新約聖書における七十人訳引用 マタイ福音書その2

4.4 逆に言えば、パンがなければ生きられない事はキリストも認めざるを得なかった

「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」
申命記8:3「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」

マタイ「Οὐκ ἐπ’ ἄρτῳ μόνῳ ζήσεται ὁ ἄνθρωπος,
ἀλλ’ ἐπὶ παντὶ ῥήματι ἐκπορευομένῳ διὰ στόματος θεοῦ

申命記「οὐκ ἐπ' ἄρτῳ μόνῳ ζήσεται ὁ ἄνθρωπος
ἀλλ' ἐπὶ παντὶ ῥήματι
τῷ ἐκπορευομένῳ διὰ στόματος θεοῦ
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」がほぼ一致。
…と日本語訳されているが、「言」(ῥήματι)は「布告」とか「勅(みことのり)」とでも訳したほうが言葉の意味には沿う。少なくともかの「ロゴス(λόγος)」はここでは使われていない。
マタイでは「ῥήματι(勅)」と「ἐκπορευομένῳ(出る)」の間にある「τῷ」が無くなっているが、意味の違いは口語訳でははっきり出ていないし私もよく分からない。
TheとかForとかtoにあたる単語なので強調が薄くなってるかな?

まあこの七十人訳がどれだけ信用できるか分かったもんじゃないのでそこまで深掘りしても、である。欠落があるよという事だけ認識すればいいんじゃなかろうか。

閑話休題。
「それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。」
から続く文脈。申命記でいう言(上記の通り「布告」や「勅」とも)ってのは何か。

https://www.jewishbookcouncil.org/book/the-heart-of-torah
によると「神の(生まれろという)命令」、および直前にも書かれている「マナ」の両方を指すのだそうな。

パンを食べているというだけではなく、
神が「あれ」と宣言したから生命は存在する、
その証拠にマナも降ってきたじゃないか、
とでも解釈すればいいのかなこれ。

4.7 しょうもない理不尽にも理由があるに違いない、神は「全知全能」だから

「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」
申命記6:16「あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない」

マタイ「Οὐκ ἐκπειράσεις κύριον τὸν θεόν σου
申命記「οὐκ ἐκπειράσεις κύριον τὸν θεόν σου
「主なるあなたの神を試みてはならない」
口語訳では「マッサでしたように」とヘブライ語から訳されていてこれで正しいのだが、七十人訳では「マッサで」が無くなっており、「道において」みたいな訳になっている。ここでいう「道において」はおそらく「出エジプトの途中で」を指す。
…イエスの言葉においても七十人訳におけるミスがそのままって事は、つまり彼は元々のヘブライ語の聖書を読めなかったという事なのだろうか。

マッサでの試みは、
出エジプト記17:1-7「イスラエルの人々の全会衆は、主の命に従って、シンの荒野を出発し、旅路を重ねて、レピデムに宿営したが、そこには民の飲む水がなかった。
2 それで、民はモーセと争って言った、
「わたしたちに飲む水をください」。
モーセは彼らに言った、
「あなたがたはなぜわたしと争うのか、なぜ主を試みるのか」。
3 民はその所で水にかわき、モーセにつぶやいて言った、
「あなたはなぜわたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを、
子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか」。
4 このときモーセは主に叫んで言った、
「わたしはこの民をどうすればよいのでしょう。
彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」。
5 主はモーセに言われた、
「あなたは民の前に進み行き、イスラエルの長老たちを伴い、
あなたがナイル川を打った、つえを手に取って行きなさい。
6 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。
あなたは岩を打ちなさい。
水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」。
モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行った。
7 そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。
これはイスラエルの人々が争ったゆえ、
また彼らが「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」
と言って主を試みたからである」
のくだりを指す。

