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ふたりの「ジョーカー」のあいだで

映画『ジョーカー』について書いた。最初に結論を述べると、この映画は確実に2007年の『ダークナイト』から後退している。そこで描かれた世界は1/3ほどせまくなり、深さもあまりなくなっている。しかし、「それゆえに」この映画は重要だというのが僕の立場だ。なぜいまヒース・レジャーのジョーカーの成立する余地はなく、ホアキン・フェニックスのジョーカーが支持を集めるのか。そこに論点は存在すると僕は考えているのだ。

 YouTubeのチャンネルで映画『ジョーカー』について話した。聞き手をつとめた若いスタッフは、この映画でホアキン・フェニックス演じたジョーカーに心酔しているようだった。たしかに彼の怪演は素晴らしく、僕も鑑賞後にはホットトイズあたりから完成度の高いアクションフィギュアが出ていないか検索したものだった。しかし、同時に僕はこの映画に物足りないものを感じていた。いや、正確にはちょっと違う。この映画はとても現代的で、優れている。そしてむしろその高い現代性ゆえに、決定的なものが欠落してしまっているように思えたのだ。そしてその欠落してしまっているものは、同じジョーカーというキャラクターの活躍する映画『ダークナイト』との比較で考えることで明白に浮かび上がってくる。もちろん、僕は『ダークナイト』のジョーカー像を絶対視するつもりは毛頭ない。あのジョーカーも、これまで数多くの作品で反復して描かれてきたジョーカーのひとつに過ぎないし、そもそも「ジョーカーかくあるべし」という議論に意味はないと思う。だけれども、こうしたこととはまったく別の次元で、『ダークナイト』との比較でこの『ジョーカー』という映画を考えることは有益だと思うのだ。

「This is what happens, when an unstoppable force meets an immovable object.(絶対に止めることのできない力が絶対に動かないものに出会ったとき、こういうことが起きるわけだ。)」

 これは『ダークナイト』の結末近く、バットマンに捕縛されたジョーカーが口にする台詞だ。この「絶対に止めることのできない力」とは何か。それはジョーカーという存在が体現する世界の不可避の変化だ。そして「絶対に動かないもの」とは何か。それはバットマンのことで、彼が体現する「正義」のことだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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