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他人に「ダメ出し」してしまう人へ ー新しいゲームの提案

こんにちは。ワークショップデザイナーの臼井です。

教育サービスをつくっていると、よく保護者の方にこんな質問をもらいます。

「よくないことはわかっているんですけど、子どもがやろうとしていることについ手出しをしちゃうんです。どうすればいいですか?」

これに対して「簡単なことです。手出しをしなければいいんです」と、言うは易く行うは難し。これって実は超難しいことですよね。

この話、よく仕事で話題にのぼるので、今日は「子どもに手出しすることをやめるのは難しい」ということについてのぼくの考えをまとめておきます。

なぜ手出しするのをやめるのが難しいかというと、大人が「生き方の指針」を変えなければならないからです。それを変えたうえで、目的と手段を確認し、それをちゃんと子どもに伝え、よく観察し、意見を聞き、自分も子どもの葛藤を共有し楽しむ。こんな成熟をもとめられるのです。

とはいえ、ぼくもコツをつかむまで5~6年かかりましたし、今も修行中ですが、コツをつかめばある程度できるようになる実感はあります。

今日はそのコツについて、ドラクエ的なゲームのメタファーを使いつつ書いてみます。5500字の長文です。4~5分ほど、お付き合いください。

目次
・なぜ「手出し」をしたくなるのか
・ストーリーメイキングを変える

キャラクターを操作できないゲーム
選べるのは態度と言葉
そもそもの目的から考え直す
あらためてプレイヤー(大人)がすべきこと
まとめ

なぜ「手出し」をしたくなるのか

子どもが履こうとしているクツをとりあげて履かせたり、子どもの工作を手伝っていたつもりがいつの間にか親がやっていたり、パズルやボードゲームをする子どもに「そうじゃないんじゃない?」と言ったり。親が子どもに「手出し」「口出し」「ダメ出し」をする風景はあたりまえによくみかけますよね。

手出し口出しをせずに子どもと関わる方法。これはとても難しい。どれくらい難しいことかというと、これまで無意識にもっていた「生き方の指針」を根底から覆すくらいです。どういうことか。

そもそも、なぜ人は「手出し」「口出し」ときに「ダメ出し」をしたくなるのでしょうか。そのヒントになる本があります。千野帽子さんの『人はなぜ物語を求めるのか』です。

この本は「ストーリーという思考枠組」について書かれた本です。人は「世界」や「私」をストーリー形式で認識しています。あんまり関係ないことでも即座に「因果関係でとらえてしまう」といいます。

たとえば、こんなできごとがあったとします。

Aさんが人気のラーメン屋の列に並んでいました。列の隙間にオジサンが割り込んできました。Aさんは怒り、おじさんの肩を叩いて注意しました。

ぼくたちはここですぐに、「オジサンが割り込んだ。だからAさんは怒った」というふうに因果関係を見出します。Aさんはオジサンに割り込みしてほしくなかったのです。

このように「怒る」という感情表現が生まれるとき、その背景には無根拠な「べき論」があると、千野帽子さんはいいます。

ラーメン屋の例で言えば「列に割り込んだから怒った」というと「あたりまえじゃない?」と思うかもしれません。ですが、つぶさに前後関係を見てみると、Aさんが持っている「べき論」が怒りの生み出す要因になっていたことがわかります。

Aさんは「人は行列の最後尾にきちんと並ぶべきである」という「べき論」を持っています。オジサンはそれに従わなかった。それが許せなくて怒った。このような「べき論」を持っている人はほかにも多くいるかもしれません。

このことは、多少おおげさに聞こえるかもしれませんが「人は私の欲するとおりに行動するべきである」という「コントロール幻想」によるものであると言えます。

たとえば「私の部下なのだから、私に仕事の報告を逐一するべきだ」とか、「夫婦(恋人)なのだから、私のふるまいから気持ちを察するべきだ」などにも当てはまります。部下に対して、恋人に対して、「私の欲するとおりに行動すべきだ」という幻想を持っている。

千野さんはこのことに対して、人は私の欲求を満たすために行動しているわけではないため、このようなコントロール幻想を「不適切な信念」であるといいます。

ちょっと回り道をしましたが、子どもに対する「手出し」「口出し」「ダメ出し」も、このコントロール幻想によるものだと解釈することができます。なぜ手出しをしたくなるのか。それは、子どもをコントロールできると思い込み、子どもは私の欲するとおりに行動すべきだ、という信念をもっているから。

ストーリーメイキングを変える

他人をコントロールできると思い込むことは、不適切な信念である。にもかかわらず、ぼくたちはこの不適切な信念に基づいて人がやっていることに手出しをする。

先ほどの「子どもが自分でクツを履こうとするのを、親が履かせてしまう」という例について考えてみると、その背景には「人はクツをスムーズに履くべきである」という「べき論」があったと言えます。

そのような「べき論」にもとづいたストーリーのなかに生きていると、それらができていない人に対して、できるように「コントロール」しようとしてしまう。だから手出し、口出し、ダメ出しをして、直させようとする。

