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あつた辨天、ひつまぶし(用意された美味 #2)

これは、食卓に用意されている美味を味わうだけのお話。

立てかけてあったメニューに書かれていた「焼の確かさ」とは何だろう。
それは、鰻を噛んで、すぐにわかった。表面に香ばしい焼き目を持ちながら、身が甘く柔らかい。これが確かな焼、そして焼の確かさなのだろうと。
焼き目の食感と身の食感が合わさってとても心地が良く、そこに伴う身の甘みは「用意された美味」だった。誰もがこれを味わいたくて鰻を噛むのだろう。
もともと薬味が大好物なのだけれど、ここに薬味は蛇足ではないかと感じた。けれど、一度「用意された美味」を体験した人間ときて、用意された物はひと通り味わっておかなければと、ひとまず山葵を鰻に乗せた。
ここでおろしただろう山葵は辛みが爽やかで、つんざくような感覚はなかった。なのに、山葵らしいほのかな辛みはしっかりと孕んでいて、身の甘みを強調した。またひとつ、用意された美味だった。
山椒をすくってふるうと、このうえない香りがたちのぼった。それを繰り返し嗅ぎたくて、思わず、二、三度山椒を振るう。かけすぎたかもしれないと思いながら口に含むと、これがまた辛みが過ぎない。ここにある薬味はわかりやすい味覚の刺激のためのものではなく、主役である鰻の引き立て役でしかないのだ。だから、香りがとても良い。飽きやすい味である甘辛いたれの鰻を、いくらでも食べられるようにするための薬味でしかないのだ。和食のための薬味、薬味のための和食。これこそが尊ばれる和食というものなのだろう。
さて、次は茶漬けということだけれど、どうだろう。甘辛いたれに茶をかける。正直、合う気がしない。けれど、用意されているのだから、とにかくかける。何の変哲もない茶をかけてすすると、またひとつ美味が用意されていた。ここに少し山葵を添えると、温められて香りが強くなり、胃に落ちてからもたちのぼる。思わず、湯呑みに注がれた熱い茶をゆったりとすすって、しばらくの間その香味を楽しんだ。
最後は、一番お気に入りのお召し上がり方で、とある。
私は「こんな美味が用意されているなんて」というこの一連の流れがとても気に入ってしまって、どれかひと通りの食べ方だけで締めくくるなんて考えられなかった。
だから、まずはふつうに鰻を噛み、山葵を乗せてもう一口噛み、山椒をかけてもう一口、最後に茶をかけてすべてを呑み込んだ。茶は、熱い方が良いと思ったので、多少行儀が悪いかもしれないけれど、新しく注がれた湯呑みの茶を箸を伝わせて注いだ。もうどんな美味が用意されているのか知っているから、それをさらに昇華するように臨めるのだ。
腹は充分膨れたのに、どうして半ひつまぶしにしたのかを後悔した。用意された美味に、一連の流れに、もっと繰り返し浸っていたかった!
追加で頂こうと思い至れるほど胃は空いておらず、私は諦めて席を立つ。満足したからこその諦念は、なんと贅沢な感触だろうか。
私はまた必ずひつまぶしを食べるだろう。用意された美味の流れに浸るために。

※インスタ再掲

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