形容詞とポテサラ
SNSとかで「○○でつらい」と書いている人に対して、「もっとつらい人もいます」とコメントしている人を見かける。
いわゆる不幸マウンティングと呼ばれるものだけど、私はこれ、見るたびにものすごく違和感があった。
不愉快とかもあるのだけど、それ以前に、「文法的に間違っている」ような感じがするのだ。
で、考えてみて、わかった。
「つらい」という形容詞が何にかかっているか、発信している人とコメントしている人で違うのだ。
「○○でつらい」と発信している人は、自分の感情について言及している。
つまり、翻訳すると「○○という状況にあり、私の心はつらさを感じている」となる。つらいという形容詞が自分の感情にかかっている。
一方、それに対して「もっとつらい人もいます」と言う人は、つらいという形容詞が感情ではなく、置かれている状況にかかっている。
つまり、「もっとつらい状況の人もいます」だ。
前者が「自分の感情」について話しているのに対し、後者が「置かれている状況」を比較するから、噛み合わない。
通りすがりの私が「なんか変」と立ち止まるほどに、ちぐはぐだ。
◇
「つらい」は形容詞。そして、「美味しい」も形容詞だ。
私は昨日ポテサラを食べて、すごく美味しいと思った。
だけど、もしも私が「ポテサラ美味しー!」って投稿したとして、
「私が今食べている○○のほうがもっと美味しいです!」
とコメントしてくる人はいないと思う。
それってきっと、多くの人にとって「美味しい」が個人的な感情をあらわす言葉として認識されているからではないだろうか。
言わずもがな、「美味しい」と感じることは、国内で上位100名に許される特権……とかではない。あっちでもこっちでも同時多発的に、日本中でたくさんの人が「美味しい」と感じている。
個人の感想だから比べようがないし、「あなたは今、美味しいと思っているんだね。私も今、美味しいと思っているよ」でいい。
「自分よりもっと美味しいもの食べてる人もいるんだから、私なんかがポテサラくらいで美味しいって言っちゃいけない……!」とか、思わない。
何を思うかは個人の自由なんだから。
なのに、これが「美味しい」じゃなくて「つらい」や「悲しい」になると、とたんに「私のほうが!」の人が出てくる。
形容詞という点では同じなのに、なぜだろう?
「美味しい」と感じることが一部の人間に許された特権ではないように、「つらい」と感じることは特権じゃない。同時多発的に、たくさんの人がつらいと思っていいし、それを表明してもいいはずだ。
なのになぜ、「あなたは恵まれてる!」「私のほうがつらいんだから、つらいとか言うな!」と言い出す人がいるのだろう。
「あなたはつらいんだね。私もつらいよ」でいいじゃん。
比べて、勝って、それを相手に表明して。それで、相手に何と言ってほしいのだろう。
「そうですね、私なんかあなたに比べたらぜんぜんつらくないですよね。あなたのほうがずっとずっと、つらいですよね」と言われたら、満足なんだろうか?
それで相手が「つらい」を取り下げたところで、自分のつらさは変わらないのに?
◇
私はあまり正しくも優しくもない。
だから、私が不幸マウンティングに対して思うのは、「そういうこと言っちゃダメだよ! 言われた人の気持ちも考えようよ!」みたいな前向きなことではない。
「形容詞が感情にかかっているか状況にかかっているか」みたいな、理屈っぽいことだ。和牛の屁理屈漫才での水田さんみたいな感じ。なんていうか、自分の中で整合性がとれないことは気になって仕方ないだけ。
だから、形容詞ひとつとっても、ネチネチ思考し続けていたい。
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私が40人分の鍋を作ったら友達に「相撲部屋の女将w」とネタにされた上、おかわり分が足りなくなってテンパった話です。切り抜けられないピンチはない。
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