#エッセイ『新しい教育の在り方について』

 先月テレビから衝撃的なニュースが飛び込んできました。18歳の自衛官候補生が射撃の訓練中に指導教官を銃で撃つという事件です。この事件の犯人が未成年という事もあるのでしょうが、最近のニュースでは犯人の人物像や事件の背景などあまり込み入った情報を報道しないので、なぜその様な事件が起きたのかという事が今一つ分からないので何とも言いようがないのですが、やはり最近の日本の教育の問題がこのような形で結果として出てきたと思わざるを得ないと考えてしまします。
 多くの人は、人が社会で引き起こす事件や事故の原因をについて考える時に、事件そのものについて考えると同時に、やはり自分の身の回りの過去の出来事や人物を参考に紐解いて考えるという事は多いのでないかと思います。そしてニュースでまず何かの事件を聞くと、その時の出来事から各自の経験上で思った事とを社会のルールや道徳観に合わせていく、もしくはその逆としてルールや道徳感に合わせるように過去の出来事を引っ張り出して考えるという方法で事件を考察する、という方も多いのではないかと思います。もちろん殆どの人が殺人事件の様な凶悪事件を身近に経験はしないでしょうから、なぜこのような人が出てきたのだろうかという社会状況の背景について考えていくことになるとは思うのですが。
    私はこの事件を最初に聞いた時に、この犯人の少年はそれまでにどういった環境に身を置き、どんな指導や教育を受けてきたのだろうかと考えてしまいました。それは憶測でしかないのですが、やはり子供を叱らない、または褒めて伸ばすという方針の教育の下で育ってきたのだろうと考えたのです。これも“ゆとりの教育”の名残なのかは分かりませんが、子供の人格を尊重し、たとえ分別の付かない子供であっても人としての尊厳を守るという観点から考えられた指導方法だったのではなかったのではないでしょうか。それはそれで良い事だと思うので否定できない一面があるとは思っています。この“ゆとりの教育”とは私の少年時代からボチボチ耳にしてきたことですが、近年でこの“ゆとりの教育”が問題になったのは子供の学力低下についてでした。しかし、その教育方法という事にまで枠組みを広げて考えた時、いざ社会にこのような事件が多発してくると、やはりその考え方に問題があったのではないかと思うのです。

 このような事をぼんやりと考えていた時に、自分の本棚に読まないで眠っていた一冊のある本を思い出したのです。今回のこの事件の事を考えるためのヒントになるではないかと思い、それを引っ張り出して読むことにしました。その本とはかつてマスコミで事件として大きく取り上げられ戸塚ヨットスクールについて書かれた本です。驚いた事に戸塚ヨットスクールは現在でも運営していたのです。1980年代初頭に戸塚ヨットスクールがニュースになった時には私はまだ小学生だったのですが、テレビや週刊誌では『スパルタの海』とかいう見出しで連日報道がされていたのを覚えています。今回読んだ本にも書いてあったのですが、確かにその当時は社会全般でまだ体罰に対してどこか容認されているような時代でした。私の世代が子供だった頃は学校でも塾でも指導者となる教師や塾の講師から叩かれたという記憶はあります。当時は叩かれた私自身も体罰の是非を考えるという事すらなかったと思います。戸塚ヨットスクールの事件はそんな社会状況の中で起きた事でした。今回本で読んで当時のニュース報道を思い出しても、在校中の生徒から死者が出たとなるとさすがに行き過ぎがあったとは思うのですが、ではなぜ未だにそのスクールが残っているのかという事がどうしても引っかかってしまうのです。代表を務める戸塚校長もその他のコーチも新興宗教の様な教義を唱えているわけではありません。ヨットの訓練を通じて、唯々子供たちの体を鍛えているだけです。全寮制で規則正しい生活を送らせ、きちんと栄養も休息も取らせる・・そして訓練では最低限の事を教えたら後は自ら工夫し、他人のやる事から学んで上達をするのを見守るという教育方法です。その教育法の意図は“脳幹を鍛える”という事を目的としているそうです。
