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「オッペンハイマー」に願う、希望の連鎖反応

クリストファー・ノーラン監督「オッペンハイマー」が公開されました。

2024年3月29日。ようやくです。

北米公開は2023年7月。同時期公開の「バービー」と共に大ヒットし、先日の第96回アカデミー賞では「作品賞」「監督賞」「主演男優賞」「助演男優賞」「撮影賞」「編集賞」「作曲賞」の7部門を獲得。2023年を代表する作品といえるでしょう。

同じアカデミー賞で「ゴジラ-1.0」が視覚効果賞を獲得しました。「原爆の父」と共に、原水爆が生んだゴジラがオスカーを獲るのは、なんとも感慨深いですね。

原爆開発のための「マンハッタン計画」のリーダーであり、「原爆の父」として歴史に名を刻むロバート・オッペンハイマーの伝記映画。

当然、広島・長崎への原爆投下への言及は避けられない。アメリカでは「原爆は太平洋戦争を早期に集結させ、多くのアメリカ兵の命を救った」という認識が根強いとされています(近年は変化しているようですが)。原爆の扱い方次第では「日本で公開すべきか?」と懸念されるのも分からなくもありません。

無事に公開された今、見たうえで思うわけです。

こんなに公開を遅らせる必要はあった?

公開に二の足を踏だ人たちは映画を見たんでしょうか。原爆投下被害の描き方が甘いというのも分かりますが、そういう映画ではないでしょう。原爆の父を描いたアメリカのエンタメ映画として、誠実な作りだと思いました。

「オッペンハイマー」は、とても誠実な映画です。
そして、とても良くできた映画です。

クリストファー・ノーランのフィルモグラフィーの中でも、上位にくるであろう傑作。今のところ「ダークナイト」の次に好きです。

ノーラン監督については、前作「TENET」評で詳しく書きました。

クリストファー・ノーランという人は、「映画」という表現手段そのもの自覚的で、その可能性を追求し続けています。

ノーランは、映画は映画館で見られるべきだと信じている。

だから、コロナ禍真っ只中の2020年9月でも「TENET」は劇場だけの公開にこだわった。配信への考え方の違いからワーナーと袂を分かち、ユニバーサルで「オッペンハイマー」を作った。映画館だけの体験としてIMAX撮影にもこだわっている。今作ではIMAX撮影用のモノクロフィルムを新たに作ったそうです。IMAXって何ぞや? については「TENET」評をご覧ください。

ノーランは、映画は時間芸術だと信じている。

だから、編集による時勢の入れ替えを多用する。映画の中にしか存在しない時間軸で観客の感情を動かす。「TENET」では時間の逆行を視覚的に表現し、行くところまで行った感すらあります。

「オッペンハイマー」でも、1954年の聴聞会と1959年の公聴会が同時進行しているように見える編集になっています。マンハッタン計画、トリニティ実験とオッペンハイマーの軌跡も絡んでくるので、複数の時間軸が混在します。

そう聞くと「分かりづらそう…」と思われるかもしれませんが、そんなことありません。過去作では時間軸の操作が目的化している感すらありますが、「オッペンハイマー」は、物語とテーマを伝わりやすくするために時間軸を整理していると思います。

スピーチのシーンや情報アクセス権にこだわる姿勢など、前半と後半で対比・連結するような構造がちりばめられ、とっ散らかった感じはありません。

後半明らかになるストローズの企みも、分かりやす~い解説が入りますしね。

大事なのは企みそのものではなく、なぜ彼が企んだのか? オッペンハイマーを陥れたのか? です。

そこにこそ「オッペンハイマー」のキモがあるとおもっています。

ストローズを突き動かしたもの。名言こそされませんが、「天才に憧れる凡人の嫉妬」ではないでしょか。

ロバート・ダウニー・Jr.が演じたストローズという人は、学者ではなく靴売り(実業家)として成功し科学者を束ねる立場にまで登り詰めた。「卑しい」という言葉には拒否感を示したことからも分かるように、自身のキャリアに誇りとコンプレックスを同時に抱えている。

