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骨盤自体が丹田

メジャーリーグで一番よい歩きをしているのは、誰だかわかりますか、大谷翔平です(中略)足先が転子と連動して、転子を強く形成しなければ、フォアフット走法にならない(中略)フォアフット走法は江戸時代では当たり前(中略)典型的な例でいえば、江戸時代の飛脚、駕籠かきで、走ることが職業の人たちです。浮世絵や幕末の写真を分析してみると、この人たちの中にとんでもないフォアフット走法の達人がいたことがわかります(中略)戦闘者として鍛えられた武士は当然のようにフォアフットが使えました

息を吐くとき、お腹をへこませる(中略)「重心」は、「腹が据わっている」というときに使われる「腹」や「丹田」と同じ場所にあります。仙骨の二番目の前あたりです(中略)「筋膜」とは、筋繊維を包む膜です。筋肉、筋肉といいますが、じつは筋肉は筋繊維が束ねられたものです。その束ねた筋繊維を包むのが筋膜(中略)大腰筋は鍛えるということが基本的には難しい筋肉

筋膜とは、筋肉を取り囲んでいる膜です(中略)筋膜の弾力性が失われて硬くなると、炎症が起こってきます↓

大腰筋は、腰からはじまり、お腹の中を通って、腿の内側の付け根である小転子にかけてつく、太くて長い深層筋(中略)中世までの日本人はお尻や大腰筋を使って歩いていたようだ(中略)ふくらはぎがやけに細いということです。腿も決して太くない。もうひとつはお尻が発達している

「なんば」から常歩による走歩行(中略)常歩・速歩・駈歩・襲歩の4種類があります。最も速く走るときの歩様が襲歩で、ギャロップともいいます(中略)酔ったときや竹馬に乗った時の感覚が二軸感覚です。安定するための中心軸がありません(中略)骨盤自体が丹田(中略)中丹田の開放を習得すると、驚くほど身体の動きが滑らかになります(中略)肩甲骨が「外放」します。このことによって体幹上部と上肢がフリーな状態になります(中略)「常歩」の基礎となる立ち方。筋肉を使わずに楽に立つ(中略)二軸動作に必要な姿勢を習得する(中略)立禅の姿勢は気功法では「站椿功」といい、気功でも最も代表的な姿勢です。この姿勢は、先に説明した常歩の立ち方の状態(中略)二軸感覚の立ち方、歩き方(中略)「抜き足」の動きを覚えることが必要(中略)技術については秘密主義を保持してきました。元々、武道は命のやり取りを前提としていますので、自分の流派の技術を他に公開することは、自分の生命にかかわることであったわけです。そのような風潮が現在でも続いています。

着物が着崩れないようにして歩くことが、ナンバ歩き(中略)江戸時代まではナンバ歩きをしていた日本人(中略)特殊技能・ナンバ走りを身につけていたのは、公の職業では飛脚で、影では忍者(中略)ナンバ走りを身につけることが職業(稼ぎ)に結びつくので、簡単に教えたりはしないで、彼らはそれを秘伝として隠していました。ナンバ走りを教えると商売敵が増えるので、教えないほうが賢い生き方とされた

支点崩しによるエネルギーの移動(中略)「膝抜き」による落下エネルギー。実はこれが強い力を生む(中略)重力の利用で瞬時に沈ませる(中略)無重力状態を瞬間的に作ることで、「ため」や身体各部の「癒着」を解放させ、体の方向転換を一気に図る(中略)〝落下〟と〝上昇〟を同時に(中略)膝に引っ張られるような感覚で