 この戸塚校長の提唱する“脳幹とは何ぞや?”という事ですが、“自分で生き抜こうとする本能”をトレーニングによって鍛えるという意味合いで使っています。その方法は海中での足のつかない状況で生死を感じさせ、“死にたくない”という本能を呼び覚ますことによって自らでその状況を克服する事で鍛えられるという考え方です。命がけで懸命になるという経験を積むことによって人生の問題に自ら能動的に立ち向かえるようになるという事を狙っているそうです。なるほど、確かにそれは効果がありそうです。事実このスクールを卒業して感謝をしている生徒は何人もいるそうです。ですが、その元生徒たちの多くは戸塚ヨットスクールにいた事はそれぞれの人生でそこに居たという事を自分の黒歴史としてあまり表立って語ることは無いようです。それとは反対に在校中に事故や自殺で亡くなった生徒もいました。そして当時はその事が問題になって報道されていたのです。この死亡した訓練生の事故に対する裁判後の戸塚校長の発言からは、命を預かる者としてどうかと思える発言があるのですが、しかし彼が刑務所からの出所後に受け入れた女の子の死を直面にして、同じ人間である彼が涙を流しているのです。その意味では戸塚校長は決して命を軽い物として見ていないという事も伺えます。裁判の中では彼は力の限りで自分の信念を貫き通したのでしょう。裁判の結審直後という特殊な状況の中での発言であったからこそ、彼の命に対する物の言い方が世間に誤解を与えたのではないかと思うのです。戸塚校長が実直な人間であるのは分かるのですが、ですがその柔軟性に欠ける彼の考え方が訓練中の事故につながったのではないかとも思うのです。本気で子供たちと向き合ったからこそ、嫌がる生徒の顔を海面に押しつけたり叩いたりしたのでしょう。それに対して怯えながらでも必死で立ち向かっていける子になれるなら、その後の人生で自分の抱えている問題を乗り越えて行けるようになるのでしょう。その乗り越え方は理屈では無くて体で覚えるという事が戸塚氏の狙いだという事は理解します。しかし人間にはそれぞれに個体差があります。厄介なのは心の個体差は見た目では判断が出来ないという事です。体が大きくても心のキャパが狭い子もいれば、逆にやせ細って小さな体の子でも驚くほどタフな心を持っているという子もいます。その見極めをしないで一律の方法を強要すればそれはやはり無理があったのではないかと思うのです。その一律の指導を教育ではなく暴力と断罪されたのではないのかと思うのです。では、この戸塚校長のスクールに来る子供たちは何が問題でそこの門をたたいたのでしょうか?正確に言えばなぜここに無理やりに入れられる事になったのでしょうか?
 そこで出てくるもうひとつのキーワードが“情緒障害”という言葉です。この情緒障害とは、簡単にいうと次のような事です。
 『周囲の環境から受けるストレスによって生じたストレス反応として、状況に合わない心身の状態が持続し、それらを自分の意志ではコントロールできない事が継続している状態』
と定義されるそうです。その様な状態のもとで自分の欲求や感情が上手く伝えられなくなり、周りとの関係に問題をきたし、学校等でいじめにあったりして、やがて引きこもりになり家庭内暴力へと向かう子供が親の手に負えなくなりやって来るそうです。学校からも医者からも行政からも見放されて、親が家庭の中で世間の誰からの助けも受けられずに抱え込み、多くの場合はその家庭内では子供の暴力で修羅場になっているそうです。そういった暴力を振るう子の多くは情緒障害を抱えているとの事です。戸塚氏は死に物狂いの環境を子供に体験させて人間としての生き抜く本能を呼び覚ますことを“脳幹を鍛える事”と考えており、情緒障害とは脳幹の未発達と捉えているのですね。そんな状況になった子供たちの気持ちも分からないでもありません。脳幹が未発達な子は一度引きこもってしまうと、外で遊ぶ友達もいなく、みんなと一緒に何かをするという体験も無くなり、そして外界から遮断された疎外感と寂しさ、自分が何をやりたいのかさえ分からない苛立ち・・、それらの事が積み重なってちょっとした事にもイライラして家で暴れるという感じなのではないかと思うのです。親が医師や行政に相談しても『しばらく様子を見ましょう。』とか『好きなようにさせてみては』などという当てにもならない言葉しかもらえない状況で、ほとんどの場合は事態が好転しないそうです。カウンセラーの多くは“子供に逆らってはいけない”と言うそうです。普通に考えても良くなる訳は無いですよね。

 それにまつわる事件として、1990年代の終わりごろに都内のある家庭で、父親が家庭内で暴力を振るう息子をバットで殴り殺したという事件がありました。家の中で暴れる子供の事をカウンセラーに相談したところ、決して暴れる息子に逆らってはいけないというアドバイスを受けていたそうです。しばらくはその通りに過ごしていたのですが、最後には家族全員に限界が来て耐えきれなくなり、息子が寝ている時に父親がバットで犯行に及んだという事です。息子をバットで殴り殺した父親はその直後に息子の亡骸の横に座って“これで終わった・・”と思いながら煙草を一服したそうです。その瞬間にこの父親の心の中にはどんな思いが駆け巡ったのでしょうか。幼き日の息子が泣きながら駆け寄ってくる姿だったのでしょうか、それとも家族で笑った思い出なのでしょうか。