挙句、オッペンハイマーには軽んじられ公衆の前で虚仮にされる。

ストローズが仕掛けた復讐。「アマデウス」におけるモーツァルトとサリエリにも通ずる構図が「オッペンハイマー」の物語の中心に据えられました。

「アマデウス」を例に出したように、この構図は珍しいものではありません。ノーラン自身も「プレステージ」で似たような話を作っています。

「オッペンハイマー」の特異性は、それが「原爆・水爆」の話である点です。

世界を火の海にし人類を滅亡させうる技術・兵器の行く末が、矮小な人間の欲望に絡めとられてしまうかもしれない。核は、人間に到底扱えるものじゃない。プロメテウスが人類にもたらした火は、人類そのものを焼き尽くすかもしれない。

その可能性が、オッペンハイマーとストローズという天才と凡人の対比によって提示されています。

可能性の暗示だけでゾッとします。恐ろしいです。これも映画の力です。史実と被害の実態だけなら、ドキュメンタリーがあればいい。事実を脚色し、再構成されたフィクションだからこそ伝わるものがあります。

「博士の異常な愛情」でキューブリックが戯画化したことを、オッペンハイマーの伝記の脚色を通じてやろうとしたのかもしれません。

「オッペンハイマー」が伝えてくるのは、「人間が作り、人間が管理する核兵器の危うさと恐怖」なんですが、日本で生まれ育った1982年生まれ41歳の僕は「そんな当たり前のこと、今更言うんかい!?」と思ったりもしました。

残念なことに、今更言わなくてならない時代にきているんですね。

10代の息子は私に『僕たちの世代ではあまり関心がない。気候変動に比べると核兵器は大きな関心事ではない』と言いました。
衝撃でした。核兵器に対する私たちの意識や恐怖心は地政学的な状況によって変化します。変化することを常に意識し、懸念すべきなのです。

NHKによるクリストファー・ノーラン インタビューより

「オッペンハイマー」へのモチベーションについて、ノーラン監督はこのように語っています。太平洋戦争から約80年が経ち、核の恐怖は薄れてきている。若い世代になればなるほど。

10歳になった僕の長男に原爆について聞いてみたら、「広島よ長崎に落とされた超ヤベー爆弾でしょ?」という答えでした。『はだしのゲン』で投下直後の様子も知っているようでした。さすがに日本は事情が違うようですが、外国では核の恐怖が次の世代に伝わりづらくなっているのかもしれません。自分自身、広島・長崎を一緒に訪れて子どもたちにもっと伝えていかなくてはと思った次第です。

当たり前だと思っていた「核の恐怖」が当たり前でなくなっているという恐怖。それを世界に知らしめたことこそ、「オッペンハイマー」の最も大きな意義ではないでしょうか。

2023年6月時点で、地球上には12,520発の核弾頭が存在すると推定されています(『世界の核弾頭データ』2023年版)。1945年8月9日から28,753日間、よく落とされなかったなと思います。

核兵器を「今すぐすべてなくせる」と言えるほど、僕はもう純粋でも無邪気でもありません。アメリカの核の傘の下にいる、欲にまみれた大人です。現実的には「決して使われないように、増やさず徐々に減らしていく」という道しかないでしょう。核兵器が地球からなくなるには、まだまだ長い時間がかかるし、その日を見ずに僕は死んでいくかもしれません。

しかし、希望は次の世代に繋がなくてはなりません。

劇中、オッペンハイマーたちは核分裂が新たな分裂を発生させ続ける連鎖反応によって世界が燃え尽くされる可能性に行き当たりました。結果的にそれは起こりませんでしたが、「核の脅威」は連鎖反応を起こし、12,520発が存在する現実を招いたともいえます。

「オッペンハイマー」を見た僕らには、恐怖でなく「核兵器はいつかなくせる」という希望の連鎖反応を広げる責務があります。僕の書いたものが、少しでもそれに繋がることを願って、終わりにしたいと思います。

「オッペンハイマー」、ぜひご覧ください。


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