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2024年、年頭所感-変わらない場所、続く営み

白紙の画面を前にしている。2024年は初っ端からタフな年となった。

通常であれば新年の記事は、昨年のふり返りと、今年の目標を気楽に書くといった、誰でもかけるハードルの低いものだ。しかし、今年は、なんだか何を言っても的外れになるように感じる。

同じ町に何十年も住んでいると、年越しも年明けも、昔と大きくは変わらない。子どもの頃と同じ神社に初詣に行けば、毎年のように同じ事が行われている。

近所の神社は小さいが、元旦には、初詣参拝者の列ができる。こんな神社にどこからこんなに沢山人が来るのだろうかと昔から不思議だった。参拝列に並ぶため、列に沿って最後尾を目指して歩く。かつては、その途中で、何人か学校の友達に出会ったりしたものだ。電話をかける以外に様子を知る方法もあまりない時代。ばったり顔を合わせて、そこで遊ぶ約束をするなんてこともあった。

今も、神社には多くの人が初詣に訪れている。しかし、そのほとんどすべてが知らない家族だ。いや、実際にはそんなことはないのかも知れない。単に顔を見ても知り合いだと思い当たらないだけ、という事もあるだろう。そんなことを思いながら境内を歩くが、結局そこで思いがけず誰かに出会うという事もない。昔と同じく神社はそこにあり、人も同じようにいる。変わらない場所でありながら知らない土地のような。そういうことを思う。

お参りの方法に特にこだわりはない。多くの人と同様、こういうとき以外は神社の存在もさほど意識しないような、ええ加減な参拝客である。コロナ前までは、まずはお手水を使って、というステップがあったが、最近は水がないケースも多く、省略している。

手水といえば、子どもの頃は、たまっている水を柄杓で全部掻き出したりして遊んでいた記憶があるが、今となっては、暇を持て余した昭和キッズの蛮行とでも言うべきだろう。我が子がそのような無作法をしたと聞いたことはない。

この神社の「手水のつかいかた」看板は「水玉ワンピースの女子」タイプのものである。神社をよく訪れる人なら一度ぐらいは見たことがあるだろう。かわいい。

このナゾにかわいい看板はいったい何なのだ。お手水を使うたびに、いつもそればかりが気になっていた。最近知ったところによると、どうやら児童書の出版社である「ひかりのくに」社が手掛けたものらしい。

なんでも、昭和50年代には、水遊びするような不作法な子どもが結構いた、とのことだ。つまり、幼き日の我々の暴挙のおかげで、全国で人気の「水玉ワンピース女子」の看板が生み出されたのである。そういっても過言ではあるまい。自分もそろそろ、真偽不明の武勇伝を量産し、若者を辟易させる役割を担わねばならない年頃である。1の功績を100にし、10の失敗を1にしていきたいところだ。

そんなバチ当たりなかつての少年が、神妙な面持ちで年頭の挨拶にやってくることについて、神様はいったいどう思っているのだろうか。だいたい、そんなことを考えながら、お参りをすませる。

我が町の神社の起源は長く複雑であるが、概ね現在の姿になったのは江戸時代前期であることが知られている。石造りの燈篭や鳥居は江戸時代のものが現在も残っているし、拝殿はさすがに建て替えられているが、旧拝殿も未だ敷地内にあり、18世紀の姿をとどめている。神社の歴史からすれば、人間の入れ替わりなど、あっという間の事だろう。特段気にも留めないようなことなのかもしれない。

街は、人や建物が入れ替わり、一見元の形を維持しながらも、ゆるやかに生まれ変わっていく。寺社仏閣のような特別な場所は、中でも変化がゆるやかだ。そういった場所は、長持ちする「心の定点」のひとつになり得る。「心の定点」は、変わっていく自分と変わらない自分を確認できる時がとまったような場所のことである(おれの中で)。