膝は脱力して「ゆるめ」なければならない(中略)このような立ち方をしておいて、いざというときはそのブレーキを開放し一気に動き出す

膝抜きができるかどうかが世界の一流、さらには世界のトップ・オブ・トップ選手になれるかどうかを分ける

「股関節から動く」ことを意識すれば身体は楽になります

側体のづれ運動ができることが、「身体を背骨で割る」「脊を割ってずらす」という身体操作

1588年のアルマダ海戦の時、後方の輸送船団の中の一隻の船長をしていたのが、ウィリアム・アダムズ(※のち三浦安針)(中略)ハリケーンに巻き込まれて難破して大分に漂着(中略)このときリーフデ号(エラスムス号)に積んでいた、当時最高級のカノン砲20門を家康にすべて引き渡した。それが関ヶ原の戦いで4門が使われた(中略)これで西軍(豊臣方)の最精鋭部隊が1000人も殺されたら、もう勝てない。それで東軍の家康が勝った(中略)関ヶ原の戦いの14年後に、大坂冬の陣と翌年の夏の陣で、イギリス国王から家康(日本王)に贈られたさらに最新式のカルバリン砲(カノン砲=野戦砲の一種)が威力を発揮した(中略)この洋式大砲が2キロ飛んで、天守閣まで壊した(中略)このカルバリン砲は、エリザベス1世(1603年に死)のあとを継いだジェイムズ1世(温和な人)が、家康に贈ったものだ。ジェイムズ1世は1605年に、カトリック勢力に、イギリス議会の壇上で爆殺されかかった(未遂)(中略)これに怒ったジェイムズ1世は、ベトナム王やマラッカ王などの王たち、そして日本王である徳川家康に、「カトリックに気をつけよ」と新式大砲を贈ったのである。※引用者加筆.

関ヶ原でこの最新鋭の洋式大砲の部隊は本多忠勝の軍と共に、今度は北に向かって三成のいる笹尾山の方に移動(中略)ここから800メートル先の三成の笹尾山の本陣に撃ち込んだ(中略)当時の日本の戦国大名が持っている大砲などよりも4倍の距離を飛ぶ(中略)これで関ヶ原の平野の野戦で一気に決着をつけた家康(中略)石田三成の笹尾山の陣地も、この西洋大砲によって破壊された(中略)戦場は〝嚆矢〟という考えが支配する。古く源平の戦い(10世紀ぐらいから。武家が藤原氏の貴族たちの次の支配者となる)の頃から、合戦というのは、どっちの飛び道具が強くて相手の陣地まで先に届いたか、で決まった(中略)戦場では(待ち伏せ襲撃や夜襲を除くと)相手の陣地にまで先に放った矢が届いた方が勝ちなのである(中略)それを鏑矢(嚆矢)という。ものすごい剛弓を使える兵士を訓練して、この鏑矢を敵陣に射たせた。鏑矢には頭に風でビュービューという音が出る鏑という装置が付いていた。この鏑矢が、敵の大将の陣地にまで届いたら、急に戦意を失って自分の敗けを察知して一目散に撤退(退陣)が始まる(中略)「嚆矢(鏑矢)」とは、「ものごとの始め」という意味になった(中略)藤孝(幽斎)の嫁、細川ガラシャが洗礼を受けて「ガラシャ」と名乗ったのは、1587(天正15)年(24歳)だ。忠興と結婚して10年ぐらい経っている。秀吉が天下人の時だ。だがキリシタンになったのはもっと早いだろう。この年に秀吉のキリシタン禁令が発令されている。ということは、日本におけるキリスト教の布教の最高潮は、この1587年だ。30万人を超える信者がいたという。それから13年後の1600年7月に、「大坂城に入って自分の人質となれ」と命令を出した石田三成に逆らって、ガラシャは自害している(37歳)(中略)ガラシャが産んだ子供が忠利で、彼が1632年に初代熊本藩主(54万石)となった。名城、熊本城は猛将加藤清正が建てたもの(中略)秀吉なきあと(1598年9月死去)の内紛の中で反石田三成派の筆頭である。だから、そのあとは家康側に付いて大坂冬の陣(1614年)の頃は、名古屋城の築造とかしている(中略)だが清正は、1600年の関ヶ原合戦は参加していない。肥後(熊本)から動かなかった。これで家康が清正をずっと気に入らなかった。だから清正が死んだあとは、息子貞泰が上手に跡を継ぐことができなかった。だからワルの細川家が以後、代々熊本藩主を乗っ取って継いだ。同じくワル(策士、軍師)の黒田官兵衛(如水)とその息子の長政が北どなりの福岡藩主(筑前の国主)となった。同じく池田恒興と長男光政が長久手の戦(1584年)で戦死したので、光政が、備前岡山藩主となった

ドラマ『SHOGUN 将軍』の見どころは、真田広之さん演じる虎永と浅野忠信さん演じる藪重の常歩。



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