ぼくたちは行動の指針となる「べき論」を持って行動しています。千野さんの本のなかではこのことを「ストーリーメイキング/生きる指針」と呼んでいます。

ぼくのストーリーメイキングは、たとえば「好きなことを仕事にするべきだ」「思いついたことをnoteに書き溜めて公開するべきだ」「夫は妻と協力して育児をするべきだ」という感じでしょうか。他にも色々ありますが、そうした指針に基づいて自分の人生を現在進行形で制作・編集しているといえます。

「子どもがやっていることに手出しするのをやめる」というのは、この生きる指針を変えるということです。これまで子どもに対して手出しすることが当たり前だった人生を変えるのは、並大抵のことではありません。もしかしたら自分の親や先生にも同じように扱われてきたために、無意識にそのような「ストーリーメイキング」を自分の人生に敷きこんでしまったのかもしれません。

「手出しするのをやめる」ためには、自分が今までつくりあげてきた「コントロール幻想」を捨て去り、新しい「ストーリーメイキング/生きる指針」を選ばなければなりません。それはとても不安でこわいことです。だから、手出し口出しを止めるというのは、大変なことなのです。

キャラクターを操作できないゲーム

「手出しするのをやめる」そのためには、今まで無意識に頼りにしていた「ストーリーメイキング/生きる指針」を捨て、新しいものを選択する必要がある。具体的にどうすればいいのか。

たとえば「ドラクエ」を想像してください。プレイヤーがキャラクターを操作して大魔王を倒すことを目指します。

それがもし

「キャラクターは操作できません」
「魔王を倒すことはゲームの目的ではありません」

と言われたら、混乱しますよね。「何が楽しいんだそのゲーム」と。

「手出しするのをやめましょう」と言われるのは、これと同じです。誤解を恐れずに言えば、子どもに「手出し」をしてしまうぼくたちは、子育てや教育というものを「キャラクター/子どもを操って育てるゲーム」のように考えている節があるといえます。だからこそ「操作はNG」「目的を考え直しなさい」と言われると、戸惑ってしまいます。

選べるのは態度と言葉

ドラクエで、魔王を倒すために冒険をしようと思ったら、キャラクターを操作できなくなってしまい、キャラクターは自立的に動き出すようになってしまった。しかもゲーム側からは「別に魔王を倒す必要はないですよ」と言われる。いったいどうやってプレイすればいいんだ。

操作はできないが、キャラクターは話を聞いてくれるとします。みなさんなら下のような状況のとき、どうしますか?

プレイヤー 「よし!いけ!」
キャラクター「花がたくさん、綺麗だな~」
魔王    「・・・」

さぁ、キャラクターを操作することはできません。キャラクターにどんな態度で、どんな言葉をかけますか?

パッと、3つの選択肢がでてきます。

叱る   → 「ちゃんと魔王を倒しなさい!」
褒める  → 「魔王を倒したらえらいよ~。宝物をあげるよ~」
手を出す → 「私が倒す!」

どれかを選ぼうとします。ですが、この選択肢はどれも「コントロール幻想」から抜け出せていません。なぜなら、叱ることも褒めることも、キャラクターをコントロールしようとしているからです。したがって「操作NG」というルールにひっかかってしまいます。「私が倒す!」は、ゲームの意味を崩壊させるほどトンチンカンなことを言っているように見えます。

これは、子どもが言うことを聞かないときにやってしまいがちなことです。

「言うことを聞きなさい!」    → お互いストレス
「言うことを聞いたらいい子だよ~」→ 褒められないと動かなくなる
「私がやる!」          → 学ばない

上記のような結果につながってしまうかもしれません。

そうはいっても、子育てをしていたら緊急時に使う必要が出てくるでしょう。ですから、この手段が全て絶対悪だとは思いません。ただし、デメリットがわかったうえで使っているほうがよいと、ぼくは思います。

そもそもの目的から考え直す

魔王を目の前に、キャラクターが野に咲く花に夢中になっている。キャラクターを操作することはできず、態度と言葉だけが選べる。そんなとき、どうするか。

現実の話に戻ります。保護者の方が「子どもがやっていることについ手出ししちゃうんですけど、どうしたらいいでしょうか?」と相談してきたとき、ぼくは「ご家庭の方針は?」と聞き返しています。

親が手出ししてでもそのことを達成させるという方針であれば、それでいいと思うわけです。でも大抵は「自分でできるようになってほしい」と返ってきます。ということは、目的は「自立」です。

ひきつづきゲームのたとえで考えてみます。

状況はこうです。


プレイヤー :キャラクターに魔王を倒させたいと思っている
キャラクター:花を見ている
魔王    :戸惑っている

これまでは、プレイヤーの目的のためにキャラクターをコントロールすることが指針となっていました。しかしキャラクターの「自立」が目的ならば、指針をかえなくてはなりません。