現実問題、水が無かったので、人々がモーセに水を要求した所、モーセは「主を試みるな(神を信じるものは渇いても動じない筈だ)」と言い張ったのだが折れて神に助けを求め(試み)、神様もあっさり水を出してくれた、という話。

「試みるな」というより「神の意思を疑うな」という意味が入ってくるか。申命記の方は二度とこんな真似をしてはならないという戒めになっているのか、メタを言ってしまえばそんな奇跡がそうそう起きるわけないんだから釘刺しとこ、という話なのか。

4:6 悪魔だって聖句を使うし奇跡も起こす

「言った、「もしあなたが神の子であるなら、
下へ飛びおりてごらんなさい。
『神はあなたのために御使たちにお命じになると、
あなたの足が石に打ちつけられないように、
彼らはあなたを手でささえるであろう』
と書いてありますから」」

ここでは聖書が事実なら飛び降りたってどうという事はないはずだ、というサタンのささやきに「主なるあなたの神を試みてはならない」と返しているが、元ネタとその元ネタ(出エジプト記)では「神の意志を疑ってはならない」という意味になるので、微妙に食い違うような根本的には間違ってもいないような。

ちなみにここでサタンが引用したのは
詩篇91:11-12「これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。
12 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする」
全然違う事書いてるように見えるが、
マタイ「ἐπὶ χειρῶν ἀροῦσίν σε, μήποτε προσκόψῃς πρὸς λίθον τὸν πόδα σου
詩篇(七十人訳だと90:11-12)「ἐπὶ χειρῶν ἀροῦσίν σε μήποτε προσκόψῃς πρὸς λίθον τὸν πόδα σου
「あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう」の部分は七十人訳から正確に引用されていたりもする。
ヘブライ語から翻訳すると「彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする」になる。

4:10 カミサマ ハ コワクナイヨー

「サタンよ、退け。
『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」
申命記6:13「あなたの神、主を恐れてこれに仕え、
その名をさして誓わなければならない」
マタイ「Κύριον τὸν θεόν σου προσκυνήσεις καὶ αὐτῷ μόνῳ λατρεύσεις
申命記「κύριον τὸν θεόν σου φοβηθήσῃ καὶ αὐτῷ λατρεύσεις
「主なるあなたの神を拝し(恐れ)、ただ神に(のみ)仕えよ」
マタイでは「προσκυνήσεις(崇拝する)」、
申命記では「φοβηθήσῃ(恐れる)」が使われており、
またマタイは「μόνῳ(のみ)」を書き足している。

http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/OTpdf/deu6.pdf
こちらによると、七十人訳およびヘブライ語の原文でも「恐れる」が正確で「のみ」という意味もない。

こんな感じでナザレのイエス、ないしマタイが旧約聖書の原文を微妙に書き換えている所が実は結構ある。おそらくここは意図的な書き換え(改ざん、と言ってしまっていいかも)で、ナザレのイエスは裁きを成して正義を執行するそれまでの神を全てを愛する神へと読み替えており、それに従ってここも「恐れる」べき存在から「崇拝する」べき存在に書き換えたと思われる。

…こんな感じで変えてはいけない律法を勝手に書き換えた人間を教祖にした以上、ナザレのイエス=キリスト=神で律法を超越する存在だと強弁しないとにっちもさっちもいかなかったんだろうなぁと。

さて、申命記は6:10-12で「あなたの神、主は、
あなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに向かって、
あなたに与えると誓われた地に、あなたをはいらせられる時、
あなたが建てたものでない大きな美しい町々を得させ、
11 あなたが満たしたものでないもろもろの良い物を満たした家を得させ、
あなたが掘ったものでない掘り井戸を得させ、
あなたが植えたものでないぶどう畑とオリブの畑とを得させられるであろう。あなたは食べて飽きるであろう。
12 その時、あなたはみずから慎み、エジプトの地、
奴隷の家から導き出された主を忘れてはならない」
からの文脈。

