「少子化対策」ではケア提供体制が崩壊する未来が現実化する

筒井淳也『未婚と少子化』。少子化対策を巡る誤解と短絡を正す丁寧な議論。子育て支援、両立支援、若年雇用対策等々は本来の政策目的に集中すべきで、少子化対策の目的は外すべき。出生率等の少子化関連指標はこれらの成果を測る代理指標の一つになり得ても目標にはならない。

筒井氏は少子化対策という問題の立て方は否定せず、未婚化・晩婚化対策含む若年層の雇用・生活の安定を重視しているが、私は疑問。若年雇用・生活安定策もそれ自体の目的として重要だが、その〈結果として〉結婚の増加や早期化が〈伴う〉かもしれないということに過ぎない。

因果関係を逆にし、エビデンスを誤用するのは禁物。少子化の要因として未婚化・晩婚化を特定し、その要因として若年層の雇用や生活の問題や「出会い」の問題を特定することも妥当ではあるが、少子化対策を目的とし、目標を設定して、これらに係る施策を行い効果測定をすることは正しく見えて顛倒。

そうではなく、これらの施策も考慮に入れて人口と構成の予測をし、それに適応する戦略、政策を立てるのが本筋。特に、医療や介護に係る労働需要をどう充足するか、医療・介護に係る支出と負担の構造を両分野に閉じない形でどう展望し制度を変えていくか。少子化は危機、国難と入るからおかしくなる。

これは、成長戦略という問題の立て方、目的・目標の立て方はおかしいという話も同じ。成長戦略の効果を予測に組み込み、実現不可能な将来像を前提に制度、戦略、政策を考えるから、「成長戦略が足りない」と言い続け様々な制度の綻びを拡大させてきたのがこの20年余り。

人口だけでなく、最近話題になったGDPや1人当たりGDPもそうだが、「国力」の問題と捉えたままでは誤る。問題は国民1人1人、というよりもますます「日本という行政区域」の住民1人1人の福利(ウェルビーイング)をどう保障し充実させるかという視点から制度、政策を設計しなければ絶望的な状況になる。

日本では人的制約から将来的には生産物に関しては輸入依存度を高めていかざるを得ないだろう。販売・接客なども機械化・自動化が進まざるを得ない。今は価格に内部化されている人的サービスの付加価値は高価なものになっていくかもしれない。

物流も「2024年問題」は一過性のものではなく労働強化を回避しながら効率化を追求し続けないと処理能力が常に追いつかない事態に陥りかねないだろう。一方で、ますます労働需要が高まるのがケアワークだ。医療、介護、介助はもちろん保育、家事の領域を含めて。

労働供給の面から考えても、フルタイムの夫婦共働きや高齢者雇用は拡大する。その分、介護、介助、保育、家事の外部化もさらに拡大する。しかし、医療を含め機械化・自動化・効率化で吸収はできないし、さもなくばケアの質、ひいては生活、人生の質の低下を招き、ケア教授の格差も拡大する。

ケアワークの労働力をどう確保するかはあっという間に深刻な問題となる。他業種からの労働移動や女性・高齢者の労働参加増で解決するような規模感ではない。今は製造業や農業で主に論じられる「移民」の議論は避けて通れない。しかし、注意が必要だ。「日本という行政区域」といった意味もここにある。

足りない人手を確保する調整弁のように移民を捉えることは人権上も、社会としてのあり方の上でも問題だ。「住民1人1人の福利」ということは当然に移民にも対等に適用されるべきものだ。移民だから、外国人だから賃金が安い、権利が制限されるといったことはあってはならない。

同時に、今の看護、介護、介助、保育、家事における賃金をはじめとする労働条件や労働環境をそのままに、労働需要を満たすために外国人・移民に頼る方向で進むことは問題だ。ケア=女性役割という意識、認識の下で無価値・低価値とみなされ、無償あるいは低賃金で担われ、押し付けられてきたからだ。

「ケア」が当然のこと、自明のこととして女性に担われ、そのことすら不可視化され、家庭内、地域内では評価されず又はふさわしい評価を受けず、市場においても賃金・価格面でも社会的地位の面でも過小評価を受ける。この状況の下で、移民・外国人労働者を入れることは幾重にも差別になり搾取になる。

実際、世界を見渡せば、越境するケア労働者の多数は女性であり、暴力や搾取に晒されることは少なくない。日本でも、望まぬ妊娠やその結果としての痛ましい事件が技能実習生で起こっている。単に現状の延長線上で海外からのケア労働者の受け入れを進めることはできない。

今の少子化対策という問題の立て方では、ケア労働者の不足という問題はなかなか真正面から論じられないし、どちらかというと介護分野の問題として孤立して論じられがちだ。そして、道具的な視点で、外国人あるいは移民を入れるかという話に流れがちだ。

