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ある朝のこと

ある朝のこと。

目覚ましでいつも通り4時半過ぎに起こされた。前の晩は早く布団に潜ったにも関わらず、寝起きはあまりよくない。頭の中がくしゃっとしていた。

窓の外に少し目をやるだけで、今にも降り出しそうなことがわかる空気感だった。天気予報を確認すると、午前中から雨が降るとのことだった。

それは前半がのんびり仕事、後半が完全な休みになった四連休が終わった朝だった。夜寝る前にひとつのめんどくさい知らせと、ひとつの残念な知らせが舞い込んできたことが、曇天以上にどんよりとした私の目覚めにつながったのだろう。

とりあえずnoteをアップした。いつもならば翌日に投稿する記事をここから書き始めるが、この四連休を使いひとつだけ記事を書き溜めていたので今日は無罪放免。

今週はなかなか忙しい。そして来週からは2週間半のフランス出張。6月もかなり予定が詰まっているので、7月くらいまでは休めない日々が続きそうだ。先のことを考えると気が重くなった。学校主催のマラソン大会にイヤイヤ出場させられる気分だった。


とりあえず何か口にしたいと思い、冷蔵庫の中にあった食べかけのブドウを食べた。1日はフルーツと共に始めたいが、そのフルーツが主にリンゴの時とブドウの時がある。ここ最近の気分はブドウだった。種無しで皮ごと食べられるフレッシュグリーンとワインレッドのブドウが口の中で弾ける。が、それでも私の気分は優れなかった。

ぼんやりした頭のまま、朝日新聞のアプリを開いた。いつものように「折々のことば」と「天声人語」から読み始める。全国紙に毎日寄稿しなければならない方々はどんなに大変な思いをしているだろう。私のようにただ思いつきを書き連ねればいいだけではないはずだ。

その他の記事に目を通す。身寄りなき老後、ガザ、少子化、ウクライナ、皇位継承、防衛費…本来ニュートラルな言葉であるはずのものまでもが、新聞の紙面上でみるとネガティブに感じてしまうのはなぜだろう。


ひどくお腹が減ったので、余っていたキノコをバターで炒め、搾菜と卵のスープを作り、冷凍していたご飯をレンジで温めた。朝からしっかりとした食事になったが、それでも元気は出なかった。


洗濯物を取り込んだり、片付けをしたり、お風呂に入ったりしてみたが、憂鬱な気分はそのままだった。鬼のいない鬼ごっこで、ずっと追いかけまわされているようだった。


8時半ごろになった。起床から4時間も経っていたが、私は何か有益なことができただろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

ふと思い立って、テラスに椅子を出して本を読もうと思った。1階に位置する我が家は申し訳程度のテラスがある。中くらいの梅の木の鉢と自転車しか置かれていないテラスを有効利用しようと、アウトドア用の椅子を買ったばかりだった。

たくさんの葉をつけた梅は少しだけ萎れていた。前日の朝、水をあげるか迷ってあげなかったためだろう。これから雨が降るからきっとすぐ元気になると思い、そのままにしておいた。

鉢の中の梅は一年と少し前に我が家に来た時よりも枝を大きく広げていた。その時は枝にびっしりと花を携え、母はまだ生きていた。

あれからもう、一年も経ってしまったのか。私は、この一年で、何かを得ることができただろうか。失ってばかりではないだろうか。


椅子を出し、読みかけのミシェル・ウエルベックの『セロトニン』を開く。主人公が悪趣味な夢で目が覚めたところからきっかり2ページ読んだところで紙の上に小さなシミが突如現れる。

雨だ。

もし今私が本と一緒ではなく、ただひとりきりだったら、私は私自身が雨に打たれるがままに任せていたことだろう。だが私は、残念なことに、その時本と一緒にいた。椅子をたたみ、私も家に引っ込んだ。

なんて不自由なんだろう。


きっと今日一日、私はどんよりしながら過ごすのだろう。そんな日は私に定期的に訪れる。36年も生きてきたのだ、もうそんなことには慣れっこだ。

それよりも恐ろしいのは、そんな時に思いがけず触れてしまう“いいこと”や“優しさ”だ。「やっぱり人生、悪くないかも」なんて思うのは、もう真っ平ごめんなんだ。人生は、生きる価値のない泥沼で結構なのに。


雨に打たれた梅の鉢は、いつの間にか元気を取り戻していた。

何もかも放り出して、名前も聞いたことのない島へと逃げ出したかった。網戸から外を見ながら私は、鳥籠の中にいる気分になっていた。


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