同じものを見るとは何か? ー子育て、アート教育から組織づくりまで
この素朴な問いに、いつもぼくの探索は帰結する。
ぼくはいまファシリテーター/アートエデュケーターとして活動している。株式会社MIMIGURIで組織づくりのコンサルティングを主要な仕事としながら、個人では美術館や福祉施設でのアート教育事業の開発支援をしている。
アート教育事業をはじめたキャリアの最初期である2000年代後半から、組織づくりのコンサルティングをするようになるまで、15年以上にわたって考え続けてきたことが、シンプルにこの問いに還元できることに気がついたのはつい最近のことだ。
経験も感覚のあり方も嗜好性も異なる人同士が、同じものを見ようとするプロセスは美しい奇跡のようなものだと思っている。
図1のように、二人の間に仕切りがあったとしても、同じものを見ることはできる。しかし、それでは相手がどのようにものを見ているかがわからない。
図2のように、相手が見ているようにものを見る、あるいは自分が見ているようにものを見てもらう。これを同時に成り立たせることができれば、豊かな関係のなかで出来事が生まれ、よいものづくりが進む。そのような出来事の中にぼくはいたいし、そのような出来事をつくりたい。感情経験記憶思考嗜好が入り混じった相手の景色を見ると同時に、自分の景色を見てもらう。これがこの文章でいう「同じものを見る」ということだ。
悲しいことに、異なる二者が同じものを見られていないがゆえに、起きている分断は無数にある。教師と子どもが、親と子が、上司と部下が、エンジニアとマーケターが、A国とB国が、同じものを見ようとしないがゆえに生まれてしまう関係性や認識の歪みを「適応課題」と呼ぶ。「同じものを見ることは可能か?」という問いは、こうした適応課題を解消に導くきっかけにもなるかもしれない。
しかし、こうした出来事を課題視し、解決のために何かの手法をもちいるような仕方では、ぼくはこれまで探究をしていなかった。何より、異なる二者が同じものをみようとするときに生まれる触発に魅了されていたのだ。同じものを見ようとするプロセスの中で「そんなふうに世界を見ていたのか」「そうだったらこんなことをすると面白いのでは」と、創発が起きていく。異なる人々がインスピレーションの連鎖を生み出し始めるとき、ぼくの心のなかに音楽が鳴り響き、身体がバウンスし始める。頭を掻きむしりたくなるような触発の興奮の渦のなかに、いつ何時でも浸っていたいという動機で、ぼくは探究を続けてきた。
少しだけ自分のキャリアを振り返ってみたい。
2000年代後半に、ぼくは児童館という子どもの居場所でアーティストを招くかたちでワークショップをはじめた。アーティストと、そこに集まる小学生や中高生が同じものを見て、つくることができるのか。子どもが見ている世界をアーティストが見た時、そしてアーティストが見ている世界を子どもが見た時、これまでにない触発から新たな作品の可能性が開かれるのではないか。そう感じてこの場を作り続けてきた。しかし、様々なアーティストとの経験をしたのち、事業継続が経済的かつ組織的に立ち行かなくなり、クローズしてしまった。
そこから都心の歴史ある百貨店で幼児教育事業の立ち上げに関わった。赤ちゃん向けのワークショップスペースの企画運営を行った。ここでも近しいことに取り組んでいた。つまり、赤ちゃんが見ている世界を親が見た時、関わり方に新たなひらめきが起こるのではないかということ。同時に、私たち遊び場の開発者がどのような眼差しで世界を見ているのかを赤ちゃんたちに感じてもらえた時、かれらのなかにひらめきがうまれるのではないかということ。そこそこに好評をいただいていたものの、会社の都合もあり事業継続は困難になった。
いずれも、感動や興奮もあったが、挫折や後悔も含む、いまだに語るときに後ろ髪を引かれる経験である。やろうとしたのは、児童館の子どもとアーティストは、もしくは赤ちゃんと大人は、お互いの景色を知り、同じものを見ることは可能なのか?という探究だった。
その後、企業を中心とする組織づくりに軸足を移していく。ワークショップデザインの経験を活かした研修、組織開発のプロジェクトオーナー、チームのマネジメント、自社の全社組織開発の場づくりをこの四年で経験してきた。組織の中にも多様な経験や関心や専門性がある。それぞれ違うメガネをかけた複数の人間同士が、共通の目的や成果物に向かって活動をするとき、Aさんが見ている世界を、Bさんが見ている世界を、Cさんが見ている世界を、お互いに感じ取りながら同じものを見ようとすることは可能なのか?という問いが、いつも立つのだ。それは拡大すれば、事業推進責任者と、組織づくりの責任者が同じものを見ることができるのか?あるいは顧客と作り手は同じものを見ることができるのか?といった問いにも置き換わっていく。
組織づくりに軸足を移していくプロセスに並行して、プライベートでは子育てが始まった。赤ちゃんに関わるワークショップの経験はあったものの、自分の子育てとなると全く問題は別だった。思うように取れない自分の時間、パートナーとすりあわない家事育児の方針や休日の過ごし方、そして無限に終わらない洗濯物、炊事、掃除、保育園などの手続き…。次第に、パートナーと子どもとのあいだですれ違いが続き、家庭が辛い場所になっていった。そのなかで、パートナーと二人で雑談をする時間を意識的につくるようにした。お互いが仕事で感じていること、生活の中で面白かったこと、読んだ本の話など、他愛もないおしゃべりをするなかで、相手が見ている景色がみえてくる。相手にも、自分の景色を見てもらうことができる。そうすることで、論理的に家事や育児の方法をすりあわせたりするだけでない仕方で、「ああそう思っていたのか」「だったらこうしてみよう」といった小さなひらめきが湧いてくる。
振り返れば、異なる二者が同じものを見ることができるのか?そもそも可能なのか。どうすれば可能なのか。それを探究してきた15年だった。
教育、福祉、アート、ビジネス、そして家庭の現場で「自分とは違う人と、同じものを見ようとするプロセス」を歩み続けてきた。これは簡単ではない。しんどいときもある。しかし、同じものを見ようとするプロセスで、その波長が重なり合い、会話ややり取りのリズムがグルーヴするなかで、心がほぐれ、ひらめきが浮かび、ことの進みが変わっていくことがあるのだ。
同じものを見ようとするプロセスのなかで、ひらめきが生まれる。ひらめきが行動を喚起する。行動が景色を作り変える。そうして作り替えられた景色が、ケアを生む。同じものを見ようとすることは、お互いをケアすることである。
異なる人々が同じものを見ようとするプロセスの中で、無数のひらめきとともに深いケアが生まれていく場に、ぼくはいつだって立ち会っていたい。そうした場に出会える可能性を広げたい。だから、このテーマでしばらく文章を書き綴ってみる。
*本文中に提示した図は、浜田寿美男著『意味から言葉へ 物語の生まれるまえに』(ミネルヴァ書房)を参照して作成した
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(以下は、ぼくがこのテーマで本を書くとしたらという想定で目次として書き出したもの)
第1章の記事「見るとは何か」はこちら。
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