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わからないまま

私はどうやら春から新生活を始めたらしい。
それも自らの意志で。
はっきり言ってそれをしなくても生きていける状況だった。
仕事も夜職じゃなくて、正社員として働ける職場もあった。

そんな環境があったのに私はそれらに縋ることなく新たな道を切り開いていこうとしてる。

でも目標までの道のりは途方もない。
今やっていることが成功する可能性だってわからないけど、きっとそう高くはない。

でも私は全てを投げ出してでも新たなことに挑戦しようとしている。

世間はこれを「いいこと」だと認識するらしい。
私もそう思う。

でも私の心の中にはいつも、あの日の無理心中で死にきれなかった私が、自殺で死にきれなかった私が、「キラキラした未来なんてないよ」と話しかけてくる。

正しい。生き延びた私には緩急のある鬱が生活にのさばっている状態でとてもじゃないけど幸せとは言えない。

たまに幸せな日とかあるけれど、総合的に見たら幸せじゃないし人生はずっとマイナスだ。

虐待、離婚、精神疾患、3度の自殺企図、うつ、心的外傷、大学中退、医療保護入院などなどマイナス要素を集めたらキリがないし、逆にプラスの要素は何だろう、実家にお金があるということだけかな。それ以外は特にない。

もちろんお金があるのはいいことだが別に私のお金ではないし、それが私の人生を救ってくれるかと言えばそうではない。

薬のような先人たちの叡智の結晶であるまるくて白い粒を飲んでもどうやら鬱は散らせないらしいし、もうどうしようもない。

やるせない。やるせないけど生きることしか許されていない。死ねない。死ぬのも面倒臭い。死ぬ気力もない。ロープを注文する気力も、海外から薬を取り寄せる気力も、薬局を回る気力も、薬をPTPシートからたくさん取り出す気力もない。
飛び降りる気力もないが、柵を越えるだけで死ねる環境にある今、それを選んでしまいそうになる。
けれどその選択は現実的ではないし良くない。
わかっている。

わかっているけれど、生きる選択も現実的ではない。どうすればいいんだろう。どうすればよかったのだろう、キラキラした未来はきっとない、それなのに生きて何になるんだろう、何で人生は終わらないんだろう、どうして神は、脳は私に意識を与えたのだろう、苦しいよ。

目に映るものも、目に何かが映るという事実も、
街があり、空があり、植物や動物がいて、他人がいて、私がいる。人生がある。そういうことがしんどくてたまらない。

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