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#8 「羊」の道に迷い込む

三里塚に引っ越してまもない頃、私の頭の中には、下総御料牧場の歴史を調べるという目的はあっても、日本の牧羊史の取材をするという考えはまだありませんでした。
まずは牧場の全容を知るところから始めよう、と歩き始めたわけです。

ところが、調べ始めてまもなく、宮内庁書陵部の宮内公文書館を中心に未調査の牧場関連資料が多く存在することが分かり、牧場全体の歴史を捉えるには相当の時間を要することがはっきりしました。
当時の私の計画では、せいぜい2〜3年で三里塚での取材を終えるつもりだったので、いくらか対象を絞り込む必要が出てきました。
絞り込み方として、時代で区切るか、事業や家畜で区切るか。
私は家畜を限定する道を選ぶことにしました。

下総の牧場で最も有名な家畜といえば、「羊」ではなく、「馬」です。
特に昭和期の下総では、優秀なサラブレッドの種馬を海外から輸入し、その子孫の競りや種牡馬の種付けで収入を得ていました。
その血統は戦前から戦後の競走馬に大きな影響を与えており、競馬の歴史を調べれば必ず出てきます。
そうした背景から、本来なら「馬」をテーマに据えるのが王道と思われたのですが、私はあえて「羊」を選びました。それはなぜか。

理由としては、私自身の性格的要素もありましたが、それ以上に客観的な判断材料として、牧場の起源が牧羊場であったという事実がありました。
特に、下総牧羊場の創設から閉場まで関わった御雇外国人アップジョーンズについて、これまでの研究者によって明らかになっていた部分が十分とは思えず、さらに深めていくことができる可能性、その必要性を感じていました。
ここでは述べませんが、国内外の資料を可能な限り調べてみた結果、従来言及されたことのなかったアップジョーンズの様々な側面を見つけることができました。
そして、下総牧羊場とアップジョーンズの足跡を調べた結果、明治以降、日本全体に広がっていった牧羊の歴史も知ることになったのです。

ところで、獣医学や畜産学が未発達だった明治初期の日本にあって、下総牧羊場では、羊の病気や牧草栽培など様々な困難に直面しました。
さらに、アップジョーンズの負傷、大久保利通の暗殺といった不幸が重なったことで、計画の半ばでの事業終了を余儀なくされました。
その結果、「事業は失敗に終わった」、「牧羊業は日本ではうまくいかない」というレッテルが貼られることになりました。

下総牧羊場の事業は、当初の計画からすると確かに失敗ではありました。
しかし、下総牧羊場の閉鎖後も、下総を中心として牧羊普及の動きは続けられていました。
そして、本当に少しずつではありますが、下総の流れを受け、志を持った人々の努力によって日本の所々で牧羊業が興り、地道に受け継がれていったのです。

さて話を戻すと、私が三里塚での取材テーマに「羊」を選んだもう一つに、この「志を持った人々」の存在がありました。
彼らは、この舶来の動物を繁殖させ、羊毛の国内生産に貢献することに本気で取り組みました。
その姿は、「なんでそこまで?!」と疑問に思わずにはいられない、無謀なほどの真摯さであり、西洋諸国に追いつこうと努力する当時の日本にあって、どこまでも理想を追い求めたものと言えました。
その中で、「羊の仙人」と呼ばれた谷邨一佐(たにむら・いっさ)は、私が最も惹かれた人物の一人であり、「羊」の道に私を誘い込んだ張本人だったと言えます。
次回は、この谷邨一佐について書いてみます。

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