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再会

最近、文章を書くことが多い。原因はふたつあって、文章を読むことが多くなっていて、自分も何かしら書きたくなってるってことと、あと単純に、就活のエントリーシート。後者はいつも締切日にあせりながら書いているのだけど、前者はほんとうに書きたいことが多すぎて、しかも文字数制限なんかないので、長々と書き続けてしまう。このあいだ公開した「『叫び声』に寄せて」は2週間くらいかけて書いた3,000字くらいの文章を全部没にして、またいちから1週間かけて書き直した。香水のはなしも書いていたらもう書きたいことが多すぎてわけがわからなくなり、さっさとたたもうと思って、残りの2段落を駆け足で雑にまとめた。それでも読み返すと、こんなこと書かなくてもよかったなって思ったり、逆にこのエピソードも書けばよかったと思ったりして、自分の文章の過不足の多さにおどろく。

出かけた先のカフェで友人と話すとき、あるいは面接官と話すとき、何気ないエピソードへの食いつきがいいことがある。自分がこれは話さなくてもいいやとか、適当に話せばいいやとか、切り捨ててきたものが実は他の人にとっては価値のあるものだったのかもしれないといつも思う。いままで捨ててきた数々のエピソードは、もうどの引き出しにしまわれているのかわからない。たしかにそこにあって、目新しさなんて何もないのに、何もないからこそ、忘れてしまう。

でも、たとえば昼寝をして目が覚めたとき、毛布が予想外に重たくて温いと、以前実家に帰ったときに、ソファでまどろんだ私に母が毛布をそっとかけてくれた、あのときの暖かさを思い出す。就職を機に上京してきた姉とふたりで街を歩いていると、子供のときふたりで湯船に浸かり、シャンプーが嫌だったのでざぶんと潜って頭を濡らしてごまかし、笑っていたことを思い出す。思い出すのはいいことばかりでなくて、高校生のとき体育祭の種目決めの最終日、公欠で休んだ日に最悪な競技を押し付けられたことや、文化祭で1日中調理室でビビンバをつくらされたことなどを、「叫び声」の稽古中や綿矢りさの小説を読んだ時なんかに思い出す。今となってはいい思い出なんて思えない、今でも屈辱的だし、機会があれば謝ってほしいくらいのものだが、思い出したその記憶のみずみずしさにはいつも驚いてしまう。引き出しからでてきた記憶に、まるではじめて出会うかのような新鮮さがある。毎回あたらしく感動したり、嬉しくなったり、いらいらしたりする。加えてほんとうに新しく出会う出来事もあるから、世界の豊かさに圧倒されて、倒れそうになりながらも、それを必死で書き留めようとしたり、諦めて昼寝したりする。

思い出すことは世界に出会い直すこと
井戸川射子「この世の喜びよ」単行本帯より

井戸川さんの作品を読んでいると、私が忘れてしまっていることのあまりの多さに驚く。新しいことは何も書いていないので、気づく、というより思い出す、が正しいのだろう。さびれたショッピングモールで、何を買いに来たのかもよくわからないなか、妹を抱っこする親についていった。トイザらスでおもちゃをみるのは楽しいのに、私がみている棚とは別の棚をみている両親と妹を見て、私がいなくなっても気づかないんじゃないかと思って、わけもなく涙が出てしまったこと。去年のゴールデンウィーク、母と姉と3人で東京に観光に行って、ホテルで父の愚痴や近況を話して、お酒を飲んで寝たこと。たくさんのことを思い出して、そのときどきの感情に出会い直した。過不足のない記憶が、それしかないと思える表現やことばでつづられた「この世の喜びよ」を読んで、私が文章を書きたくなる意味が分かった気がした。いつでも思い出して出会い直せるようにしたいのだ。何かを見て聞いて触って食べて嗅いで感じたことに、文章を読むたび、新しく出会いたい。

私の話のどこに価値を感じてもらえるのか、私にはやっぱりまだわからない。だけど人に価値を感じてもらうことで、思い出すこと、出会い直せる感情がある。それはきっと私自身だけじゃなく、私の話を聞いたり、文章を読んだりしてくれた人にとってもそうなのだろう。互いにそんな感情を分け合えること、それがきっと、この世の喜びなのかもしれない。

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