そうすると、外国人や女性の人権に立脚する立場からは当然反対論が出るし、ナショナリズムや外国人差別の意識を持つ側からは「介護は日本人でなければ」「日本語の微妙なニュアンスが」といった先入観ベースの反対論が出る。この構図を脱却する議論の立て方が必要だ。

切り取って読まれると非常に誤解をされてしまうような議論だが、視点を大きく変えないと、不毛な論戦、対立に終始したまま、ケア提供体制が崩壊する未来があっという間に現実化してしまうということになるのではないか。

別の観点。生産物に関しては日本の輸入依存度は高まらざるを得ないと書いた。工業製品だけでなく農業生産物も人的制約で自給率を高めるどころか輸入を増やさざるを得なくなるのではないか。機械化・自動化を進めたとしてもその機械の製造や保守を考えると国内完結のハードルはますます高まるだろう。

私は食料自給率の向上、食糧安全保障の視点は重要だし、環境保全等農業の多面的機能は重視すべきだと考えてきた。しかし、将来のある時点で人的に行き詰まるのではないか。もちろん環境保全もままならなくなる事態は回避すべきで、どうシフトしていくのかの戦略が必要になってくるのではないか。

輸入依存度が高まる、殊に食料供給をより海外に依存する想定では、安定した国際関係、国際環境は不可欠な条件である。先に述べた労働移動の観点でもそうだ。国際関係を数十年先まで見通すことは難しいが、生産面でも労働供給面でもより海外への依存が高まる日本の将来像から目を背けてはならない。

日本経済と日本企業の競争力を高める、国内生産拡大、(中国などとの)国家間競争と友好国との連携強化、経済安全保障……現在進められている戦略・政策は合理的に見えるかもしれないが、果たして中長期的に持続可能なのか、中長期的視点では合理的なのか、以上の検討に照らせば疑問は大きい。

戦争、紛争、対立で世界は混沌としているし、その解決と対処が優先順位だ。しかし、その時に上で示したような日本の現実的な将来像ではなく、「国力」ベースの理想像あるいは楽観的な予測を前提に置いて臨むことは、大きな選択の誤りにつながりかねない。

パンデミックやウクライナ戦争、イスラエル・ハマスの戦争などで改めて、サプライチェーンや物流網はじめいかに複雑に相互依存しているか、それがいかに脆弱かを我々は突き付けられたが、このままでは日本を含む先進国、少子高齢化が進む国々はますますその脆さに依存することになる。

米国もいくら中国と政治的に対立しても経済的に断絶することはできないし、生産地やサプライチェーンをいかに見直そうともそれは不可能であることは現実としてのしかかっている。国際政治的な意味での現実主義と、経済的、社会的な意味での現実主義が矛盾していると言える。

人口構造の観点で見れば中国も、現体制が目指す「強国」の理想像に反して、海外への依存を排した将来像は描き得ない。そう考えると、競争、対立する主要国はそれぞれ自国の現実的な将来像を否認あるいは誤認していると言っていいのかもしれない。

気候危機にすら国際社会として本当に対処ができるのかおぼつかないのに、と考えたら暗くなってしまうが…。


「医療維新」全文を読んだが、やはり基本思想はネオリベラリズムで、公的責任・公的支出を縮減し民営化・市場競争化の傾きを強めていくもの。それを世代間問題にすり替えて訴求しようというものだ。一見再分配機能の強化に目配りしているようでいて再分配の領域を限定していく。

高齢化医療制度への支援金の税財源化、子ども医療の無償化などは外形的には良いことに見える。しかし、そこに投じられる公費の効率化、節約が前提にあるから、医療の質の低下や医療へのアクセスの不平等が伴うことになる。維新が提案する給付付き税額控除も再分配機能強化以上に公的責任の縮減になる。

根本的には、高齢化が進む中で「医療費がお荷物」との前提が誤り。クラウディングアウトを避ける意味でも無駄、非効率は是正する必要はあるが、一般的、抽象的な、原理的な効率主義を持ち込むことは患者にも医療機関、関連産業にも排除や特に労働者や中小機関・企業の余力剥奪・窮乏化のリスクとなる。

高齢化に伴い介護・医療費が増える、介護・医療分野が拡大することは、産業構造的に、国民経済計算的に捉えれば、「お荷物」ではなく需要・供給の「シフト」であって、問題は分配・再分配を適切に利かせていくことと、増大する労働需要への対応。

むしろ問題は、介護・医療分野は労働集約的で、技術を有効に活用することは当然としても安易、拙速な技術依存はケアの質を低め、ひいては生活の質を低めること。賃金と教育・訓練費への資源配分を高めることが労働需要を満たすことにもその質の向上にもつながる。

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