太陽と月

朝の、満員電車なんか、嫌い。

いろんな人がi押しこまれるようにして乗る朝の電車。大学に通う月子はこの通学時間が煩わしく、苦手だった。後ろから無理やり押されたり、鞄を引っ張られたり、舌打ちされたりと、とにかくろくな目に合わないからだ。その上、今日は運が悪く女性専用車両に乗れなくて、サラリーマンの太った中年男性や、香水のきつい匂いのする女の人たちと密着するようにすし詰めされている。月子は心を無心にしてじーっと窓の外を眺めて、はやく降車駅につかないかと、ただそれだけを考ていた。

「あっ…」

ようやく最寄駅に着いたかと思えば、後ろから体格のいい中年男に突き飛ばされてしまう月子。彼女を突き飛ばした男は謝るどころか、自分のゆく先を阻まれたからと舌打ちまでする始末だ。なぜ、すみませんの一言が言えないのかと月子は心でため息をつく。転んだ際に鞄の中身が音を立ててぶちまけられてしまい、誕生日に友人からもらったお気に入りの鏡は粉々に割れてしまった。転んで擦りむいた膝は破れたストッキング越しにでも血がででいるのがわかる。ホームに膝をついている彼女を遠巻きに眺め、すぐに興味を失い通り過ぎる人達。 月子はどうしようもなく惨めな気持ちで涙を堪えぐっと唇を噛みしめた。そんな月子の 目の前にすっと手が差し伸べられた。その手は少し骨ばった、でも、長く綺麗な指で、思わず見とれてしまうほどで、その手を借りてようやく立ち上がることができたのだった。

「ありがとうございます・・・すみません」
「擦りむいてるね、歩ける?」
「はい、大丈夫ですから。もう、いいですから。」

月子は顔をあげ、手を差し伸べてくれた相手の顔を見て少しだけ後悔した。月子の顔は恥ずかしさで真っ赤になり、言葉もしどろもどろになる。膝をすりむいて泣きそうになっていたことなど、どこかに吹き飛んでしまっていた。完全にパニックになっている。美しいその手の持ち主は、彼女を助けた人は誰もが足を止めて振り返るような、そんな綺麗な人だったからだ。すらりとした佇まいに思わず、ほうとため息が漏れてしまうほどだった。人前で転んでしまったことと、綺麗な顔の恩人を目の前にしたことで頬を紅潮させ、ぼーっとしている月子をよそに、その人は散らばってしまった鞄の中身を拾い始めた。その様子に月子はぎょっとしていいですから、と止めたが、結局その人は荷物を手早く拾ってしまった。膝をすりむいている、真っ赤な顔の月子をホームのベンチに座らせた。

「やっぱり結構擦りむいてるね。」
「ぼーっとしてたのが悪いんです。だから仕方ないんです。」

赤く滲んだ膝小僧が目に入り、月子はため息をつく。よくどんくさいと友達に笑われるが、それにしたってこの仕打ちはひどいと思う、と考えているとじんわりと浮かんだ月子の涙をその綺麗な人は見逃さなかった。そっと綺麗な長い指で月子の涙を拭い、笑う。その仕草はおとぎ話に出てくるような本当の王子様のようで、月子は耳まで赤くして、じんじんともつ熱をさますのに必死になる。

「仕方のないことなんて、ないよ。」

月子の膝の痛々しい擦り傷を濡らしたハンカチで拭って、そっと絆創膏を張りながらその人はそう言った。月子はその言葉にその人の優しさを感じたがそれと同時に意地というか強い何かを感じた。でも、それでもそれはこの人が美しいからなんじゃないかと、そう思っていた。もし私がこの人みたいに美しかったら、仕方ないことなんてないって思えたかもしれないけれど、やっぱり世界には仕方ないことは溢れているんじゃないかとため息をつく。すっと立ち上がったその人は月子にお大事に、と言葉をかけその場を立ち去ろうとしたが月子はその腕をとっさに掴み引き留めた。驚いたように月子を見つめるその人に月子は真っ赤になりながらも言葉を絞り出す。


「あの、メールでいいので教えてください。連絡先」
「え?」
「こ、今度お礼がしたいんです!」

あんまりに必死な月子の態度に気圧されたのかはわからないがその綺麗な人は月子にメールアドレスを教えてそしてようやくその場を去り、ホームに残った月子は携帯のディスプレイに映る名前と、メールアドレスに少しだけにやけながらそっと胸に抱き締めたのであった。

「月子ー、月子!」
「な、なに?」
「なに?じゃない。出席ある授業なんでサボるかなー」

黒髪を男の子のように短く切っている美空に出席丸つけといてやったぞー、感謝しろー、と月子のスカートを捲り上げながら笑う活発そうな女子。月子は少し赤くなりながらスカートの裾を押さえながらありがとうと言う。彼女は月子の友達の美空だ。美空は月子のようにどんくさくはない。むしろ運動が得意な女の子で、いつもパンツスタイルの動きやすい格好をしていて、冬でも日に焼けて真っ黒な肌が彼女を健康的で素敵な魅力を引きたたせていた。いつも本ばかり読んでいる月子と日に焼けたスポーツ少女の美空の組み合わせは驚かれるものの、結局は足りないものを補い合っているんだよね、といわれるような二人だった。

「もしかしてまた転んだ?」
「またじゃないよ、別に。」

月子の膝小僧の新しい絆創膏に美空は目を留めてどんくさいなーとつぶやく。その言葉に月子がすこしふくれっ面をするとむに、と頬っぺたを突つく。思った以上につまめた肉に美空は驚き、月子はもしかして太ったなんて若干青ざめ、しかし次の瞬間には二人で声をたてて笑う。温かく、桜の舞う季節で、何となく授業のために教室に入るのはもったいない気がして、二人はベンチに座り桜を眺める。

「今日ね、朝の電車でね」
「また痴漢!?」
「ち、違うの!痴漢じゃなくて、凄く綺麗な人に会ったの。」

そう、凄く綺麗な人だった。男の人なんだけと細いし、でも背が高くてモデルさんみたいで、異世界の人みたいだった。思い出してぽーっと顔を赤らめていた月子を見て美空はにやにやとする。

「ついに月子にも春がきたかー。」
「そんなんじゃない、けど。凄く綺麗な人だったの。」
「綺麗ねぇ…て女の人なのか」
「う、ううん。多分、男の人だと思う、の…」


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