘れもしない。母親が私の部屋をいつも通りガンガンと激しくノックし、乱暴にドアを開け、
大好きな生物の勉強をしている私を見て、

「生物なんか金ににならない勉強なんかすんな!!!」

と怒鳴った。
そんなことを言われようが、センター試験1日前、いくら金にならなかろうがやらなければならないのである。

理不尽だなぁと思いつつ、親の言う"金になる勉強"である英語の勉強に切り替えた。


そのあとお風呂に入ったのだが、母親はお風呂に入っている私を追いかけてきて、お風呂のドアを全開にし、怒鳴り続けた。

寒くて寒くて仕方がなかった。
大事な大事なセンター試験の前の日。
何度も何度も「風邪をひいたらいけないから、お願いだからドアだけは閉めて、お願い。」と懇願した。それでも親はドアを閉めることがなかった。
他の受験生はみんなこうなのかな?
まともに試験を受けられていそうな他の受験生が羨ましくて仕方なかった。

そして試験を受けたのだが結果は散々だった。
志望校は今までA判定B判定しか取ったことがなかったのに、本番で初めてE判定を取ってしまった。

家で泣きじゃくる私を見た母は、私に一言、
「普段の努力が足りないからだろ。」
と言った。
もちろんそうだと思う。
前日に親と大喧嘩しても、たとえ親が死んだとしてもブレないメンタルがその試験には必要なのだと思った。

それでも、自分の親には「努力が足りない」ではなく、「今までよく頑張ったね、お疲れ様。」と声をかけて欲しかった。

そこからE判定を取ったにも関わらず、勉強もせずに毎日毎日泣きじゃくる私を見た母は、
(余談ですがこの日人生で1番好きだった推しが卒業宣言をしたこともあり、余計に辛かった。)
「滑り止めの私立に、私が卒業した大学受けたら?簡単だし。」
と言った。

私は正直母の大学は、受験生の時点で偏差値が低すぎる、と見下していたので、そこの大学を受けるなどの発想に至らなかったのだが、
母に言われて初めてこの崖っぷちの状況を脱するにはちょうどいい案なのかもしれない、と思った。

しかし、その大学を受けるにあたって条件があった。

絶対に特待生を取る

ということだった。特待生になると学費が半額になる。片親で他の歯医者より少しだけお金がない私の家だと、私立の歯学部の学費3000万円は到底じゃないけど払えなかった。

私立の対策などしたことがなかったし、受けると決めた時点で入試まであと2週間くらいしかなかったが、国立大学の2次試験の対策をしつつ、暇な時に私立の対策をして、本番を迎えた。

私が受けた大学は2校あり、専願もできたので、専願し、両方とも合格をいただいた。
そして片方は無事に特待生となった。

親は喜んでいた。親は。

かくいう私は余計ピンチになった。
親が大学に入学金を払ってしまい、歯学部に入る流れが完全に出来上がってしまっていたから。

とにかくピンチだったが、今の私にできることは第一志望の国立大学の農学部に受かること、それだけだと思い、E判定から逆転するべく必死に勉強した。

その結果みごと判定を覆し、合格することができた。
本当に嬉しかった。

やっと自分の思い描いている人生が歩める

本気でそう思った。

喜んでいると母が、
「私立の入学金払っちゃったけど、どうする??」
「国立の大学に入るには入学金の300万返して。」

と言った。終わった、と思った。
当時は高校を卒業したての18歳。300万円を稼ぐということがいったいどのくらいのことなのかわからなかった。その上、私の選択のせいで300万円をドブに捨てることとなる。

私にはそれができなかった。
それをする勇気がなかった。

もう逃げ道はない、そう思い歯学部に入ることに決めた。

歯学部入学を決めてからしばらくしたある日、
大学から一本の電話があった。

電話の内容は
「入学者代表として挨拶をしてほしい。」
ということだった。

母親にそれを伝えるとすごく喜んでいた。

私も、歯学部に入るのは嫌だったけど、少しは親孝行できるかな?
母に認めてもらえるかな?
と嬉しくなった。

そして迎えた入学式前日。
私は崩壊した。
涙が止まらなかった。

私が本当にやりたかったことは、地元の大学でのんびりと大学生活を送ることだった。
こんなどこかわからないくらい遠くの街で、合格率の少ない国家試験に受かるために若い6年間を興味のない勉強で潰すことではなかった。

