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どうせなら、美しい死を。

心が重い。
重く澱んだ空気の中、何も知らない猫たちが空気を読まず、走ったり飛んだりしている。

この人生で何度この景色を目にしただろう、
エアコンの音と、それから外の車の音、それと何かあったらすぐに感情が昂ってしまい、泣いてしまう母親の泣き声の混じった言語が聞こえる部屋で、床の一点を見つめる私、ブラウンのカーペットだけで彩られる網膜、暗くて茶色い景色。

絶望の匂いしかしない部屋で、なんとか現実に"居"なきゃ、ちゃんと自分を保っていなきゃいけなくて、必死に息をする。

何度この経験をしただろう、もう数えきれないくらいある。

それは、だいぶ前に観た映画『閉鎖病棟』の冒頭の家のシーンにそっくりで、あぁ、私の家庭を、私を客観的に観れて、誰もが観れる媒体で、余所者が入れない密室である"家"で起こった出来事を認知してもらえるかもしれない喜びを感じた。


他の家はどうなんだろう。
私を支援する人は、私の主治医は、友達はこの景色を見たことがあるのかな。
その景色は虐待をされた人にしか、親との関係が悪い人にしかわからない。

その時思ったことも、私の気持ちも、それらがあとに及ぼす影響も、あの空間を知らなきゃわからない。百聞は一見に如かずという言葉があるけどまさにその通り。

何も知らないで私をこの世に留めておくように諭す残酷さ。

今日もまたあの景色を見て、もうこの世にいない方がいいんだろうなって確信を持ってしまった。
私という存在がなければ、こんな景色もそもそも生まれなかったはずだと思う。

相手だってその景色を誕生させた原因だけど、でも他人は変えられないし、なら自分が変わって、というかいなくなった方がいいなと本当に思う。
お互いの幸せのために。


「あなたが何を考えているのかわからない。」

人生で何度この言葉を言われたか。
そりゃあそう。私は私の気持ちを他人に話さないし。話しても仕方がないものだって思ってる。

私の今の気持ちは、今の行動は私の23年間の集約みたいなもので、23年間の挫折とか悲しみとか喜びとか偏見を全て含んだものなので、説明しようとすると私は23年分を話すしかないので、それはすごくすごく面倒なので、私はいつも黙っている。

23年分を話して他人に理解してもらうより、死んじゃった方が遥かに楽で。


私はずっと死に取り憑かれているし呪われていると思う。

こんな私を見て、「あなたは賢いし、文章を書くのだって上手いし、友達だって多いし、ダンスだって上手いし、たくさんできることがあるんだから死ぬ意味がないよ。」

って何度も言われてきた。
その言葉は私の心に風穴を開けることもなく、音もなく通り過ぎてゆく。

私は全然賢くない。
華々しい経歴が私の賢さを裏付けているのなら、賢いと言われても納得するだろうが、私はそんな裏付けもなく、自分の賢さの根拠も感じることなく、というかむしろ、親や教員に「なんでこんなこともできないんだ。」と言われ続けてきたので、賢いよとかいう謎の励ましを肯定的に捉えることはできないのである。というかむしろ適当に励ましていると思うほどである。


文章を書くのだって上手いしって言われたが、別にその人が私のnoteやツイッター、感想文を読んだわけでもない、ただ、なんとなく何処かから聞いた「あいつなんか文章かくの上手いらしいよ〜」的な噂をもとに言っているにすぎない。

第一私は文章を書くのが上手くない。
自分の書いた文章は下手くそすぎて読み返す気にならないし、他人の文章を見て、わぁすごいな、どうしたらこんな風な表現が思いつくのだろうと思う日々だ。マジで。
てか仮に他人より多少文章を書くのがうまかったってなんのメリットもない。
文豪と呼ばれる他人みたいに上手ければ自分に可能性を感じたりすることができただろうが、私には彼等のような才能はないのでなんの可能性も見出すことはできない。

