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フィアース5を迂闊に語る

2021年10月9日(土)、世田谷パブリックシアターで「フィアース5」という現代サーカスを観ました。アフタートークは観れていないので、当日パンフレット以上の情報がほとんど無いのですが、その範囲でこの公演について語ってみたいと思います。

最初にチケットぴあに載っていたのは、こんな写真でした。

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ツイッターでは「バンドみたい」「左から、ギター、ベース、キーボード、ボーカル、ドラム」などと言われてました。

今にして思うと、これは日本の現代サーカスが音楽業界なみのパブリックイメージを初めて求めたという事だったのではないか、と思っています。

実際、このフィアース5が他の現代サーカスと比べて優れていると最も感じた部分は、この「観客からどう観られているか」という意識でした。

円形のサーカス場だと、どこから観られても良いような天衣無縫スタイルにならざるを得ませんが、今回のように一方向から観られることが決まっている劇場では、劇場専用の尖ったテクニックが使えます。

例えば今回は、舞台上にスポットライトの機械そのものがあり、それを演者が動かすと、スポットライトの光が新たに当たった場所で新たなシーンが始まるということをやっていて、それは映像におけるカットインのような演出でした。

フィアース5は、このような素晴らしい照明演出がたくさんありました。
光を制限することで強いコントラストを作り出し、衣装や舞台装置も色が制限されていて、それがまるでモノクロの世界のよう。そこに椅子やTシャツで赤い差し色が入って、その色彩感覚もすばらしいですね。

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従来の「素晴らしいものをやってるから、好きに感じ取ってくれ」スタイルと、今回の「こう、観てくれ」スタイルの差は、料理で例えるとBBQとフレンチフルコースのようなもので、日本の現代サーカスに初めてナイフとフォークが出てきたような感覚を覚えました。

正確には今までもそれが無かったわけではないので、解像度が圧倒的に高かった、強度が著しく強かった、その頻度がたまにではなく常にだった、と言うべきで、さらに言えば今回の照明がめちゃくちゃ尖っててその鬼才があって初めてたどり着いた極地だとは思います。

それでも、私はそこから舞台芸術の基礎を感じ、これで他のジャンルで完成されている舞台作品と肩を並べることができるようになった、と思いました。そこが並んだら、体が圧倒的な分、舞台としても圧倒的じゃない?という理屈をずっと持っていたのですが、それが証明されて嬉しいですね。

ここまで「日本の」現代サーカスと書いていますが、フィアース5のオリジナルは6年前にラファエル・ボワテル氏が作ったもの。コロナ禍で来日制限が厳しい中で出演者を全員日本人に替えての公演という形になりましたが、照明・セットデザインについてもトリスタン・ボドワン氏のものです。

それでもこれは日本の現代サーカスシーンだと思えたのは、大きくはそのストーリーの性質が寄与しています。

フィアース5のストーリーは、サーカスアーティスト5人がそれぞれが七転八倒するシーンをオムニバスにつなぎ、最終的にサーカスの本番に立ち向かうというものでした。

漫画のことを描いた漫画「バクマン」「G線上ヘブンズドア」は名作でしたが、サーカスのことを描いたこのサーカスも素晴らしい内容でした。

フィアース5は個人の苦悩を題材にしているため、キャラクターの個性が表に出てきます。演劇であれば完璧に他者になれる俳優の出番ですが、サーカスでは演者の身体の癖・個性を隠すことはできません。でもそこが、今回の出演者たちを観て、借り物の演技(アクト)ではないな、と感じた部分です。もちろん目黒さんは本来パンイチキャラではなく、そこは演者が台本にあわせに行っているのですが、作品からも演者に合わせられる部分が大きくあったのだと思います。
それが、この作品が単なる輸入では無く、日本のシーンのひとつだったと素直に感じた部分です。

身体でしか現しようが無い(文字で書かれた台本を再現するものではない)動きも沢山見れました。これこそ、サーカスでしか得られ無い脳の栄養素、のように思います。これが文字情報過多のこの世の中でもっと浸透していけば、サーカスにとっても世の中にとっても良いんですけどね。

また、今回はサーカスの準備も舞台として台本に組み込まれているために、綱渡りの準備や空中芸の準備・補佐も最小の手順で美しい演技として行われていたことには、本当に驚きました。

演劇だと小道具の位置も毎回完全に同じ位置に配置します。例えば台詞後に水を飲む演技をする、という時にコップが予定より30cm離れたところにあると演技が崩れてしまうので、そうせざるを得ない。そうやって繊細に組み立てられているのが通常の演劇です。

しかしサーカスだと、それが難しい。安全第一だし、物はそこまで厳密にコントロールできません。危険を伴うアクトの準備や補佐は通常は黒子が不恰好でも時間をかけてでもきっちり仕事をするのですが、今回は演者がそれを演技として見せながら行っていました。これは見た目よりずっと危険で高度な演出です。

そのおかげで、こんな美しいシーンをみることが出来ました。

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宙に浮く演者は完全に人の手で支えられています。これには相当の練習量と信頼が必要で、これはサーカスにしか出来ない芸当です。この団結力は正しくサーカス一家ですね。本当に素晴らしい。

コロナ禍でなければ、これほどの練習時間を取ることは難しかったことでしょう。色々と厳しい制約の中、こんな素晴らしい作品を見せていただき有り難うございました。

しかし。

終演後、劇場で知人と感動を分かち合いたかった。あのシーンはこういう意味だよねと確認しあいたかった。でも、場内おしゃべり禁止で、整理退場なので知人に呼びかけることも出来ず。

仕方ないけど、観劇体験の大きな喪失を感じますね。なんとかならないかなぁ。


ここから、日本の現代サーカスにとって新時代の幕開けになることを期待しています。

追記

決してコロナ禍で代替して日本人出演になった訳では無いそうです。もともと来るはずだったのを代替したとは思ってませんでしたが、コロナ禍じゃないと実現しなかっただろうとも思ってたので、単なる代替であった可能性がゼロに読み取れるように一部書き換えました。

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