新約聖書における七十人訳引用 マタイ福音書その7

21:5 ナポレオンがロバに乗ってたのはキリストを意識…いや関係ないか

「シオンの娘に告げよ、
見よ、あなたの王がおいでになる、
柔和なおかたで、
ろばに乗って、
くびきを負うろばの子に乗って」
ゼカリヤ書9:9「エルサレムの娘よ、呼ばわれ。
見よ、あなたの王はあなたの所に来る。
彼は義なる者であって勝利を得、
柔和であって、
ろばに乗る
すなわち、ろばの子である子馬に乗る」
マタイ「Εἴπατε τῇ θυγατρὶ Σιών· Ἰδοὺ ὁ βασιλεύς σου ἔρχεταί σοι πραῢς καὶ ἐπιβεβηκὼς ἐπὶ ὄνον καὶ ἐπὶ πῶλον υἱὸν ὑποζυγίου」
ゼカリヤ書「χαῖρε σφόδρα θύγατερ σιων κήρυσσε θύγατερ ιερουσαλημ ἰδοὺ ὁ βασιλεύς σου ἔρχεταί σοι δίκαιος καὶ σῴζων αὐτός πραῢς καὶ ἐπιβεβηκὼς ἐπὶ ὑποζύγιον καὶ πῶλον νέον」
「θυγατρὶ Σιών(シオンの娘)」「Ἰδοὺ ὁ βασιλεύς σου ἔρχεταί(見よ、王は来る)」「ἐπιβεβηκὼς ἐπὶ(~に乗って)」「πῶλον(子馬)」は共通、他は文章が異なる。
総じてゼカリヤ書の七十人訳に忠実とは言い難いが大体の内容は一緒、か?ただし、「彼は義なる者であって勝利を得」は七十人訳では欠落している。マタイがこの欠落箇所を知っていたら対応するエピソードを書き足したと思われるので、ここからも彼がヘブライ語の聖書を読めなかったで…いや、思いつかなかったらカットする位の事はやりそうだな。

ゼカリヤ書はこの後10「わたしはエフライムから戦車を断ち、
エルサレムから軍馬を断つ。
また、いくさ弓も断たれる。
彼は国々の民に平和を告げ、その政治は海から海に及び、
大川から地の果にまで及ぶ 」
と続く。…マタイ10:34「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」とか言ってたの気のせいだったっけ。

なおイザヤ書62:11「シオンの娘に言え、
『見よ、あなたの救は来る。
見よ、その報いは主と共にあり、
その働きの報いは、その前にある』 」
に比定されたりもするらしい。

このロバの下りは四福音書の全てで採用されている。ただし旧約の引用であると宣言しているのはマタイとヨハネのみ。マタイ、マルコ、ルカではイエスが弟子に命じロバの親子を借りさせているのだが、ヨハネではイエスがたまたまそこにいた子ロバに乗っかって、後日弟子がその意味を知ったという流れ。
七十人訳で欠落している「彼は義なる者であって勝利を得」は四者のどこにも採用されていない。また、ヨハネの引用では親子ではなく子供という事になっているので微妙に話が違う。実際にイエスが子ロバに乗ってエルサレムに行った話があって、マタイとヨハネが該当する箇所を探り当てたのか、マルコの時点でゼカリヤ書の記述が頭に入っていてこの下りを創作したのかはちょっと何とも言えない。ただ、借りた子ロバに乗っていった位の話は別に不自然でもなんでもないのも確か。馬を借りるより懐に優しいし。

21:13 実は門前市をぶっ壊した後、そこにいた盲人や足なえを癒やしたりもしてる

「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」
イザヤ書56:7「わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、
わが祈の家のうちで楽しませる、
彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。
わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」
エレミア書7:11「わたしの名をもって、となえられるこの家が、
あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。
わたし自身、そう見たと主は言われる」

マタイ「Ὁ οἶκός μου οἶκος προσευχῆς κληθήσεται
イザヤ書「γὰρ οἶκός μου οἶκος προσευχῆς κληθήσεται
『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』
マタイ「σπήλαιον λῃστῶν
エレミア書「σπήλαιον λῃστῶν
「盗賊の巣」
「γὰρ(~の為に)」が抜けている以外はほぼ一致。

イザヤ書の方は56:4-6「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、
わが契約を堅く守る宦官には、
5 わが家のうちで、わが垣のうちで、
むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、
絶えることのない、とこしえの名を与える。
6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、
そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、
わが契約を堅く守る異邦人は―」
からの、律法を守る宦官や異邦人も神に受け入れられるという文脈。

勘違いされがちだけどユダヤ教って民族宗教じゃないからね!
ヘブライ語習得や割礼とかのハードルが極端に高いから入りにくいだけで!

エレミア書の方は7:8-10
「見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。
9 あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、
あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、
10 わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、
『われわれは救われた』と言い、
しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか」
からの、十戒に背いたり偶像崇拝したりしてる連中が賛美を口にしても盗賊と変わらん、という文脈。

21:12「それから、イエスは宮にはいられた。
そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、
また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた」

21:14「そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、
彼らをおいやしになった」
に挟まる箇所。

12で門前市をぶっ壊したのがエレミア書に、
14で盲人や足なえを癒やしたのがイザヤ書にかかっているか。

門前市をぶっ壊したのがつとに有名で、彼らに本当に信仰がなかったのかは何とも言えないが。
(実は単なる癇癪だったとかいうオチだったらどうしようか)
その後に苦しむ人々を癒やしたのももう少し知られていいんじゃないか。

まあイザヤ書の当該箇所と違ってナザレのイエスは異邦人を一つ下に見てるっぽいのだが。15:24「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」とか15:26「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」とか。
ここで子犬呼わばりされてるのは人間の女性。

15:27「すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。
でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」
28「そこでイエスは答えて言われた、
「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。
あなたの願いどおりになるように」。
その時に、娘はいやされた。」と続きはするけれど。

21:16 名付けてベイビーロンダリング?

