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どんな人の行動原理も「思想」に行き着く

映画でも漫画でもゲームでもいいのだけれど、フィクションの悪役、特にラスボスになるようなキャラは、自分なりの思想を持っていることが多い。

その思想を体現することが最終目標となっており、その実現のためにいろいろと作中で行動を起こすわけだ。その思想の実現の過程で、現状の世の中の仕組みを破壊していくので、「平和を脅かす悪」の立ち位置になる。主人公はたいてい、そういった敵側の目標を阻止するために戦う、という構図になる。

主人公サイドと敵サイド、どちらのほうが目的意識が強いのかといえば、敵側であることが少なくない。行動原理を究極まで紐解いていくと、最後には「個人の思想」に行き着く、ということである。

敵サイドの思想が完全に悪ではなく、じつは敵なりの正義のために動いていた、というパターンの作品も多い。たとえば、この世界を支配していたのは人類を絶滅から守るためだった、みたいなネタバラシが後半にあったりする作品だ。

現実世界の国家も、たいてい何かしらの理想があって、それを実現するために動いている。東西冷戦の時代などはわかりやすくイデオロギーがぶつかりあっていた時代だ。国家間の争いというよりは、共産主義と資本主義がぶつかっていた、というわけである。

現代の世界は東西冷戦の頃と比べると、かなり思想的にはマイルドになってきているとは思うが。思想の多様性がなくなってきて、統一されてきているともいえる。

共産主義は完全な社会主義国家を実現しようとしたけれど、結局それでは成り立たなかったため、資本主義の要素を取り入れている。資本主義国家も、社会保障を手厚くすることで共産主義に近くなる。

自由競争と社会福祉のバランスは各国が模索中で、ベストなレシピはまだできていない、という感じだろうか。

どんな人でもなんらかの行動原理があるわけだから、その人なりの思想を持っているのだろうか。逆に、思想がない人もいるのだろうか。全く思想がない人であっても、何かしらの行動メカニズムはあるはず。

ある特定の人の言うことを絶対に聞く、とか。その場合は、その特定の人の思想に依存することが自分の思想、ということになるのだろうか。思想の共鳴というか、共同で体現する思想ということになるだろう。考えてみれば、世の多くの「組織」はそういうことをやる集団である。

もっと個人的な動機、たとえばお金を稼ぐことが一番大事、という思想の人もいるだろう。でも、「なぜお金が欲しいのか?」まで深掘りをしていくと、また違ったものが見えてくるかも。キャバクラで大金を使いたい、という人がいたとすると、なぜそれがしたいのか、と深掘りできる。そうやって深掘りしていくうちに、その人の隠れた思想が見えてくるかも。

単に自分の身の安全を確保したいとか、もっと怠けて暮らしたい、みたいなパターンもあるかもしれないけれど。最終的に本能的なものに行き着いてしまう場合は、たいした思想ではない、といえるかもしれない。

思想レベルまで突き詰めていくと、「理解できない」ということはないのかな、と思ったりする。たとえ身勝手な人がいたとしても、なぜそういった行動をとるのか、深い部分まで理解を突き詰めていくと、最終的には理解することができるのかも。

思想を理解することと、それに賛同することはまた違う。全く同じ思想であったとしても、競争というものはあるわけで、「理解すること」と「対立すること」はまた違うのだろう。

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