見出し画像

アタマの中で「挑戦」はできますか?

一般論として、「もっと挑戦しなければダメだ」「挑戦が大事だ」ということがよく言われる。

「挑戦」とはいろいろな解釈があると思うが、「それまで誰もなしえなかったこと」と定義してみる。それを実現するためには、「具体的に行動を起こすこと」が何より大事なんだ、と言われることが多いように思う。とにかく手を動かし、足を動かすことが大事なんだ、と。

しかし、当たり前のことだが、ただ行動しただけで挑戦がうまくいくことはさほど多くはない。というより、いまだに実現できていないことは、昔の人がさんざん挑戦したけれどうまくいかなかった、ということのほうが多いはずだ。

なので、行動する前に「過去の人はどのような挑戦をしたのか?」について調べ、そのうえで「自分たちはどうやってやるのか?」をしっかり考える必要がある。

具体的な行動が不要だ、というわけではない。むしろ具体的な行動は必要だが、挑戦の方法にもいろいろあるのでは、ということだ。それについて少し考えてみる。

挑戦とは、実際に手を動かすこと以外にもあるのでは、というのが自分の意見。挑戦は頭の中でもできるのだ。

頭の中で挑戦することなんてできない、あるいは、頭の中で考えるだけなんてつまらない、という人がいる。そういう人は、厳密にものを考えられていないだけでは、と思う。ちゃんと厳密に思考をすれば、思考の中にも現実世界と同じように制約がたくさんあり、自由に考えることなどできないはずだ。

頭がいい人は、頭の中で現実世界をシミュレーションできる。現実世界でできないことは、頭の中でもできない。なので、頭の中でシミュレーションすることでも、挑戦というのはありうるのである。

わかりやすいのが、理論物理学者とか、数学者だろうか。彼らは具体的に何かを実行しているわけではない。紙とペンを使って、計算をしたり、理論を考えることが仕事である。

当然ながら、自由にものを考えているわけではなく、ガラス細工のように緻密に考えている。それこそ、一部が破綻したら全体が崩壊してしまうようなものを、薄氷を踏むように考えていることだろう。普通の人からしたら、なかなか想像しにくいことではあるが。

小説を書くことも、物理学者や数学者と比べたら難易度は低いが、冒険のようなところはある。作者は自分だが、当然ながらなんでもありなわけではない。作品として成り立たせるためには、ちゃんと必然性があり、辻褄が合っていることが必要。辻褄を合わせながら、かつ面白い物語を書かなければならないので、それなりに苦労する。実際、新しい作品を書き始める前は、それなりに覚悟が必要になる。

もちろん自由に書いていってもいいのだけれど、それだけだと読むに値する作品にならない。誰かに読んでもらうためには、作品でないと話にならないので、ちゃんと厳密に考える、というわけだ。

細部までしっかりと考え抜かれ、配慮の行き届いた作品は、ちゃんと読者の胸を打つ。しかし、それを構築するのは容易なことではない。

数学の世界で有名なのは「フェルマー予想」だろう。「フェルマーの最終定理」ともいわれる。

アンドリュー・ワイルズという人が証明したのだが、あまりにも難解で、きちんと理解している人はあまりいないと言われる。現代数学のさまざまな定理を応用して解かれたので、それらに精通していないと理解できないのだ。

ワイルズが証明する前は、数学者にとっては魔物のような存在として恐れられていた。新進の数学者がフェルマー予想に取り組もうとすると、「やめておけ」と言われることも多かったらしい。なぜなら、フェルマー予想に挑戦しただけで一生が終わってしまった天才数学者が大勢いたからだそうだ。

そう考えると、ただ紙とペンで考えるだけといえども、そこには相当な「冒険」がある、ということがわかる。

まあ、挑戦にもいろいろな種類があるということ。実際に行動するタイプの挑戦もたくさんある。実際に手を動かしてみて、わかることはたくさんあるし、実際にやることで問題が見えてくる、ということも当然あるだろう。

簡単に実現できる挑戦はすでにやり尽くされているという意味で、どちらかというと頭の中で行う挑戦のほうが現在では大事なように思う。しかし、そのためにはそれなりのスキルを身につけることが必要、と。

あなたはどう思いますか?

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。