寺社仏閣は今更そう簡単にたたずまいが変わらないところがよい。毎年行ってみるのもよいし、半ば観光名所になったような場所を10年ぶりに訪れてみたりして、変わっていないことを確認してみるのもいいだろう。宗教っぽい施設をたまにお参りするというイベントが、多くのライトな不信心者にとっていったいなんであるのか、と考えるとよくわからなくなるが、変わらない場所をたずねてみること、には、その時々で思う事があったりなかったりと、何か人の心を整えてくれるものがありそうである。


「定点観測」といえば、映画『スモーク』を思い出す。

『スモーク』は1995年に公開された日米独合作のいわゆるミニシアター系映画で、脚本をポール・オースターが書き、監督をウェイン・ワンが務めた。ブルックリンの街角のタバコ屋を舞台とし、店の主人、妻を無くした常連の作家、何やらトラブルに巻き込まれている黒人の少年、この3人が偶然に交差し、絡まった人生が解きほぐされていくような物語だ。

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何といっても見どころは、物語終盤、タバコ屋の主人オーギー・レン(ハーヴェイ・カイテル)が語る、不思議なクリスマスストーリーだ。それは1976年のクリスマス。万引き犯が落とした財布をきっかけに起こった、嘘か本当かわからない奇妙だが暖かい心の交流の物語だ。オーギーがひとしきり語った後、トム・ウェイツの”Innocent When You Dream”(卑怯なほどエモい)をバックに、サイレント映画のようにモノクロで映像化された「オーギー・レンのクリスマスストーリー」が流れ。映画は終わる。

このラストシーンを味わわんがために、一時期、この映画を毎年クリスマスシーズンに観ることにしていた。『スモーク』は、いわば、マイ「心の定点映画」でもある。

作中序盤でオーギーは、友人で作家のポール・ベンジャミン(ウィリアム・ハート)に、ライフワークが写真撮影であることを明かす。自身のタバコ屋がある7番街と3丁目の角の交差点で毎朝8時。まったく同じ構図の写真を撮り続けているという。まさに「定点観測」だ。その数、現在で4000枚。すべてが同じ写真だが、一枚一枚がすべて違う写真でもある。街を行きかう人、季節、天気、ひとつとして同じであることはない。オーギーは今も写真を撮り続けている。

オーギーから話を聞かされたポールがアルバムをめくるうちに1枚の写真に目を止める。
「ジーザス…見ろよ」
それは亡くなった彼の妻、エレンが写りこんだ写真だった。

ある日7番街で起こった銀行強盗事件。エレンは事件に巻き込まれ、命を落とした。その直前彼女はオーギーの店を訪れ、煙草を買っていったという。もし、エレンが代金をピッタリ払わなければ、もう少し店が立て込んでいたら、なんでもいい、ほんのちょっと店を出るのが遅れていたら、彼女は不幸に見舞われなかったかもしれない。この痛ましい事件をきっかけに、ポール・ベンジャミンの時間は止まってしまっていた。

それでも、ちょっとした出会いや事件を通じて、ポールの人生は再び動き出す。それぞれの人生も。そんな作品だ。

現実は物語のようであり物語のようでない。子供向けのハッピーなストーリーを別とすれば。もっと、複雑だ。簡単に言葉にはできない。

些細なミスや、どうしようもない自然の力で、人が悲劇に見舞われることはなくならない。それでも、我々は日常の中、偶然に起こることに意味を見いだすことが出来る。物語を想像できる。悲劇的で、ハッピーで、数奇で、時に理解しがたい様々なストーリーを。

場所を見て、時を感じたり、誰かの思いついたフィクションに勇気をもらったり、そうしたことが形を変えつつも街を存続させ、人の営みを継続させていくのだろう。

オーギー・レンのタバコ屋の建物は、実際には「211 Prospect Park West、Brooklyn, NY 11215」、16thストリートとプロスペクトパーク西通りの交差点の東角に存在する。オーギーの写真どおりの場所だ。かつてそこは、郵便局であり、金融会社のオフィスであり、パイショップであったが、今は焼き菓子とコーヒーの店だ。中身が入れ替わっても、緑の多い美しい通りに、その場所はまだ存在している。

いつか訪れてみたいものだ。

2011年のストリートヴュウ。まだ街路樹が小さい。

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