その気持ちは私では到底計り知れません。そしてその裁判では妻と娘が被告となった父親を庇う証言をしたと、当時の記事に書いていました。それはこの引きこもった少年と過ごした家族がどれだけ大変であったかという事を如実に示していると思うのです。愛する我が子を自らの手で殺めなければならないとはどんな気持ちだったのでしょう。想像するだけで胸が張り裂けます。私の想像ですが、おそらくその父親は自分の息子に対して犯行の前と後では全く異なる感情を持っていたでしょう。その父親によって殺された少年が情緒障害を患っていたのかははっきりしないのですが、その少年の事について書かれた記事を読むと、おそらくはそうだったのでしょう。どこからも助けを得られないとこのような悲惨な事件も実際に起きえるのです。
 このような問題を抱えてしまった子供とその家庭をどうやって救うべきか、現在の日本ではその有効的な手段は殆ど無いと思います。そして現代社会では家庭内や学校の中で問題を起こさなくても、社会に出て問題を起こすという子が現れ始めています。もしかしたら社会に出る前にすでにその兆候はあったのかもしれませんが、それはなぜか見過ごされているのではないでしょうか。今の時代では子供の育つ環境がどこか少しハードルの低い事になっているのがその原因なのかもしれません。ハードルが低くなった原因は社会全般に見られる平等主義がまず挙げられます。出来ない子に合わせて基準を下げていく教育なんていうのは象徴的です。近年では勉強でも運動でも順番を付けるという事を避けていく傾向がみられます。人間もやはり動物ですから生存競争を思わせる様な争いという一面はあります。その競争で負けるという事を味わせるということは成長の段階ではやはり必要だと思うのです。負ける事は恥ずかしい事ではありません。そこからどう立ち上がるかという事が大切なのですね。その時に子供が自分自身と向き合って考えるという事が大切と思えてならないのです。どうして私たち日本人は競争心を削ぐというような事を考えるようになったのでしょう。それにはもう一つ奥に考えられる事があると思います。それは経済的な豊かさという事がその温床になっているのではないでしょうか。戦後の日本は驚くべきスピードで経済発展を遂げてきました。戦後数十年を経て私たちは生まれながらにしてある一程度の豊かさを享受しています。それは頑張らなくてもどうにかなってしまう社会の出現でした。不必要な競争を避け、伸び伸びと・・というのも悪くは無いですが、そこには自分自身と真剣に向き合うという緊張感の欠けた、もしくはそういう経験の出来ない生活が用意されてしまいます。だからこそ自分の人生の中で何か問題が発生した時にどうしていいか分からないと思考停止をし、自らの殻に閉じこもってしまうような子が多くなったのでしょう。それがいじめなのか、受験の失敗なのかはまちまちだと思います。そして一度引きこもってしまえば、家の中で好きな漫画を読んで過ごしたり、一人でテレビゲームをしていれば人から傷つけれらる事もありません。こうなるとますます他人との距離の取り方が分からなくなります。また家庭の中の人間関係は評価より情愛が基本的には優先されます。情愛だけの関係は甘えが許される世界でもあります。その中での甘えが抑えられない苛立ちの感情に変わり、甘える事が出来る人間(親)に向かった暴力へと繋がっていると思うのです。ですが一歩家の外に出るとそこは評価が優先される世界です。仮に無理矢理にでもそんな状態になってしまった子を、外の世界に連れ出して何のケアも無いままに評価を主体とした世間に触れさせたとしても、しばらくはおとなしく我慢が出来るかもしれませんが、何か一つ自分の気に入らない事があれば思いもよらない方法で突然人を傷つけるという事が起きるのではないでしょうか。その結果がこの間の自衛隊の中で起きた事件だと思うのです。
    この少年はおそらく、事件を起こすまでに学校や家庭内でこれといった問題を起こすことは無かったのでしょう。いうなれば、この子は大人へと成長をする段階で戸塚ヨットスクールの様な矯正施設に行く必要は無かったのでしょうが、でもそんな彼も戸塚氏が言うところの脳幹が鍛えられてなかったのでしょう。チョッっとしたことが許せなくて上官を射殺してしまったのです。そこに銃があったというだけの理由によってです。家庭の中で親ではどうにもならない子が戸塚ヨットスクールと共にクローズアップされてしまいがちですが、実はその予備軍は社会のいたるところに存在するという事を見せつける事件だったと思うのです。近年の叱らない教育と、ハラスメントの無い職場でそこに現れてくる一部の子は傷つきやすくそして無気力な青年です。戦後の私たち日本人は、物質的に多くの物が比較的簡単に手に入るという意味においての豊かさを手に入れ、それと同時に何かに対する強い憧れを持ちづらくなっています。