まず、ゲームの目的/勝利条件から考え直してみましょう。「魔王を倒さなくてもいい」と言われている。ただし、魔王が世界を滅ぼそうとしているのでどうにかして世界を救わなきゃいけない。そう考えてみると、このゲームの勝利条件は「魔王を倒す」ということではなく「キャラクターが自立して行動し、世界を救う」ということなんですよね。

魔王が世界を脅かしているとしても、自分で倒さずにめっちゃ強い人に頼むのも手です。魔王と仲良くなろうとするのもいいかもしれません。大好きな花の研究から、魔王との対話の道をさぐることもできるかもしれません。

さまざまな手段を検討し、選び、実行し、失敗したら別の方法をとる。このことをキャラクターが自立してやってくれるようになれば、世界は救われる(かもしれない)。

あらためてプレイヤー(大人)がすべきこと

ということは、プレイヤーがやるべきことは、キャラクターの自立を促すことです。なおかつ「世界を救う」という目的があることを教え、その目的を達成してほしいという気持ちを伝えることです。

手順としてはこうです。

1. 目的と手段を確認する。    

目的だと思っていた「魔王を倒す」というのは実は手段で、真の目的は「世界を救う」ということである、という前提を確認する。

2. キャラクターにちゃんと伝える。

キャラクターに、自分の目的、そしてこのゲームの目的、手段について伝える。

「君の自立を願っている。でも、魔王が世界を滅ぼそうとしている。だから君には世界を救ってほしいと思っている。そのために手段はいくつかある。選ぶのは君の自由だ!」

3. キャラクターをよく観察する

キャラクターのやっていること、何に興味関心をもっているかをよく観察する。

4. 意見を聞く。         
キャラクターに質問をする。

「花を見ているね。なぜ花を見ているの?花を見ていて何か気づいたことある?」

5. 自分も遊ぶ。

キャラクターの興味に共感する。

「私も君に影響されて花が好きになった。花について調べてみたよ。」

6. アイメッセージ。       
一般論風に「世界を救うべきだ」というのではなく、「私はこう思う」という伝え方をする。

「私は君が世界を救えると思っているよ。私は君が花を見ていることはとてもいいことだと思うよ。私は花を使って世界を救えると思うよ。

7. 待つ。            
キャラクターが行動を始めるのを待つ。

という感じでしょうか。この7つのステップを、即座に判断し、あらゆる語彙を駆使して子どもと対話をするのは容易ではありません。ぼくはこのゲームのルールがわかるのに5~6年かかりました。そして現在も修行中です。

さっくり書きましたが、ここに書いたことはそれぞれ当然奥が深いです。「手段の目的化」の例は枚挙にいとまがないし、「ちゃんと伝える」ってそれができたら人類に悩みは存在しなくなりそうですし、「観察」や「意見を聞く」や「自分も遊ぶ」なども、やり方があります。実は、ワークショップ設計の真髄がこの7つの要素に詰まっているとも言えます。とはいえここに書いたこと一つ一つについて考察することは、機会をゆずりたいと思います。

まとめ

他人をコントロールすることはできない。にもかかわらず、ぼくたちは「人は私の欲するとおりに行動するべきである」というべき論/コントロール幻想をもっている。

コントロール幻想は不適切な信念なのだが、それを捨て去ることは、生きる指針を変えることになる。とても苦しく、痛みを伴う。このことは千野帽子著『人はなぜ物語を求めるのか』に詳しく書かれています。

「子どもに手出ししてしまう」と悩んでいる保護者の方に、「手出ししなきゃいいと思いますよ」というのは簡単です。しかし、それを言われた保護者の方がやらなきゃいけないのは、大げさではなく「生きる指針」の変更です。だから、「手出しをすることをやめる」というのはとても大変なことなのです。

それでも「人は子どもがやっていることに手出しをせず見守るべきだ」という信念を持たれるのであれば、ぼくは自分の思考枠組でもある以下の7つのステップを伝えます。

1. 目的と手段の確認
2. 相手に目的をちゃんと伝える
3. 相手をよく観察する
4. 相手の意見を聞く
5. 自分も遊ぶ
6. アイメッセージ
7. 待つ

これがうまくできるようになれば、多少なりとも状況は改善するかもしれません。しかしそれは簡単ではなく修行の道です。

もちろん、この7つのステップには欠点もあります。それは自分にも相手にもコミュニケーション技術の成熟がもとめられるという点です。

相手にも自分にも成熟を求めるコミュニケーションはちょっとしんどい。人は簡単には成熟できません。なのでもっと「いいかげん」に、もっと「ふまじめ」に、こうした新しいゲームのルールを楽しめる方法を、考えていきたいと思っています。それはまた別の機会に。

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長文におつきあいいただき、ありがとうございました!正直、ちょっと長く書きすぎたと反省しています!ツイッターで感想をつぶやいていただけたら、とてもうれしいです。

今回参考にした本はこちら。

今回の内容をベースに「赤ちゃんの探索」について書いた拙著はこちら。


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