新約聖書における七十人訳引用 マタイ福音書その5

12:18-21 多分原語の「国々」も異邦人の国ではあるだろうけど

「見よ、わたしが選んだ僕、
わたしの心にかなう、愛する者。
わたしは彼にわたしの霊を授け、
そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。
19 彼は争わず、叫ばず、
またその声を大路で聞く者はない。
20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、
いためられた葦を折ることがなく、
煙っている燈心を消すこともない。
21 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」

イザヤ書42:1-4「わたしの支持するわがしもべ、
わたしの喜ぶわが選び人を見よ。
わたしはわが霊を彼に与えた。
彼はもろもろの国びとに道をしめす。
2 彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、
その声をちまたに聞えさせず、
3 また傷ついた葦を折ることなく、
ほのぐらい灯心を消すことなく、
真実をもって道をしめす。
4 彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。
海沿いの国々はその教を待ち望む」

マタイ12:18「Ἰδοὺ ὁ παῖς μου ὃν ᾑρέτισα, ὁ ἀγαπητός μου εἰς ὃν εὐδόκησεν ἡ ψυχή μου· θήσω τὸ πνεῦμά μου ἐπ’ αὐτόν, καὶ κρίσιν τοῖς ἔθνεσιν ἀπαγγελεῖ」
イザヤ書42:1「ιακωβ ὁ παῖς μου ἀντιλήμψομαι αὐτοῦ ισραηλ ὁ ἐκλεκτός μου προσεδέξατο αὐτὸν ἡ ψυχή μου ἔδωκα τὸ πνεῦμά μου ἐπ' αὐτόν κρίσιν τοῖς ἔθνεσιν ἐξοίσει」

マタイ12:19「οὐκ ἐρίσει οὐδὲ κραυγάσει, οὐδὲ ἀκούσει τις ἐν ταῖς πλατείαις τὴν φωνὴν αὐτοῦ
イザヤ書42:2「οὐ κεκράξεται οὐδὲ ἀνήσει οὐδὲ ἀκουσθήσεται ἔξω ἡ φωνὴ αὐτοῦ

マタイ12:20「κάλαμον συντετριμμένον οὐ κατεάξει καὶ λίνον τυφόμενον οὐ σβέσει, ἕως ἂν ἐκβάλῃ εἰς νῖκος τὴν κρίσιν
イザヤ書42:3「κάλαμον τεθλασμένον οὐ συντρίψει καὶ λίνον καπνιζόμενον οὐ σβέσει ἀλλὰ εἰς ἀλήθειαν ἐξοίσει κρίσιν

マタイ12:21「καὶ τῷ ὀνόματι αὐτοῦ ἔθνη ἐλπιοῦσιν
イザヤ書42:4「ἀναλάμψει καὶ οὐ θραυσθήσεται ἕως ἂν θῇ ἐπὶ τῆς γῆς κρίσιν καὶ ἐπὶ τῷ ὀνόματι αὐτοῦ ἔθνη ἐλπιοῦσιν

総じてマタイとイザヤの該当箇所で単語はかなり変わっている。文脈は大体一緒だけれど。ただ最後の「τῷ ὀνόματι αὐτοῦ ἔθνη ἐλπιοῦσιν(国々はその名を望むだろう)」は七十人訳と完全一致。しかしこの「異邦人」は七十人訳に倣えば「国々」と訳するのが正確なようである。マタイにおける「ἔθνη」は「異邦人」と訳するのがキリスト教文脈なのだろうか。

http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/OTpdf/isa42.pdf

なおこちらによると、ヘブライ語では42:1の方が「国々」、42:4の方は「海沿い」となっておりそもそも単語が違う。七十人訳では「ἔθνη」で一緒くたになっている。

この「しもべ」=イエスだとするのがマタイ、そして後にキリスト教の主張となっていく。一方でイザヤ書42:8では「わたしはわが栄光をほかの者に与えない」とされているので、イエス=神でないと論理的にまずい事になる。その辺をごまかすためにも三位一体論やらを思いつくのだけど。…ツギハギを重ねる度に収集がつかなくなってるなぁというのが正直な感想である。

ところでマタイにせよイザヤ書にせよ
「そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう」
とあるけれど、一方でマタイにおけるイエスは
15:24「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」
とも言っている。つまりナザレのイエスは正義を異邦人に述べ伝えるつもりはなかったようだし実際そんなに伝えてないのだけど、何か言い訳考えてたんだろうか。

13:14 この正確なギリシャ語引用ができたのはイエスか、あるいは彼の言葉を翻訳した誰か(マルコでもQでもない模様)なのか

「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
15 この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないためである」

イザヤ書6:9-10「『あなたがたはくりかえし聞くがよい、
しかし悟ってはならない。
あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。
10 あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、
その目を閉ざしなさい。
これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、
悔い改めていやされることのないためである」

マタイ13:14「Ἀκοῇ ἀκούσετε καὶ οὐ μὴ συνῆτε, καὶ βλέποντες βλέψετε καὶ οὐ μὴ ἴδητε
イザヤ書6:9「ἀκοῇ ἀκούσετε καὶ οὐ μὴ συνῆτε καὶ βλέποντες βλέψετε καὶ οὐ μὴ ἴδητε
「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない」

