オシドリの娘
『アカン!帰ってきて!』
そう母に言われて、内心、ほっとしたのかもしれない。
日本を出てちょうど32年。日本に生まれ育ったのに、いつの間にかスペインで暮した時間の方が長くなってしまった。
そんな今までの『海外へ嫁に行き、すっかり外国人みたいになってしまった人』という私のステージが、『なんやかんや言っても、結局は日本に根っこを持つ人』のステージへ瞬間移動させられるという緊急事態が発生した。
この世に生を受けた以上、避けられない流れの中で、いつかは来ると分かっているのに強引に蓋をしていたものがあったことを白状する。ウチだけはもっとずっと先で、もしかしたら来ないかもしれないという、金魚すくいのワイヤーに貼られた紙がボロボロなのに「まだ20尾ぐらい余裕やねん!」と言うような根拠のない強がりを仕舞い込んだ小箱を雑に開けられ、「ほら、見てみ?」と中身を鼻先に突き付けられたような鈍い苦みを感じる。
『海外在住者の親の介護問題』
若気の至りと言ってはそれまでだけれど、海外在住を決めた時に、自分のそれよりも先に親の老後のことを考えなかった訳ではない。
父は、「遠くへ行くんやから、少々のことでは帰ってけぇへん!ぐらいの覚悟で行けよ」と言われ、母には、「なんや、(夫が)日本人みたいやな」に始まり「(海外結婚が)うまいこといかんかったら、すぐ帰って来たらええねんしっ!」と対照的な言葉をもらった。
姉には手書きの手紙をもらった。妊娠がきっかけで移住を決めたので、「私たち姉妹がずっと元気で幸せに育ててもらったように、今度は私がしっかりと子育てをして幸せになるのが何よりも大切。親たちのことは私が看るから安心していいよ。でも、いざとなったらすぐに帰ってこれるお金は貯めておきや!」というオチまでついていた。けれど、姉のおかげで今まで自由にさせてもらえたのは事実で、どれだけ感謝しても足りない。
こうやって、愛情たっぶりに自分で決めなさいとメッセージを受け取り、一万五千キロも離れた国に生きる私に、とうとう降ってきた本気で向き合うべき課題。
(一体、私に何ができるんだろう?)
考えたところで答えが出てくるものではない。生と死のテーマについては、教科書も参考書もない。何が正解なのか答えのないまま、予告なしに変化していく状況に自分を対応させていくしかないんかな。
そんな事を思いながら、6年ぶりの日本行きのチケットを買った。
◇◇◇
オシドリたち
実父は、かれこれ7年もの間、肝臓がんを患い闘病生活を送っている。ついでに若いころから片方の目の視力が弱かったのだけれど、見えない方の目を庇ってもう一方の目を酷使するうちに、終いには、よく見えていた方の目まで見えなくなってしまった。
今では48インチのテレビ大画面前10センチまで接近してみても見えない。片眼ルーペをつけて見たところで、やっぱり見えはしなくて
「見ぇへんねやっ!」
と自分自身に言い聞かしている。
「悔しいなぁ。見えんなぁ」
そう続けて言う時はいつも、父の中の二人の人間が共存し、慰めあう。いや、二人どころではないのかもしれない。
そのくせ阪神タイガースの試合スケジュールはバッチリ把握していて選手は呼び捨て。試合中のボールがどちらに飛んでいったのかはなぜかちゃんと分かっている。
ちなみに、有難いことに父に都合の悪いことは自動的に聞こえなくなる素敵な機能は起動しているようだ。
そんな状態だったので、父の治療のための入院はもちろん検査や通院にも母が当たり前のように同行していた。母は父より一つ上。今年87歳になった。
母曰く、結婚してから一度も父と夫婦喧嘩をしたことがない。世間一般には、両親たちのような夫婦をオシドリ夫婦だとか言うんだろうけれど、二羽のオシドリはお互いにたくさん我慢をして、押したり引いたりしながら本当の夫婦になっていく。時には、相手がよそ見しているときに小突いたり、愚痴ったりもするんだろうけれど、ここぞという時には必ず一緒に困難を乗り越えていく。
そのオシドリ母の健康診断結果が出たのは今年になって間もなくだった。
◇◇◇
母に父と同じ肝臓がんが見つかった。
「お母ちゃんまでお手て繋いで一緒の病気にならんでも……」
担当医が「慰め」と「諦め」と「愛おしさ」をごっちゃ混ぜにして言った言葉は、いろんなものが混ざっているのに、なぜか白い色をしていた。血の繋がった家族だと遺伝の可能性もあるけれど、夫婦だと珍しいのだとか。やっぱりオシドリなんだろう。
医師は、まだ初期の段階だから、早めに治療を始めたら完治の可能性が高いこと。最初の手術は癌細胞をレーザーで焼ききるというもので、術後の経過が良ければ後一週間ほどで家に戻れると言い足した。母は、家系のほとんどが肝臓に関する疾患を持っていたので仕方ないと、別に聞かれてもいないのに原因を付け足した。
母の病名がこうして誕生した。
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