久しぶりに死にたいと思った。
入学する前に死んでしまいたい。
と思った。

それでもその日はやってきて、私は歯学部に入学することになった。

どんなに嫌に思っていても、入ってみれば意外と楽しいことはあるもので、最初の1年間は同期の友達たちや先輩と楽しく過ごしていた。
本当に1年目だけは楽しかった。

ただこの時、私は軽い拒食症になってしまい、ご飯を満足に食べられなくなり、生理がこなくなってしまった。
それが唯一のストレスだった。


大学2年になると、基礎系の科目が始まった。
基礎系の科目は大好きだったため、楽しんで勉強をすることができた。
成績も1番だった。
大好きなことは他の誰にも負けないということが証明されてすごく嬉しかった。

ただこの頃、拒食が過食に移行し始めていた。

痩せ細り同期に心配されまくっていた私はいなくなり、その代わりに「安産型だね(笑)」とか、
「なんでそんなに太ったの?」とか言われるようになった。
そんな言葉を投げかけておきながら、私の足を舐めたり、私の股を触ってくる人がいた。
すごくすごく屈辱的だった。

そして、この頃には勉強よりも食べ物を食べることに取り憑かれていた。

今までろくな栄養が入っていなかった、スカスカでペラペラな身体は、今までの反動と言わんばかりに甘いもの、脂っこいものを求めた。

私は痩せた身体が欲しかったから、それが死ぬほど辛かった。比喩じゃなく本当に。
毎日泣きながら食べ物を詰め込んでいた。
手も顔もパンパンになり、尿量もおかしくなり、見た目も変わり大好きだったお洋服は合わなくなった。
でもそんなのお構いなしに私の身体は食べ物を取り込み続けていた。

大好きで、大好きで、私の宝物だった基礎系の勉強たちで忘れて食べ続けた。

成績も下がった。

そして、「主席なのに1番じゃないのね。」
「2番の子、応援してたから嬉しい!」
などと陰で言われるようになった。

私はたまたま首席で入っただけでみんなと何も変わらないの、みんなと同じなの。なのにどうして、と見違えるほどブクブクに太った身体で思った。

この頃にはもう、痩せた身体も、輝かしい成績も無くなっていた。
大学を辞めたくて仕方がなかった。
毎日泣いていた。

そんな私を見て母は
「毎日毎日ないて、悲劇のヒロインぶるなよ。」
「デブ。汚い。足が汚い。腹が汚い。」
などと言った。

もう悔しくて悔しくて仕方がなかった。
本気で死んでしまいたいと思うようになった。
過食もひどくなるばかりで、深夜に冷蔵庫の前の床で冷凍食品を凍ったまま貪る日が続いた。

そんな生活を続けていたある日、私は完全に起き上がれなくなった。5日間お風呂にも入れなくなった。
起きている時間は、ネットでずっと死に方を調べていた。


その後、大学の近くから少し離れた街に引っ越し環境が変わり徐々にメンタルが回復し、過食も落ち着き、体型も元の体型に近づいた。

ただ身体におかしな変化が起こった。
全く眠れなくなった。
授業があるのに毎日朝日が顔を出すのを見ていた記憶がある。
それに無性にイライラするようになった。
森羅万象ありとあらゆるものに怒りをぶつけて呪っていた。(友達は除く)
勉強にも集中できなくなった。
そしてお金遣いも荒くなった。