だから、そんな風に励まされたって、だから何?くらいにしか思えないのだ。


友達だって多いかもしれないけれど、それは確かにいいことだと思うけれど、最近私の自殺企図で他人を間接的に傷つけてしまうことが増えた。

私が友達になんとなく無条件に"生きてほしい"と思っているのと同様、友達も私に"生きてほしい"と思っているのはわかっている、もう痛いほどに。
だから私が死のうとして失敗するたびに、友達を色々複雑な気持ちにさせてしまうのが死ぬほど理解できるし、本当に申し訳なく思っている。
私は大切な私の友達を振り回したくないので、私の気持ちを打ち明けることはしないし、今からしのうと思っても何も言わない。ありがとうとは思うけど、伝えない。
死に損なっても、死んでも何も言わないで死ぬより絶対に心を掻き乱すのがわかっているので。

だからいつも何も言わずに自殺企図をしては失敗して、何食わぬ顔で日常に戻るのだが、それをするたびに私の友達は傷付くのだろう、と容易に想像ができる。

だから最近は私と関わらない方が幸せだろうなって思って、距離を置いた方が友達は幸せなんだろうなぁと思って、遠くから友達を見つめようと決意したところだ。
大切な友達なので私なんかを忘れて幸せになって欲しい。
私より精神の安定した、社会的な人と付き合った方が絶対にいいので。

あとダンスができることを褒められることが多い。確かに私は生きてきたほとんどの年数をダンスに捧げたし、実際踊ることは大好きで、叶うなら週5で踊りたいし2週間に1回は舞台に立ちたいと思う。
でもじゃあダンスを生業にできるかといえばそうではなく、私は人から与えられたものをある程度形にするのが得意なだけで、自分で無から有を生み出すことは得意ではない。

簡単にいうと、先生に教えられた振り付けをちゃんとこなし自分なりにアレンジしつつ、求められた世界観に沿った踊りをすることはできるが、逆に、ダンサーと呼ばれる人たちみたいに、与えられたものをこなしつつ、自分で振り付けを作ったりフォーメーションを考えだしたり、それを他人に教えたりすることはできないのだ。

だからダンサーとして花が咲くこともない。
し、私はただただ趣味で踊っているだけなので花を咲かすつもりもない。
だからダンスが出来て良かったなんてことは全くないのである。

だからダンスできてすごいとか言われるたびに、何が?と思ってしまう。

ここまで読めばわかると思うが私はめちゃくちゃ卑屈である。でも生まれた時から卑屈だったのではなく、今まで他人に言われた言葉とか今まで感じたこととかの影響を受けてめちゃくちゃ卑屈になった。

医者や看護師さんはそれを眼鏡と言った。
あなたのかけている眼鏡が物事をそう捉えてしまうだけで事実はそうではない、と。

確かに一理あるかもしれないが、じゃあのそ眼鏡を消失させるくらい、事実をまっすぐ認識することができるくらい誰かが私を治してくれるかといえばそうではないし、自分でもやれることを沢山やったが私に染みついた眼鏡は私から離れることはない。

みんな無責任に適当な励ましをするだけで、結局は他人事で、どうでもいい。

ならば私もあなたの気持ちを他人事だと扱っても良くない???と思う。

私に「死んでほしくない」とかいいつつ、この世にいる手助けや、連絡さえもろくにせず他人事の人の願望をどうして私が叶える必要があるのか。

みんな他人事。
私からしたらあなたの意見は他人事なので私は私のやりたいようにするし、だから早めに消えます、此処から。


死ぬ時の恐怖って無いの知ってる?
私は薬を沢山飲んで意識がなくなる最後の瞬間、恐怖も、悲しみも喜びも音も何もなく、ただただ無で、そして永遠の無へと向かっているだけということを知っている。

死を実行する前の恐怖はあるかもしれないが、死の道に足を踏み入れ、最後の"この世"が網膜に映し出される瞬間、そこに感情はないし、自分が何をしたのかもわからない。

私はその最後に、ゆっくりと目を閉じる穏やかな瞬間が人生で1番好きです。
死ぬ時はきっとどんな死に方をしても穏やかだと思う。

だから生き残った時ものすごい地獄が待っているが、まあそれは別の話。


ここまで私は色々つらつらと語ってきたが、最後に言いたいのは私はいい加減覚悟を決めるべきだと思うしもう自死という未来からは逃れられないのだと思う。
ただまあ別に今日明日明後日に死ぬつもりはなく、でもまあきっと来年は迎えられないだろうなぁと思っている。
その時は匂わせないし、きっと美しく無い死に方で死ぬと思う。
どうせなら美しく死にたいがそんな余裕もないので。
だから誰か私の代わりに、美しい死を成し遂げてください。

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