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#9 誰も知らない「羊の仙人」

前回の終わりに、谷邨一佐という人物に触れました。谷邨は、戦後の新聞などで「羊の仙人」と呼ばれた人でしたが、残念ながら現在ではすっかり忘れられ、顧みられることはほとんどありません。しかし、私にとってこの人の人生は非常に興味深く、いつか伝記を書きたいとさえ思っています。

既存の書物などの中に見られる谷邨一佐への言及は、北海道開拓使に関する著作『奎普竜将軍:附・グラント大統領来朝の真相』や、明治時代の文豪・尾崎紅葉や山田美妙との関係、伊藤整や井伏鱒二による記述、明治期に洋行した日本人の記録、といった文脈で語られますが、いずれも羊とは関係ありません。公共機関で谷邨の名前が見られるのは、東京都立図書館の特別買上文庫にある「谷邨一佐旧蔵資料」くらいでしょう。

谷邨一佐の生涯をもっともよく表したのは、英学研究者の手塚竜麿による記事『国際人・谷邨一佐の修学と事業』です。これは、手塚が生前の谷邨からヒアリングした内容をまとめたもので、谷邨が「羊の仙人」と呼ばれた理由がちゃんと書かれています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/1984/16/1984_16_27/_pdf

谷邨は大正時代、那須山麓の高久御料地に牧羊・牧草の実験場「草羊圃」を開きました。これは、明治時代に動物学者の箕作佳吉から日本での牧羊の必要性を諭された結果、一念発起してアメリカに留学し、牧羊・牧草の研究を重ねてから創設したもので、大正7年の緬羊百万頭増殖計画の前夜に、一民間人が独力で牧羊を普及させようとした稀有なケースでした。この先駆的な取り組みが後年の語り草となって「羊の仙人」と呼ばれたのです。

ちなみに私は、谷邨の「草羊圃」がどの辺りにあったのかをずっと調べているのですが、未だに正確な場所を特定できていません(だいたいの見当はついていますが…)。「草羊圃」の立地は御料地でしたから、昭和に入って閉鎖・返却を余儀なくされ、戦後の社会変化の中で記憶が留められることもないまま消えていったものと思われます。

谷邨について調べ始めた最初の頃は、この「草羊圃」が本当に実在したものなのか半信半疑でした。しかし、中央畜産会が戦前に発行していた『畜産』の中に、「草羊圃」の開場式の記事や、ゲストとして訪れたアメリカ人学者によるスピーチ内容の記事が残されており、式典の写真も掲載されているのに気付いたことで、ようやく信じるに至りました。また、『奎普竜将軍』の巻頭には、「草羊圃」に建てられた「羊魂碑」(羊塚)の写真が載っており、これも本当にあったものだと分かったので、万が一、今も碑が残っていないかとずっと気がかりでいます。もちろん、約1世紀前の一時期だけ存在した牧場の碑が、今もその場所に残っている可能性は限りなく低いのですが。

谷邨の母校である青山学院大学(当時は耕教学舎)には、谷邨が残した様々な資料が手塚竜麿によって寄贈されています。その資料の中には、「草羊圃」の名前が刻印された厚手の原稿用紙も残っています。これを見たとき、私はいつか谷邨の人生を書き残したいと思いました。今年出版予定の「羊本」の本文では、谷邨のことはほとんど触れていませんが、注釈の中では、谷邨が記した未完成の自伝をはじめとする著作に複数箇所で言及しています。いつか私の手で、未完成の自伝を仕上げてあげることができたらと思います。

それから、羊の話で言えば、谷邨一佐のことを最晩年まで慕っていた一人に、日本緬羊協会の初代会長・岸良一がいました。未完成の自伝を仕上げるならば、谷邨と岸の人生を交互に編んだものになるでしょう。

谷邨一佐は生涯妻帯せず、子孫を残すこともなく、晩年は神奈川県大和市の老人ホームに入居して静かに他界しました。東京都多摩霊園のキリスト教関係の墓地に眠っています。

昨年末に訪れた谷邨一佐のお墓にて。美しい月を眺めつつ…

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