私は多分双極性障害ではないが、双極性障害のような症状が出た。
ただ、心だけは明るかったので、健やかに過ごせた。

そんな大学3年の最初の定期試験で、勉強に集中できなかった私は過去最低の成績をとった。

この頃の私は成績や体重などと言った数字として可視化できる物事に自分の価値を見出していたため、本当に落ち込んだ。

自分の価値は地の果てに堕ちた、と思った。

少し前まで明るく楽しく生活していた自分がバカみたいだと思った。後悔でいっぱいだった。

私には明るく楽しく過ごす資格などない、と思い始めた。

それど同時に激しい鬱がやってきて、家にいる時は泣きながら真っ暗なクローゼットですごし、外に出ると動悸がして立てなくなりうずくまるようになった。
ただ、大学の友達には心配をかけたくなかったため、大学では最後の力をふり絞り明るく振る舞っていた。
家に帰った瞬間、玄関で倒れそのままずっと泣く。
そんな生活を続けていた。

もう勉強どころではない。
そして治っていた過食も復活し、また太り出した。

勉強もできないデブ、そんな私に価値はないと当時は本当に思っていた。
死んだほうがマシだと。

そういう思考が消えなくなってしまったため、ここで初めて精神科を受診した。

当時の診断はうつ病だった。(後で色々変わったり戻ったりややこしくなるので、診断名を出すのはここだけにしておきます。)(これが最終的な診断ではないです。)

抗うつ薬と抗不安薬を飲み、世界に色を取り戻しながら頑張っていこうと思ったが、心はもう疲れきっていたので4年生に進級すると同時に休学をすることにした。

休学をしても私の心は治らなかった。
ずっとずっと自分は価値のない人間であるという事実が頭から離れなかった。

それに今まで親から受けてきた暴力(書いていないが身体的虐待が激しかった。)、暴言が蘇って苦しんだり、自尊心を失ったことの悔しさで涙を流す日々だった。

そんな鬱屈とした日々に終止符を打つために、Amazonで880円の縄を買い、ありがちな結び目をつくり首を吊ったが、私にはテクニックがなかったため失敗した。
あれ、意外と難しいです。

そのあとは、実習で致死量を習ったことがあり、手に入りやすいカフェインで死ぬことにした。
のだが、死ねず、生きるよりもしんどい経験をしたことで、生きることを決意した。

その後に入った閉鎖病棟では、いろんな人に出会い、帰れる場所があること、朝、目が覚めること、話せること、そして学べることが当たり前じゃないということに気がついた。

閉鎖病棟を出てすぐに私は復学した。
復学しないで終わるのは嫌だと思ったことと、それから、やっぱり帰れる場所があることがいかに素晴らしいことかということがわかったから。

復学してからの1年間は本当に幸せだった。
報われなかったことが報われたり、堕ちた成績も息を吹き返し、元通りになったし、体型は元通りにならなかったけど自分の納得のいく形になったし、友達にも恵まれたし、なにより下の学年の子たちは私が首席だということを知らなかったからとても過ごしやすかった。

下の学年の子に親しく接してもらえるたびに本気で嬉しくなった。

でもそんな日々は長くは続かなかった。
やっぱりやりたくない勉強をするのは凄まじい精神的苦痛が伴うようで、2023年1月1日、2日に私は大学へ行く途中にあるマンションから飛び降りようとしていた。

飛び降りようとはしたのだが、一年前のカフェインの時に悟った「やらかしてしまう前にやることがある」ということを思い出し、大学を辞める決意をした。

ここまでが私の5年間です。(休学しているので大学に通ったのは、4年間)

もう本当に無駄で徒労でしかなかったし、本当に本当にたくさんのものを失ったしたくさんの傷ができた。
人生に無駄はないというけれどやっぱりこの4年間が夢ならばどんなに良かったことだろうと私は日々思う。

そして私が伝えたいことは、人生長いのだからまずは自分がやりたいことからやるべきだと思います。
自分の知的好奇心を満たせないことは、人生最大の不幸であると私は思うのです。

自分の気持ちに嘘をつかないでまっすぐに未来を見つめてほしいなぁと思います。
これを読んでくださった人にも、昔の私にも。


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