賜物があった時に主を思い出せという文脈なのか
いつでも主を思えと言いたいのかはなんとも。
深読みしなかったら前者に思えるが。

4:15-16 イエスはユダ族出身ではなかったんだろう

「ゼブルンの地、ナフタリの地、
海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、
異邦人のガリラヤ、
16 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、
死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」
イザヤ書9:1-2「さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、
後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、
異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。
暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」
マタイ「Γῆ Ζαβουλὼν καὶ γῆ Νεφθαλίμ, ὁδὸν θαλάσσης, πέραν τοῦ Ἰορδάνου, Γαλιλαία τῶν ἐθνῶν
イザヤ(七十人訳では8:23)「ζαβουλωνγῆ νεφθαλιμ ὁδὸν θαλάσσης καὶ οἱ λοιποὶ οἱ τὴν παραλίαν κατοικοῦντες καὶ πέραν τοῦ ιορδάνου γαλιλαία τῶν ἐθνῶν
τὰ μέρη τῆς ιουδαίας」
「ゼブルンの地、ナフタリの地、
海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、
異邦人のガリラヤ」
七十人訳では「καὶ οἱ λοιποὶ οἱ τὴν παραλίαν κατοικοῦντες(海岸で安らう者)」「τὰ μέρη τῆς ιουδαίας(ユダ族の一部)」が書き足されているが、マタイはこれを削除している。
一方で「はずかしめを与えられた」「光栄を与えられる」が七十人訳で削除され、マタイもこれを踏襲。
他は七十人訳と一致。

マタイ「ὁ λαὸς ὁ καθήμενος ἐν σκοτίᾳ φῶς εἶδεν μέγα, καὶ τοῖς καθημένοις ἐν χώρᾳ καὶ σκιᾷ θανάτου φῶς ἀνέτειλεν αὐτοῖς」
イザヤ(七十人訳では9:1)「ὁ λαὸς ὁ πορευόμενος ἐν σκότει ἴδετε φῶς μέγα οἱ κατοικοῦντες ἐν χώρᾳ καὶ σκιᾷ θανάτου φῶς λάμψει ἐφ' ὑμᾶς」
「暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、
死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」の箇所。
大まかには一致するが違いも結構ある。
イザヤ「πορευόμενος(歩いている)」→マタイ「καθήμενος(住んでいる)」
マタイ「εἶδεν(εἶδε)(気づく)」を書き足し、イザヤの「ἴδετε(見る)」を削除
イザヤ「κατοικοῦντες(住人)」→マタイ「καθημένοις(住んでいる者)」
イザヤ「λάμψει ἐφ' ὑμᾶς(彼らを照らす)」→マタイ「ἀνέτειλεν αὐτοῖς(彼らに昇った)」
「歩いている」が「住んでいる」になっている以外は細かい違いか。
なおここに関しては七十人訳が割と正確で、マタイが七十人訳から書き換えている。

七十人訳の誤訳をそのまま転写する事の多いマタイだが、ここでは七十人訳の「ユダ族の一部」という決定的な改ざんを削除している。
ただこれが原典に従った故なのか(当時ユダ族が住んでいなかったとかで?)書き換えようとしたらたまたま原典に沿ったのかはかなり何とも言えない所。近くの「海岸で安らう者」という書き足しも削除しているが、これをどう見るか…?

ちなみにイザヤ書はこの後、6-8で
「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、
ダビデの位に座して、その国を治め、
今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。
万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
8 主はひと言をヤコブにおくり、これをイスラエルの上にくだされる」
と続く。なかなかキリスト教に使えそうな下りである。
…余談だが、七十人訳ではイザヤ書9-8の「ひと言」を「死」と誤訳してしまっている。

この後、おそらくイエスが大きな書き足しをやっているので、
ここで二つ目の区切りとする。
次回のマタイ福音書第五章で、イエスが何を主張し、また律法を踏み越えたのかが端的に分かる…かもしれない。

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