マタイ13:15「ἐπαχύνθη γὰρ ἡ καρδία τοῦ λαοῦ τούτου, καὶ τοῖς ὠσὶν βαρέως ἤκουσαν, καὶ τοὺς ὀφθαλμοὺς αὐτῶν ἐκάμμυσαν· μήποτε ἴδωσιν τοῖς ὀφθαλμοῖς καὶ τοῖς ὠσὶν ἀκούσωσιν καὶ τῇ καρδίᾳ συνῶσιν καὶ ἐπιστρέψωσιν, καὶ ἰάσομαι αὐτούς
イザヤ書6:10「ἐπαχύνθη γὰρ ἡ καρδία τοῦ λαοῦ τούτου καὶ τοῖς ὠσὶν αὐτῶν βαρέως ἤκουσαν καὶ τοὺς ὀφθαλμοὺς αὐτῶν ἐκάμμυσαν μήποτε ἴδωσιν τοῖς ὀφθαλμοῖς καὶ τοῖς ὠσὶν ἀκούσωσιν καὶ τῇ καρδίᾳ συνῶσιν καὶ ἐπιστρέψωσιν καὶ ἰάσομαι αὐτούς

「この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないためである」

なんとほぼ全くの完全一致。
イザヤ書では「βαρέως(鈍く)」の前に「αὐτῶν(その)」があるのを落としているが、他は一言一句同じ。日本語訳のズレはヘブライ語→七十人訳のズレを反映している。ここはイエスのセリフとして引用されているが、使っているのはマタイのみ。ガバガバ極まるマタイの引用において際立って正確なのを見ると、他の人が集めたギリシャ語の語録とかから引っ張ってきたとかの線も見えてくる。
一方でヘブライ語の原典からはズレもある。これはナザレのイエスがヘブライ語は読めず七十人訳を読めたという話なのか、アラム語などの別の原語で話した言葉をギリシャ語の使い手が翻訳したのかまでは断言ができない。

…ただし、
イザヤ書6:8-9「わたしはまた主の言われる声を聞いた、
「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。
その時わたしは言った、
「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。
9 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、 」
からの下りで、ここでいう私は言うまでもなくイザヤの事。つまりこの箇所はイザヤ自身が受けた命令でそもそも予言じゃない、という何とも残念なオチがあるのだけど。イエス=イザヤと言い張ったらイザヤが神になってしまうし。
これって冗談めかして書いているけれど割と大問題で、自分が引用している箇所の直前にある文脈を読めてない、ないし意図的に削っているかのどっちかで、前者であれば識字出来てなかったかもという話にもなりうる。当時にテキストを正確に使うなんて文化はなかったので単に文脈を無視しただけの可能性も強いけど。

13:35 マタイにおいてはイエスは一神教の神だった

「わたしは口を開いて譬を語り、
世の初めから隠されていることを語り出そう」
詩篇78:2「わたしは口を開いて、たとえを語り、
いにしえからの、なぞを語ろう」

マタイ「Ἀνοίξω ἐν παραβολαῖς τὸ στόμα μου, ἐρεύξομαι κεκρυμμένα ἀπὸ καταβολῆς (κοσμου)」
詩篇「ἀνοίξω ἐν παραβολαῖς τὸ στόμα μου φθέγξομαι προβλήματα ἀπ' ἀρχῆς」
「わたしは口を開いて譬を語り、
世の初めから隠されていることを語り出そう」
「わたしは口を開いて譬を語り、」までは完全一致。
その後はマタイ「ἐρεύξομαι κεκρυμμένα ἀπὸ καταβολῆς (κοσμου)((世界が)作られてから隠されているものを告げよう)」、
詩篇「φθέγξομαι προβλήματα ἀπ' ἀρχῆς(古よりの物事を語ろう)」
と全て違う。またここに関しては
http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/OTpdf/psa78.pdf
によれば、七十人訳とヘブライ語聖書も大体一致する。

マタイの引用はほぼ一緒、ちょこちょこ違う、全部違うのうちどれか一つに収まっており、途中まで完全一致、からの全部違うはここだけ。それ故に。

ここは意図的に書き換えた(改ざんした、と言ってしまってもいいかも)節が強く見える。「古より」を「(世界が)作られてから」に書き換えると、神=イエス・キリストと言い張る根拠になりうるし、後世の三位一体論にも極めて具合がいい(「イエス・キリストが世界の初めから存在していた」という説が政治闘争もとい神学論争の末に主流派になっていく)。

この記述はマルコ、ルカ、ヨハネにはない。これやったのマタイ? Q? それとも後世の人物? …Qだったらルカも書くよな多分。

んー、ただなぁ。
人間=一神教の神だなんてトンデモを言い出したのは論理的整合性の為でもあったのだろうけど、マタイ自身が律法からこぼれて神に見捨てられていた存在だった所をイエス派の教団に救われて人間になれた、という経緯があるかもしれない訳で(本当に徴税人だったかは議論の余地はあるだろうが)、それならば律法ではなくイエスこそが神だと本気で信じても全然不思議ではない。まぁ、そうは言っても何も知らない人間を(多分、字義通りの確信犯で)嘘で欺こうとしているのは糾弾されるべきだけど。

ナザレのイエス=一神教の神だとマタイが信じたのは、おそらくその教えで彼自身が初めて人間になれたという切実な事情があったんだろうなぁ、とは思う。まあだからといってやった事はやった事でしっかり批判されるべきだよねという話でもある。

今回はここで区切る。次回はイエスがまたも離婚を禁止しに行く場面とか。



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