見出し画像

不安について、当たり前の事を言います。

先日の令和台風19号でわたしはすごく怖い思いをした。ひとりと2匹暮らし。守るものはあれど、守ってくれる人はいない。


うちはマンションの二階。雨戸がなく、川が近かった。まわりの建物にしっかり囲まれてるので何かが飛んできて窓ガラスを割る心配はあまりしてなかったけど、シンプルに風力で割れるんじゃないかと思った。

養生テープがツイッターでバズった。窓に貼れば割れた時にガラスが飛び散らないが、強度が弱るという事で、私は割れない事に全額ベットし貼らなかった。


今思えばたった数時間の事だったが、家の前の木や窓の揺れ方は尋常でなく、地震も起こり、これがいつまで続くか分からない状況はまるでこの世の終わりだった。


大丈夫?のラインは何人かとやりとりしていたが、不安は埋まらなかった。


私はあまり死ぬ事が怖くない人間だと思っていた。
眠るのと同じ感覚だと思っているし、やりたい事はまだあるので自ら死ぬことはしないけど、急に死んでも悔いのない程度には頑張って生きている。(ただし痛いのは別!)

じゃあなにが不安だったんだろうか。と思う。
窓が割れること?いつもと違う地球の表情?

思えばいつだって未来なんか不確定で不安なものだ。逆に今まで何に安心して生きていたのだろうか。
必ず来る明日、変わらない部屋、同じ世界で生きている友人、ああなんかありきたりな結論しか出ないけれども、

不安に思う事は当たり前だ。一秒先に何が起こるか本当は分からない。
その中で、安心している、リラックスしている状況というのは当たり前のものではないし、率先して獲得するべきだ。(油断とはまた違う)

明日職場で何言われるか分からなくて不安、プレゼンがうまくいくか分からなくて不安、恋人とうまくいくか不安、仕事を変えたけど馴染めるか不安…

予測不能の未来に抱える不安を完全に解消するのなんて、無理!


準備などある程度外堀を埋めたならあとは考えず、今やれることをする(寝る準備をする、ゲームをするなど)だけで良いのだ。
それこそ地に足をつけ、現実と向き合うということではないか。

つまりあの日私はじっと窓を見つめ続けるのでなく、お笑いを見て笑ってれば良かった。

そして問題なのは、そんな事は分かっていたのにできなかった事だ。

パートナーがいればな、と、離婚して半年この日ほど思ったことはない。台風の中不安に取り憑かれるのは正常に危機管理能力が備わっているとも言えるが、
誰か隣にいて😢という気持ちは「自分ではないもの」に根拠なく必要以上に頼りすぎている甘さでもある。

隣に誰かいようといまいと、不安は自分自身で解消しなければならない。
ああ、なんと人間とは孤独なものであろうか。

気がまぎれるという観点では誰かと一緒にいることで不安の強度はだいぶ違っただろう、
しかしその隣にいる人にとって、私は台風の中笑っていられる人間になりたい。

(窓割れなくてよかった)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?