少しのお金を出すことによって多くの物が簡単に手に入れば憧れは持ちにくいですからね。全ての欲望や憧れが物欲とイコールの関係ではありませんが、物質的な物に対する欲望だけであってもそう考えてしまします。それに加えて平等という名の民主主義の考えの下、行き過ぎと思われる人権尊重により厳しい指導と教育が施せない、もしくは施さないという時代になっています。人は社会の中で経験を積み成長をしていきます。そしてまた“人は時代の子”です。その時代の雰囲気と空気感の中で、その時代なりの感性と考え方を身に付けます。その結果として街の中には覇気を感じられない青年が出てくるという現象が現れているのではないかと思うのです。別の言い方をするなら、現代の日本社会では、自らが何かの“良さ”を思い描いてそれをつかみ取りに行くという青年が圧倒的に少なくなったのでしょう。憧れ無き社会が無気力な人間を育てるという事が問題の根本とでもいえるのではないでしょうか。憧れの内容は何でもいいと覆うのです。人の置かれた状況によってはその憧れは積極的な価値でない場合の事だってあるでしょう。ある子にとっては素敵な未来を思い描くかもしれませんが、また別の子ではいじめから抜け出すという事か憧れかもしれません。これらの憧れや希望を社会の豊かさという状況が削いでしまうなら、これから先に待ち受ける日本の未来は何となくですが、あまり良くない姿として見えてくる気がします。やはり目指すべきは豊かさと共存しながら誰もが憧れを抱ける様な社会だと思うのです。それはかつて私たち日本人が目指してきた事なのかもしれません。昭和三十年代から四十年代の高度成長期には“今日より良い明日”を目指し、『明日は今日より良くなろう』と無意識的に私たち国民のほぼ全員がその中で夢中に過ごしたのではないでしょうか。その様な事を時代の空気感として多くの人の中で共有出来たというのは幸せだったのかもしれません。もしその仮説が本当なら、今の日本は豊かさを手に入れることによって、未来への希望(憧れ)を失くしてしまったという事なのかもしれません。それがバブル経済の崩壊とリンクしているのかという事になると、その因果関係には多少の疑問も持つのですが。
 社会全体で失くしてしまった共有すべき憧れがなくなった今、各個人がそれぞれの憧れを抱いて自らの足で歩きだせるという事を目的として、戸塚氏はスクールを開いているのでしょう。もちろん人が何を目指し、何に憧れるかという事は人それぞれでいいと思うのです。しかし人が社会からその方向性が掴み取れなくなると一程度の割合で自分の目指すべき物が見つからなくなってしまうという子供が出てくるのですね。そしてその様な子供の中から人間の本能としての自ら生きるという気力の育たなかった子が出てくるのでしょう。そんな隙間に落ち込んだ子の為に戸塚氏は今も活動しているのだと思うのです。その方法は社会から隔離された場所での非日常的な行為の中で行われる訓練です。もちろん体罰の無い教育方針に変えた今ではその気になれば脱走も可能な環境の様ですが・・。そこに在籍している限られた時間の中で子供に人としての本能を鍛えるとなるとやはり暴力的な指導にもなるかと思います。ここで私がどうしても疑問になるのは、そこに入って来る子供の全員がヨットスクールに入る事を全く望んでいないという事と、またヨットの操舵法を学ぶ事を必要ともしていないという事です。戸塚氏は身をもって試練から学ぶという意味でヨットを一つの方法としている訳で、べつにそれはヨット以外の何でもいいと思うのです。限られた時間の中での訓練で効果を出すならそれは思わず手も出るでしょう。でもそこを卒業した後に待っている実社会では必ずしもそこで身に付けた事が発揮されるかという事は疑問になるのです。やはり人間を鍛えるという方法は特殊な施設の中では無く、実社会の中で実際の活動を通して訓練される方がいいと思うのです。戸塚氏もそこはよく分かっているようで、『ここを出てからが大切なのです。』と語っています。そのためには、まずは情緒問題を抱えた子が何を望んでいるのかという事を明確にしないといけないのでしょうね。おそらくはそこを探るのが一番大変なのかもしれないですが。