「そうだ、聞いている。
あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』
とあるのを読んだことがないのか」
詩篇8:2「みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています」

マタイ「Ἐκ στόματος νηπίων καὶ θηλαζόντων κατηρτίσω αἶνον
詩篇「ἐκ στόματος νηπίων καὶ θηλαζόντων κατηρτίσω αἶνον
「幼子と乳のみ子の賛美」
…が一致しているが、詩篇では子供や赤子が賛美しているというだけで、
神が子供や赤子に賛美させているという文脈はない模様。

ナザレのイエスがそうだったのか、キリスト教がそうなのかは知らないが、大人の薄汚い都合を子供に代弁させればキレイになると思ってる連中っているよね。私にとっては唾棄すべきもの以外の何物でもないが。

21:42 分かっていて読み替えたのか、単に教養が足りなかったのか

「イエスは彼らに言われた、
「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、
『家造りらの捨てた石が
隅のかしら石になった。
これは主がなされたことで、
わたしたちの目には不思議に見える』」
詩篇118:22-23「家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。
23 これは主のなされた事でわれらの目には驚くべき事である。」

マタイ「Λίθον ὃν ἀπεδοκίμασαν οἱ οἰκοδομοῦντες οὗτος ἐγενήθη
εἰς κεφαλὴν γωνίας·
παρὰ κυρίου ἐγένετο αὕτη, καὶ ἔστιν θαυμαστὴ ἐν ὀφθαλμοῖς ἡμῶν」
詩篇(七十人訳では117:22-23)「λίθον ὃν ἀπεδοκίμασαν οἱ οἰκοδομοῦντες οὗτος ἐγενήθη εἰς κεφαλὴν γωνίας
23 παρὰ κυρίου ἐγένετο αὕτη καὶ ἔστιν θαυμαστὴ ἐν ὀφθαλμοῖς ἡμῶν」
『家造りらの捨てた石が
隅のかしら石になった。
これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』
引用は完全一致。詩篇118は周りの民族と闘争して皆殺しにすると宣言しつつ、神が「私」を死に引き渡さなかった事を感謝してからの下りである。

「5 わたしが悩みのなかから主を呼ぶと、主は答えて、
わたしを広い所に置かれた。
6 主がわたしに味方されるので、恐れることはない。
人はわたしに何をなし得ようか。
7 主はわたしに味方し、わたしを助けられるので、
わたしを憎む者についての願いを見るであろう。
8 主に寄り頼むは人にたよるよりも良い。
9 主に寄り頼むはもろもろの君にたよるよりも良い。
10 もろもろの国民はわたしを囲んだ。
わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす。
11 彼らはわたしを囲んだ、わたしを囲んだ。
わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす。
12 彼らは蜂のようにわたしを囲み、いばらの火のように燃えたった。
わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす」

「13 わたしはひどく押されて倒れようとしたが、主はわたしを助けられた。
14 主はわが力、わが歌であって、わが救となられた。
15 聞け、勝利の喜ばしい歌が正しい者の天幕にある。
「主の右の手は勇ましいはたらきをなし、
16 主の右の手は高くあがり、主の右の手は勇ましいはたらきをなす」。
17 わたしは死ぬことなく、生きながらえて、主のみわざを物語るであろう。
18 主はいたくわたしを懲らされたが、死にはわたされなかった。
19 わたしのために義の門を開け、
わたしはその内にはいって、主に感謝しよう。
20 これは主の門である。正しい者はその内にはいるであろう
21 わたしはあなたに感謝します。
あなたがわたしに答えて、わが救となられたことを」

からの22-23なので詩篇の方からして唐突、かつ謎めいているように見える。

私には文脈はよく分からない、と前置いた上で。
口語訳の詩篇では「捨てた」と翻訳されているが「拒絶された」と翻訳したほうが適切、との事。英訳だとrejectなどの単語が充てられている。(多分、当時においても)ユダヤ教においては「捨てた(拒絶された)石」はイスラエル王国と理解されている模様。

参考にしたのがこちら。
https://www.shema.com/psalms-113-118-the-hallel-2671/
おそらくユダヤ教徒の方が、hallelという過越祭で歌われる賛美をまとめたもの。詩篇113-118で構成され、「stone(石)」についての記述もある。ページ内検索で出てくるのでやってみよう。

つまり周りの民族から拒絶され攻撃されたイスラエル王国が世界の要石となった、これは神の御業であって我々の目には驚くべき事、という意味。詩篇ってそういえばイスラエル王国が絶頂してる時の文章だったっけか。という訳で、イスラエル王国を称える箇所であって特に謎かけしているわけではないらしい。

一方でナザレのイエス…からか後世のキリスト教徒からかは知らないが。彼らは「捨てた(拒絶された)石」はイエス・キリストの事だと解釈し、彼こそが世界の要石だと主張するに至った訳である。

そんな事をユダヤ教の中で抜かした上で実力行使もしたら(イエスのしもべが剣で大祭司のしもべの耳を切ったりしている)、そりゃテロリストとして憎しみを集めるのも残当としか言いようがない。当時の法に引っかかってたかどうかは私には分からないけれど。

そろそろ空気と発言が危なくなってくる。しかし次回からもっと加速するんだなこれが。

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