新約聖書における七十人訳引用 マタイ福音書その8

22:24 ユダヤ社会独自…という訳でもなく、割とよくあった風習らしい

「もし、ある人が子がなくて死んだなら、
その弟は兄の妻をめとって、兄のために子をもうけねばならない 」
申命記25:5「兄弟が一緒に住んでいて、
そのうちのひとりが死んで子のない時は、
その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。
その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、
夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない」

サドカイ人の発言なのだがこれも概略。文章はまるで被っていない。なお、イエスは地上においてこういう規則が存在する事自体は否定してはいない。一方で22:30「復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである」と語ってもいる。神の為に家族を切り捨てよと宣ったイエスの家族観がうっすらと見える…と言いたいのだが、実は(少なくともマタイにおいては)「家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は」と言っているが「夫や嫁を捨てよ」とは言っていないのである。
…何と言うか、夫婦のつながりに関しては論理的な整合性では回収できない複雑な何かを抱えているようにも見える。愛は律法を飛び越えると主張しているにも関わらず離婚には妙に厳しいのも、何か個人的な事情があったのではと。

22:32 そもそもユダヤ教に復活の概念があるのか?

「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』
と書いてある。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」
出エジプト記3:6「また言われた、
「わたしは、あなたの先祖の神、
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」
モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した」

マタイ「ὁ θεὸς Ἀβραὰμ καὶθεὸς Ἰσαὰκ καὶθεὸς Ἰακώβ
出エジプト記「σου θεὸς αβρααμ καὶ θεὸς ισαακ καὶ θεὸς ιακωβ
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」の箇所で並列できるが細かい言い回しが結構違う。また「先祖の神」も引用されてない。
マタイ22:31「また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか」の論拠…論拠?として出された引用なのだが。…正直何を言ってるのかさっぱり分からない。何故「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と書いてあったら死人が復活する事になるんだ?三人共普通に死んでて蘇ってるわけでもないし。…それともこの三人は復活して天国なり何なりで生きてるって扱いだったのか? 日本語では得心のいく解説は見つからなかった。よく分からないと率直に書いている所もある。

出エジプト記の方でも3:6「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」の周りに死人が復活してどうこうという話は全く無い。

22:37-40 律法は神への愛と隣人愛の二つ。…では敵への愛は?

「イエスは言われた、
「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、
主なるあなたの神を愛せよ』。
38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。
39 第二もこれと同様である、
『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」
申命記6:5「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、
あなたの神、主を愛さなければならない」
レビ記19:18「あなたはあだを返してはならない。
あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。
あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。
わたしは主である」

マタイ「Ἀγαπήσεις κύριον τὸν θεόν σου ἐν ὅλῃ τῇ καρδίᾳ σου
καὶ ἐν ὅλῃ τῇ ψυχῇ σου καὶ ἐν ὅλῃ τῇ
διανοίᾳ σου
申命記「ἀγαπήσεις κύριον τὸν θεόν σου ἐξ ὅλης τῆς καρδίας
σου καὶ ἐξ ὅλης τῆς ψυχῆς σου καὶ ἐξ ὅλης τῆς
δυνάμεώς σου
「心をつくし、精神をつくし、思い(力)をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」マタイでは「διανοίᾳ(思い)」、申命記の七十人訳では「δυνάμεώς(力)」。
何か意味があって改変したのか、単語が似ていて間違えたのか…?

http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/OTpdf/deu6.pdf
によると、ヘブライ語はutterlyと英訳されている。…「力」だと苦しいか?

マタイ「Ἀγαπήσεις τὸν πλησίον σου ὡς σεαυτόν
レビ記「ἀγαπήσεις τὸν πλησίον σου ὡς σεαυτόν
「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」

ユダヤ教は何かと律法が多い宗教なのだが、ナザレのイエスはこの二つ、神への愛と隣人への愛に整理できるとする。悪を裁き正義を成す事ではなく、愛する事こそが神の本質であり、人は愛する事によって神に近づくとするのが(少なくとも、マタイにおける)彼の思想。一方ここでは隣人のように敵を愛せよとは言っていない。となると敵への愛は律法、つまり神からの戒めにしなくていいという事なのだろうか。

22:44 詩篇110の詩は当時の王にも歌われていたのだろうか?

「すなわち『主はわが主に仰せになった、
あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、
わたしの右に座していなさい』」
詩篇110:1「主はわが主に言われる、
「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、
わたしの右に座せよ」と」

マタイ「Εἶπεν κύριος τῷ κυρίῳ μου· Κάθου ἐκ δεξιῶν
μου ἕως ἂν θῶ τοὺς ἐχθρούς σου
ὑποκάτω τῶν ποδῶν σου
詩篇「εἶπεν ὁ κύριος τῷ κυρίῳ μου κάθου ἐκ δεξιῶν μου
ἕως ἂν θῶ τοὺς ἐχθρούς σου
ὑποπόδιον τῶν ποδῶν σου
『主はわが主に仰せになった、
あなたの敵をあなたの足もとに置く(足台とする)ときまでは、
わたしの右に座していなさい』
マタイでは「ὑποκάτω(下に)」、詩篇では「ὑποπόδιον(足台)」となっている。またかよ。

http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/OTpdf/psa110.pdf
さっきの所ではstoolと翻訳されており、おそらくナザレのイエスかマタイの勘違い。となると前のも多分

詩篇110はダビデの詩という事になっている。ここでいう「我が主」は他の「主」で、神とは別。では、「我が主」ってのは一体誰なのか。実はこれ、ダビデが王の就任を祝う際の祝辞として作った詩で「我が主(原語ではアドナイ)」はその時の国王を指し、歌っているのはその家臣達なのだそうで。

一方マタイでは
22:43「イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。

22:45「このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」という文脈に挟まれている。つまり、「我が主」はキリストであると主張した。
何というかものすごい牽強付会だけれど後世のキリスト教ではこれが当たり前になり、遂には三位一体論に基づいて「Lord」を「LORD」と(意?)訳するに至った。

22:46「イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった」と続くのだが、これはマタイが書き足したのか、本当にイエスの言葉で論破されたと思って沈黙したのか、話通じねえやこれという沈黙だったのか…

23:39 「私がイスラエルだ」…なのかこれ?

「わたしは言っておく、
『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』
とおまえたちが言う時までは、
今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」
詩篇118:26「主のみ名によってはいる者はさいわいである。
われらは主の家からあなたをたたえます」

マタイ「Εὐλογημένος ὁ ἐρχόμενος ἐν ὀνόμ ατι κυρίου
詩篇「εὐλογημένος ὁ ἐρχόμενος ἐν ὀνόμ ατι κυρίου
「主の御名によってきたる者に、祝福あれ」
…「εὐλογημένος」って分詞型でいいのだろうか。それとも受動型か。
どっちにしろ「祝福あれ」にはならんか? 

先程の「捨てた石」から続く下り。つまり詩篇の方ではイスラエル王国において神を讃えており、マタイ福音書では「捨てた石」=「主の御名によってきたる者」=イエス・キリストに祝福あれ、の意味。

いよいよ危ないことを言い出してきた感がある。でもからは終末預言まで引用しだしてもっと飛ばしていくんだ。…しかし一方で、これ以降は正確な引用が一つもなくなったりもする。

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