 では、どのような教育方法がいいのでしょうか。第一に大切と思われるのはやはり教育の為の環境です。それは設備のそろった敷地や立派な建物を用意するといった箱物とは違い、世の中全体で共有される思想的環境がある社会だと思うのです。思想といえば難しく聞こえますが、それぞれの希望を見出すような夢でいいと思うのです。『明日は今日より良くなろう』という事をそれぞれの人がそれぞれの立場で思い描かないと、自ら何かをしたかいう事にはつながらないと思うのです。その気持ちが湧いての初めて気力がわいてくるのだと思うのです。その気づきを指導の中で人に合わせて促すのがいいのではないかと思うのです。それでも義務教育のように通り一辺倒の教育は避けて通れないでしょう。義務教育はそれはそれで大切な場だとは思うのですが、その学校という所の中で行われる事は注意して考える必要があると思います。こうなってくるとこの夢や希望はいったん横に置いておかないといけません。子供を追い詰める体罰は、学校の様な一律の教育の現場でこそ起こり易いと思うのです。そこが問題の始まりとも考えられます(それとは別にいじめの問題もあるのですが)。暴力で人を制するのは確かに楽な方法です。私自身は教師をしたことが無いのでよく分からないのですが、指導中に体罰をする人はおそらく“この子の為”とみんな一律に言うと思うのです。ですがその手を挙げている瞬間は単に怒っているだけだと思うのです。その“怒っている”と“叱っている”の区別がつかなくなっているからこそ問題なのです。WBCで日本代表を務めた栗山監督は体罰について自身の著書でこう言っています。
『私は、体罰はある意味有効的な瞬間があると思います。しかしそれが有効的だと分かっていながら使わないという方法を選ぶのです。』
私も色々な所で体罰の話を聞いたり、読んだりしましたが、おそらく私の知る限りではこれが一番いい考え方と思うのです。そうなると、じゃあどうやって?となるのですが、それは基本的にその人(指導する人)のやり方に頼るしかないのですね。ただ一つだけ言える事は、教えられる側が気付くまで待つという事が大事なのだと思うのです。その気づきをどうやって促すかという事が難しいのですね。日本の教育は、勉強だけに限らず生活習慣その他のマナーに関しても形から入るという側面があります。私自身は形から入る教育という事は嫌いではないのですが、型という事にはめ込もうとし過ぎるから力に訴えた教え方になるのでしょう。教わる側の気付きを待つというのはとても根気がいる事です。私たちの日本社会では比較的“やり直す”という事に口で言うほど寛容ではありません。一回ドロップアウトをしてしまうと、中々元の道に戻ることは難しく、別の道を探すという事も容易ではありません。みんなそこを熟知しているからそこ教育の場では子供を型にはめてしまい、そこからこぼれていく子供が出てくるのだと思うのです。そうやって出てきた子に対して早いタイミングで手を差し伸べるという事が大切と思うのです。それはいじめ問題でも同じです。
 ここまで考えてみても具体的な方法でどの様な教育方法が正解かという事を私の中でまだつかみ出せなくて残念ですが、その考え方だけは私なりには出せると思うのです。それは一律の型にはまった人生観という事を一度捨て去るという事です。義務教育も必ず小中学校という形でなくてもいいと思うのです。その先駆けがフリースクールの存在だと思うのです。どこからでもやり直せる社会に対する私たち国民の寛容性が大切ですね。そしてそれぞれの子が自らの中で憧れを抱いたならどんな形でもそれを支援してあげられるようにすることです。その時に大切な事はせっかく見つけたその道で、ある程度の我慢と厳しさを味あわせてやる事もセットで入れないといけませんね。少しチャレンジして駄目ならすぐに諦めるという事を簡単に容認しないでそこはこだわらせ、その道で競争をさせ、時には失敗も味わわせるという事は経験させる。夢が破れて次の世界にチャレンジする時も、それまでの事をきちんと総括してそこの中から何を学べたかという事も噛みしめさせるという事までしてから歩ませるという方法がいいのかなと思います。
 私たち日本人の大きな弱点の一つは変化を嫌うという事だと思います。私たち日本人は今までの習慣やルールを変更することを嫌い、そして人と違った事をする事を嫌います。世界は常に変化しています。新聞やニュースではダイバーシティという言葉で多様性の受け入れを提唱しています。それは日本国内では外国から来る多様な民族の受け入れという事だけで解釈をされていますが、そこは一つ解釈を広げてでも私たち日本人の中でそれぞれの人の人生観とその生き方の多様性を認め合うという所まで広げるべきなのではないかと思えてなりません。人のやる事で絶対的な成功の法則は無いと思います。どんなに良い方法でも時間の経過と共にほころびが出ますので、その教育方法も時代と共にみんなで悩みながら考えて変化をさせ、でもその基本理念は変えないという事が出来るといいと思うのです。そしてまず最初にすべきことは、私たち日本人の固定観念を叩き潰すという事なのかもしれません。




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