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冷めた珈琲と誰かのハート

 年振りかに五月にマトモな連休をとることができ、ずっと作業でウチにこもるのも少々勿体なかろうか、などとちょっとしたドライブがてらにランチに出かけたのがゴールデンウイークも終わりに近づいた某日の話だ。といっても特に目新しい所を探すでもなく向かったのは有名チェーン店、名前はコメだが主に出てくるのは珈琲パンあのお店である。ただ、市内にある車で20分くらいのところではなく、時間でいえば倍くらいかかる隣の市のお店のほうが、どちらかといえば『行きつけ』なのは変わっているといえば変わっているだろうか。
 そちらの方が新規オープンが早かったことと、水の清らかさで有名な自治体であることから少々の時間をかけてでもそちらに向かうことにしている。近場にパッと行ってハイ終わり、でも味気ないし、何より水が美味しければ珈琲だって美味しい。自宅以外でいただくならやっぱり美味しい方がいいじゃないか。

 午過ぎの店内は平日と比べれば人が多めで、混み合ってはいないまでも席もそれなりに埋まっていた。この時間に家族連れや中高生らしきグループが散見されるのはGWならではだ。あいにく連れ立ってどこか行く相手もいないものだから、いつものように二人掛けのテーブルに一人だけで着いてメニューをパラパラと眺めてみる。
 期間限定のスイーツにはいつでも興味を引かれるが、お手頃価格で結構なビッグサイズを提供してくれるお店なので軽い気持ちで頼んでしまうとお腹にやさしくないのは間違いない。さらにこの二日前にファスティング断食を試した(そしてそちらは微妙にうまくいかなかった)のもあって、多少なり縮んでいると思われる胃ではデザートまで食べきるのは難しいだろう。注文はサンドイッチとコーヒーのみに留めておくことにした。オーダー後、間もなく運ばれてきたコーヒーの馥郁たる香りが鼻の奥をくすぐる。

 とコーヒーとで代わるがわるに喉を濡らしながら、さてどのくらい経っただろう。頼んだ食事がなかなか来ない。混み具合はそれなり、とはいえ珍しい話で、いつもならそう長く待つこともなく提供されているはずだ。
 ただ、その日はSNSでまで『今日はのんびりする』と宣言してしまった後でもあったし急くこともない。サンドイッチのパンをトーストにするよう頼んだから、フツウのよりは多少の時間もかかるのだろう。リラックスのためにこの空間を選んだのだ、味わうのは舌の上に乗るものばかりでない。雰囲気とか空気感まで満喫するのが醍醐味というもの……。
 ……と、穏やかな午後のひとときに浸っておきたいのはやまやまでも時計を見れば三十分ほど過ぎていて、さすがにおナカが空いてきた。まさかね、と思いながらも、後からはす向かいのテーブルに着いた高齢の御夫婦の方をちらと窺ってみると、そちらの方が先に料理が提供されている様子。これはどうやら、その『まさか』であるようだ。おそらくこちらのオーダーが通っていない。
 世の中ずいぶんベンリになったといっても、最後はまだまだ人の手だ。ま、しょうがない。あとちょっとだけ待って気付かれなければまた呼び鈴を押すかな、と構えたところでカウンター周りが少しばかり騒がしくなり、聞き耳を立ててみるに、どうやらテーブルひとつ見落としていたのにスタッフのうちの誰かが気がついたようだった。グッジョブ、これで何も考えずに待てる。

 どなく料理が運ばれてくると、スタッフが何度か謝罪の言葉を述べてくれた。手違いがあったのは事実らしい。しかしあまり気にするほどの事でもない……と、言葉で伝えていいものかどうかは、やや憚られた。コーヒーは男性のスタッフが運んでくれたが、目の前で申し訳なさそうにしているのは女性のスタッフだ。それもずいぶん若い。おっさん一人で座っているだけでも得体が知れないだろうに、都合、ひとこと詫びまで入れなきゃならないとなればちょっとした恐怖体験ではないか……。
 などと考えたりもして、こちらから声を掛けるまではせず、つとめてにこやかな表情で注文の品を受け取った、つもりだ。それが最適解かどうかは、私にもわからないが。
 普段よりいくらか待たされたのは事実、とはいえ実際にミスした側は刹那に肝を冷やしたのでないか。場所や環境が違っても、自分が何かしらやらかした時のことを思い返せばその焦りや怖れは想像に難くない。自分の心に火を付ける難しさを知っているなら、誰かのハートから不必要に熱を奪う愚かさも、せめて知ったつもりでいたいじゃないか。

 少しばかりコーヒーが冷めただけで済んだのなら、それも僥倖ということにしておくとしよう。こうしたふとした気付きの切っ掛け、文字通りの糧になるなら、たまには冷めた珈琲も悪くない。

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